2019年7月19日金曜日

■京アニを放火した男は「火あぶりの刑」が妥当か?



 解脱者でも、心がわさわさする時というのはあって、それが昨日の京アニでの火事の件でした。


 究極的には、解脱するということは諸行無常なのだけれど、それでもこの俗世において、(現時点で)33人もの人の命が、一人の人間によって奪われるということが起きてしまうこのセカイは一体なんなんだ!と強く思うわけです。



 京都アニメーションという会社の凄さも知っているし、そこに集ってきた若者たちの命が奪われたということも、これはもう



 令和が始まって、いきなりとんでもない事件が起こった



という気持ちは隠すことができません。



 犠牲になられた方々、いまも傷を抱えておられるすべての関係者に哀悼の気持ちをもっております。





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 この事件、解脱者的、あるいは哲学者的に考えても、いろいろな課題を秘めています。



◆ 1人の犯人の命と33人の人たちの命は同じ重みなのか、違うのか。




 ◆ あるいは1人の犯人の命も、33人の人たちの命も、どちらも重みなど比べられないものなのか。




 たったこれだけの簡単な問いに、哲学は明確な答えを出すことはできないでしょう。


 あるいは釈迦なら、どちらも無価値だとでも言うのでありましょうか。




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 現代の日本の司法ですら、この問題に対して明確な答えが出せません。これは司法と日本という国家の限界点でしょう。



◆ 33人の命を奪った犯人1人を死刑にさえすれば、この話は落とし前がつくとでも言うのか。


◆ 1人の死刑が33人分の命の価値を担保するか



という問いかけは、現代の司法では納得のゆく解決を生みません。



 どこかの国では、300年くらいの終身刑を申し渡すことがあるそうですが、今回の事件で、



「33回死刑にすれば、命の価値は同等である」


とでも言えるのでしょうか。




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 哲学的に考えて、もし1人の命の価値が同等であるなら、犯人が1人で、被害者が33人であるということは、33回の死刑を申し渡すことが妥当です。


 しかし、妥当ではあるが、実現不可能なことは、納得がゆくものではありません。


 では、33倍の刑罰を科すというのではどうでしょう。



 江戸時代であれば、犯人は


 火あぶりの刑


に処せられたかもしれません。


 一般的に、火というのは1000度から1200度くらいの熱さがあります。それを思うと、今回犠牲になった方々の苦しみ、痛みを思わずにはいられないのですが、



33倍の業火で攻め立てれば


なんとか命の価値が担保できるかもしれません。



ウィキペディアに温度の比較というのがあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E5%BA%A6%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83



ここで比較して、ちょうど1000度の33倍である3万3千度、という温度になるものはないのですが、




広島型原爆で3000度


太陽で5000度


シリウスの表面温度が3万2千度


広島型原爆の爆発の瞬間で10万度



といったところです。



 ざっと考えて、犯人を原子爆弾で爆破すれば、33人の命の重みが詰まった火あぶりに相当するということになるでしょう。




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 こうして考えると、江戸時代に打ち首や火あぶり、あるいは石川五右衛門の釜ゆでがあったり、あるいは北朝鮮における銃殺刑やマシンガンで粉々という刑罰が存在することには、ある程度の


「意味合い」


があることがわかります。



 北朝鮮が政治犯を銃殺することが妥当かどうかは別の問題として、


「大きな犯罪を犯した者に対するジャッジメントとして、庶民が理解できる限りの妥当な量刑を、考えられる限りにおいて提示する


ということは、政府が納得のゆく落とし前をつけられるかどうかと密接に関係するというわけです。




  33人を焼き殺した犯人がもし存在していて、その人物をただ単に絞首刑にして、それで刑罰が成立したと公的にされてしまったら、


「そんなジャッジメントは、この日本という社会で受け入れられるのか、それでよしとする裁判や行政や政府を庶民は『それでOKである』と納得するのか」


ということが明らかになってしまうわけですね。




 ですから江戸幕府は、それに対して可能な限り「理解しやすい」「納得を得やすい」量刑を生み出した、というわけです。



 それが火あぶりや打ち首獄門であった



ということになります。




 評論家の呉智英さんは、こうした量刑問題に対して



「あだ討ちを復活させよ」



と主張する人ですが、33人のあだ討ちが行われても、実は命の重みは等しくならないような気もします。


 ましてや、犯人を原子爆弾で爆破しても、それで等しくなったとはいえないでしょう。



 どうすればいいのかわかりませんが、せめて庶民感覚では、



「火あぶりには火あぶりを」


というハムラビ法典の復活が、「理解しやすい、わかりやすい」ところかもしれません。




1人殺しても死刑にはならない。


2人殺したら死刑になる。


33人殺しても、2人殺したのと同じ刑罰である。



ということを、現代の司法はジャッジメントとして成立させられるのか、それともそれは限界なのか。


 考えさせられる出来事だと思います。











 

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