さて、後編である。前編では、三木市にある「志染の石室」と呼ばれるミステリースポットにたどりついた。
伝説ではここに2人の皇子が隠れ住み、そしてのその2人は、のちにいずれも天皇に即位したという。
しかし、その話には、大いなる謎が潜んでいるのだ!!
話の経緯は以下のようになっている。
■ 雄略天皇という天皇がいた。
雄略天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87
■ この天皇、第21代だが、地方豪族との連携で成り立っていた皇室を、「専制国家」に変えたと言われるくらいの強い天皇だったらしい。
■ 考古学的には埼玉県の稲荷山古墳から「ワカタケル」の名前が入った剣が見つかったことで有名である。
■ さて、この雄略天皇、独裁体制を維持するため、親戚一同を殺しまくった。
■ そのため、いとこの市辺押磐皇子を殺してしまうのだが、これが例の2皇子のお父さんである。
■ とにかく雄略天皇が殺しまくったので、2人の皇子は逃げて隠れた。父は、近江で狩猟に誘い出され、「イノシシがいる」と偽って射殺されたらしい。
■ そこで2人の皇子は、丹波に逃げ、そこから播磨に移って志染に隠れたのである。
なるほど、ここまでの話で、志染の石室の由来がきちんとつながった。2人は雄略天皇の追ってから逃れるために、三木へやってきたのである。
さて、ここから、話はさらにドラマチックな方向へと進んでゆく。
■ 天敵である雄略天皇が死に、その息子である22代清寧天皇の時代になった。ところが子供がおらず、このままで皇室が途絶えてしまう、と心配しはじめた。
■ そりゃあそうである。清寧天皇の父である雄略天皇が、親戚一同殺しまくったからだ。
■ そんなおり、清寧天皇の使いのものが、たまたま播磨に用事があって仕事をしていた。
■ 2人の皇子は志染地方の村主のもとで馬飼いとして働いていたが、その天皇の使いが村主のもとに訪れたので命がけで正体を明かしたという。
■ これはえらいこっちゃ!と使いは都に2人を連れて帰り、清寧天皇もそれを認めたので、彼らは皇位継承権を取り戻した。
■ その後、弟のほうが先に即位し23代顕宗天皇となり、のちに兄が即位して24代仁賢天皇となったのである。
なんと、逃げ隠れていた2人は、皇籍に復帰することができたのだ!
そして、にっくき雄略天皇に仕返しをするように、相次いで天皇に即位することができたのである。
実は恨みを抱いていた兄弟であるため、弟のほうは天皇に即位すると、復讐として雄略天皇の墓を破壊しようとするが、兄はすこしだけ陵を掘っただけで中止し
「仮にも天皇になって世を治めた人の墓を壊すのはよくない。また、父の仇ではあるが、叔父でもある」
といさめて、復讐はそこで終止符を打ったという。
さて、この兄の仁賢天皇は、敵である雄略天皇の娘である「春日大姫皇女」を皇后とした。
この二人の間に生まれたのが25代武烈天皇である。
ところが、ここから話はまた、きな臭くなってくる。
■ 武烈天皇はヤバい。妊婦のお腹を切り裂いて子供を覗いたり、人の爪を抜いて芋を掘ったり、人を木に登らせては矢で射殺したりした。
■ とにかく悪逆非道の限りを尽くしたらしい。
■ そのことと因果はまったくわからぬが、子供がおらず、そのまま無嗣のまま亡くなってしまった。
なんだか、ワカタケル雄略天皇の生まれ変わりなのか再来なのか、それくらい恐ろしい天皇が再び現れてしまったのである。
そして、雄略天皇時代から尾を引いているのだが、親戚を殺しまくったがゆえに、ここで皇統が途絶えてしまったのだ!!
ここからの流れは、
■ そこで大臣や豪族たちは、まず丹波にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王を呼んでこようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て「殺しにきた」と勘違いしたために逃げてしまった。
■ そのため次に越前国三国にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を招くことになった。
■ これが継体天皇である。
という感じである。
この継体天皇、即してから19年間も都に入らなかったり、天皇から5世も離れているので、古代史的には「ここで王朝交代が起きたのではないか?」と常に話題になっている有名人である。
また、その陵墓も、現在の継体天皇陵のとなりにある大阪府高槻市の「今城塚古墳」なのではないか?と言われたり、何かと話題が尽きない。
今城塚古墳は、日本最大の古墳フェスが開かれている「古墳の聖地」ともいうべき古墳なので、さらにコーフンしてしまうだろう!!
ここで、前回の「前編」のいちばん最初に出てきた「謎」の伏線が回収されたわけだ。
つまり二王子が存在しなければ、継体天皇にまでたどりつかないのである。
その意味で「ゆかりがある」っちゃあ、あるのだが、これを説明するのには
「看板ひとつでは無理!!書ききれない」
ために、まるっと省略されていたのであった(笑)
しかし、ここまで経緯をまとめてみると、なんだか異様な感じがすることは間違いない。
そもそも皇室史の八つ墓村みたいなことになっている「雄略天皇」の呪いみたいなエピソードが、武烈天皇に受け継がれているのも不可思議だ。
いったいこれは史実なのか?それとも何かを伝えようとする暗号なのか??
いずれにしても、このあたりに「何か大きなトラブル」が皇室にあったことは疑いがなさそうである。
二王子としては、敵である雄略天皇への復讐をとりやめて、心静めて皇位をまっとうしたわけだが、その息子が雄略天皇まがいの非道を行うのは、なんとも不可思議である。
あるいは、仁賢天皇が、雄略天皇の娘である春日大姫皇女と結婚したのが悪かったのだろうか?
もしここで「雄略の遺伝子」みたいなものが作用したのであれば、それはたしかに武烈天皇が、雄略的行動をとったのもわからんでもない。
ところが、である。
不可思議なのはさらにここから先があるのだ。
■ 継体天皇は、、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした
のである。この女性、春日大姫皇女の娘である。(つまり仁賢天皇の娘でもある)
だとすれば、雄略天皇の血統は、絶やさないように工夫されているのである!!!
これは、継体天皇が「皇室の直系度合いが薄い」ために、妻方を通じて直系度合いを維持しようとするしくみであると解釈されているが、いずれにせよ
「雄略天皇 → 二王子 → 継体天皇」
への移行期間に、何事かが起きていた ことは疑いがなさそうである。
というわけで、次回はこの背後にひそむ、さらなるミステリーについて不思議発見するのであった!!
まて次回!!
(後編へ続く)