昨日は、テレビ初放送ということで「かぐや姫の物語」をご覧になった方も多いことでしょう。
今回ワタシもじっくり拝聴したのですが、原作の「竹取物語」に忠実な部分もあり、また翻案されている部分もあり、楽しく見ることができました。
ところで、全体を見終わって、ひとつ実に簡単な感想をいただいたことがあります。
それは
「ああ、これは悟りと解脱の物語なのだ」
ということでした。
象徴的なのは、やはりかぐや姫が月へ帰るシーンで、月からの迎えがなんと
「如来来迎図」
状態になっているところだと思います。
如来来迎にしては、奏でている音楽がやたらポップだったのは苦笑しましたが、まあ、簡単にいえば
「美しいかぐや姫を、ホトケさんが迎えに来る」
絵になっているわけです。ちょっとシュール。
ふつうのイメージだと、月からの迎えはどちらかといえばこの世のものではない高貴な何か、という描かれ方をしそうなものだと思いますが、ジブリ版「かぐや姫の物語」では、そのものズバリの如来像だったのでなかなか面白いわけで。
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さて、そうした絵柄になっているのも、もちろん製作者の意図があります。竹取物語の舞台となっているのは、奈良時代の初期、登場人物のうち
阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂
の三人は実在の人物なので、話が奈良時代だとわかるのです。
この奈良時代、奈良の東大寺で有名なとおり、「仏教バリバリ」な時代です。この現世は穢れていて、すべての煩悩を取り去った清浄なる世界が悟りのあちら側だと考えられていたまさにその時代の話であるので、映画で描かれているように、
「月の世界は悟りの向こう側、清らかで迷いなき世界、対して地上の世界は不浄である」
という世界観は時代背景とマッチするわけです。
ちなみに、「讃岐のみやつこ」ことかぐや姫のおじいが、お金と身分とぜいたくな暮らしや名誉にまみれてゆくさまは、たしかに現世の煩悩をイメージさせます。
いっぽうのかぐや姫は、「草木やけものや虫の世界」のすばらしさを常に感じ取っているわけですが、この部分は監督の創作です。
竹取物語の根幹でいえば、「聖なる月の世界と不浄なる地上世界」の対比構造だけをみることになります。
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さて、このように、「かぐや姫の物語」の基本構造に「仏教的悟りのあちら側と、煩悩なこちら側」が舞台装置として設定されていることがわかるわけですが、ではあなたは、いったいどちらの世界に幸せを求めるでしょうか。
ここが、「かぐや姫の物語」を説くカギとなります。
☆注意☆ 「竹取物語」本体ではなく、あくまでもジブリの「かぐや姫の物語」の観点です。
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一般論でいえば、悟りをひらくというのは、俗世の欲から解き放たれて、無欲で清浄なる世界へ到達することを言います。
つまり、月の世界へ帰ってすべてを忘れてしまう、あるいは何も感じなくなることを指します。
地上の世界の人間は、さまざまな欲を持っており、5人の公達に代表されるようにみな嘘つきであったり、不誠実だったりするのです。
かぐや姫のおとんですら、名誉と地位に心を奪われてしまいます。
そうした地上世界の醜さと対比される月の世界は、たしかに「解脱の向こう側」にあると言えるでしょう。
しかし、かぐや姫の観点は違います。その聖なる世界を否定こそしませんが、「生きとし生けるものの自然な世界」に対して憧れを抱き、そのためにそれを罪として地上に落とされるわけです。
あるいは、物語中に出てくる「羽衣の天女(いちど地上に行った事がある)」もそうだし、月へ帰る途中のかぐや姫もそうなのですが、「草木やけものや虫たちの世界」にうしろ髪を引かれて涙を流すのです。
これはいったいどういうことか。
監督の意図を想像すると、
①地上の世界は、たしかに汚れているし、問題もある。
②ただし、自然と協和した農村社会も存在する。
③農村社会万歳というわけではなく、もちろんそこにも問題や苦しみ悲しみは存在するだろう。
④しかし、完全に清浄な世界よりも、問題はあっても人間らしい地上のほうがすばらしい。
ということになるでしょう。
単純な「都会はダメ、田舎は良い」という話でもありません。その証拠に、おとんや捨丸といった主要な登場人物はみな都会でも田舎でも姿を現します。あるいは、都会における侍女は、最初から最後までかぐや姫のよき隣人として描かれます。
つまり、究極的には
「人間の世界と神仙の世界とどっちがいいか」
という対比でもあるわけです。
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悟りを得ようとすること、解脱して解き放たれたいと願うものは、「無感動無関心な月の世界」を求めていることと同義です。
解脱して、すべての悩みから解き放たれることは、すべての喜びすらどうでもよくなることなのです。
このブログを書いている私は、解脱者ですから、基本的にすべてが「無常であり、どうでもいい」ことに気付いています。
しかし、仏教が求める解脱は、その時点で止まっていますから、実は真の意味での解脱にはそこからもう一歩先があるのではないか、と思うのです。
それが「かぐや姫の物語」では描かれています。
一度は解脱して、無常な世界・清浄な世界・ニュートラルな世界を知っている者にとって、
「苦しみも悲しみも、汚さも含めて、生きとし往けるものの世界は、輝いている」
ということに気付くことは、「悟りの先にあるもの」ということになります。
このブログの書き方で言えば、
「この世は存在しないに等しいのに、それを存在するかのように感じ取る機能が与えられているのだから、それを味わおうよ」
というスタンスと全く同じです。
「嫌なことや苦しいこともあるけれど、その体験はすばらしいものなんだ」
ということです。
「全てが無常でどうでもいいんだから、守るべきものなんでひとつもないので、全部楽しんじゃえよ」
ということなのです。
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かぐや姫は月に帰ってしまいましたから、その楽しみを味わうことはできません。
しかし、地上に残された人間は、かぐや姫の存在を知れば「ああ、自分たちはむしろ幸せなんだ」と気付くチャンスがあるわけです。
あなたは2度悟ることができます。
1度目は、この世界が無常であって、なきがごとしであるということの悟り。
2度目は、だからこそ、この世界であなたが感じるすべてが輝いているということの悟りです。
ブッダは、一見すると一度目の悟りだけを説いたように思いがちですが、そうではありません。彼は恐らく、2度目の悟りまでふくめてわかっていたはずです。
なぜなら、彼が解脱した直接のきっかけは、スジャータがもってきてくれた乳粥にあるからです。
「ああ、私は生きている」
という生の喜びを実感したとき、彼にはきっとすべてが繋がったのです。
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・・・とまあ、今回ははじめて全編おふざけなしで書きました。この武庫川散歩、やればできる子だというところも、たまには示しておきます(^^
この記事を最初に読んで、他の記事も読んでみようと思われたあなた、やめといたほうがいいです。
今日はとてもおだやかですが、いつもは
ゲスの極み
みたいな口調で書いてますので、幻滅するに違いありません!
それではみなさま、ごきげんよう。
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