春が来たというのに、昨日と今日はやたら寒くて、天気も「無常」だと痛感している武庫川散歩です。
ああ、そうそう。リュックベッソンのTAXIシリーズにもそんなのが出てきましたね。たしか、主人公のサミー・ナセリが載ってるタクシーの車が・・・・プジョーです。
ごめんなさい。なんの関係もありません。
さて、今日は少し古い記事ですが、ブッダのいうところの「悟り」がどういうものか端的にわかりやすく示されている記事があったのでご紹介しようと思います。
ブッダの言葉「苦しみを消すには、自分自身を変えるしかない」(プレジデントオンラインより)
http://president.jp/articles/-/12301
日々悟りを開きたいと願っているそこのあなたにとって、いったいブッダが何と言っているのか1分から2分くらいでわかる、とてもよい記事だと思います。
書いておられるのは花園大学の先生だそうですが、私も大学時代花園大学の辺りを自転車で駆け抜けながら大学に通っていました。懐かしいものです。
さて、記事によるとブッダの悟りとは、つまりこういうこと。
①すべてのものは無常で一定ではありません。誰も助けてくれません。自分で悟る以外に道はないのです。
②自分ですら自分のものでないのですから、自分の所有物などがあろうはずがなく、すべては無常だったら無常なんだってば。
③修行をたくさん続けなさい。そうすると「ふつうの人とは逆の発想になります。ふつうの人の喜びが苦痛となり、ふつうの人の苦しみが安らぎとなります。
うーん。ふだん私が言ってることそのままだな。おもしろくない(笑)
さて、ちなみに私の悟りがブッダのそれと大きく違うところはどこでしょうか。
ブッダは、そのように「全ては無常」なんだから捉われず全て捨て去りなさい、というベクトルで仏教を完成させました。
私の悟り=「エンターテイメント解脱&サイバーパンク解脱」では、おなじく「全ては無常」なんだからこそ、
・・・・楽しんじゃえばいいんじゃない?
と考えます。
ちょっと言葉を噛み砕きすぎているところがあるので、この真意はわかりにくいと思いますが、全てが「ナイに等しい」ところから出発するのであれば、「在ることの面白さ」「感じることの楽しさ」を実感してもよいのではないでしょうか。
この感覚は、こんどはブッダではなく「老子」になりますが、
知足
の境地に近いものがあります。
知足(ちそく)とは、「足るを知る」であり、「ほんの少ないものでも、自分には十分満ち足りていることを知る」という境地のことです。
欲しがりませんこれ以上。
厳密に言えば、知足とわが解脱はちょっと違うところもあるのですが、仏教的にいうところの
この世が無常=ゼロに等しいもの(存在しないかもしれない症候群)なのであれば、
ほんのチョッとでも、「ある(と思ってしまうこのセカイ)」は、それだけで十分に喜ばしいものである、
という考え方になるわけです。
私は、このセカイは存在しないかもしれない、と思っているので、それなのに存在するって感じているこの日常は
すなわち =もうけもの、ラッキー、大当たり、プラスアルファ、宝くじ
のように、「十分に楽しいもの」だと感じられるわけです。
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たどりついた結論は同じでも、ブッダのように「・・・よって全てのものは無意味なので捨てろ」というのか「・・・よって全てのものは無意味なので、失うことを恐れず味わえ」というのは根本的に異なります。
サイバーパンク的にいえば、このセカイの全てはソフトウエアのようなもので、実体がなく、いくら華やかに見えたモノでも電源が切れればモニターから消えうせるデータに過ぎません。
だからといって、ブッダのように、電源を入れない生活をする必要はないのではないか。
別に電源を入れてソフトウエアを楽しんでもいいんじゃないか、というのがサイバーパンク解脱です。
ただしそこには、「このセカイはソフトウエア(空なるもの)である」というしっかりとした確信がベースにありますから、
コンプガチャに取り付かれたように課金する
というアホなことはしないわけです。しょせんコンプガチャです。
ちなみに、うちのこどもが最近カプセルプラレールのガチャガチャにハマッています。
もう煩悩にまみれています。えらいことです。
早く父に倣って解脱して(飽きて)くれないかなーっと。なーんて。
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