御嶽山噴火のニュースが、大きな注目を集めているところです。
人がたくさん亡くなっているので、今回はあまりふざけずに書きますが。
山が噴火する、という当たり前の事実に対して、現代人があまりにも無警戒になっていたなあ、というのが率直な感想。ニュース等でも言われていますが、「雲仙普賢岳のことを忘れてしまっている」というのは正しいと思います。
自然災害は、まさに諸行無常の象徴でもあります。人間の感覚でいうところの「誰も悪くないし、誰も責任がないのに」災難が降りかかり、人が傷つき、亡くなったりする。
さっきまでふつうに会話をしていた人が、命を失ったり、さっきまで笑顔だった人が、息をしなくなるという現実。
私たちは生きているようでいて、死はすぐ隣り合わせのところにある、ということでもあります。
また、人から見れば災害を起こした自然は「悪」のように思えるかもしれないし、それをコントロールすべきだと思うかもしれません。
しかし、自然の側から見れば、そんなことは知ったこっちゃなく。雨は降るし風は吹くし、マグマがたまれば外に出るだけです。
今回の噴火で亡くなった方は、まさに不運、まさに偶然の結果によって、そうなったということに過ぎないのかもしれません。
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武庫川散歩的には、仏教でいうところの「因果」のような考え方や、キリスト教でいうところの「信仰のある生活」といった考え方を明確に否定します。
平たく言えば、なにがしかの「悪い行いをしていたから、罰を受けるんだ」というのが因果の考え方です。
また、「神の言うとおり、よい行いをすれば救われるんだ」というのがキリスト教の信仰の基本です。
私の考え方は、そんなもんは一切関係がなく、いいも悪いも無関係に「それは起きる」ということです。
今回、災害に遭遇して亡くなった方は、そういう意味では「不運(タイミングが悪かった・めぐり合わせが悪かった)」と言うしかないでしょう。
悲しい、というキモチになることではありますが・・・。
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噴火のみならず、つい先日の広島の土砂災害や、その前の福知山の浸水など。もっと言えば阪神淡路大震災や東北の震災など、
「いのちが無常である」
ということに気付かされる出来事は、そこかしこに溢れています。
しかし、私たちは「どうせ死ぬんだ」と思いながら生きているわけでもなく、また「私は常に安全だ」と確信しているわけではありません。
ふだんは「自分はそれなりに安全だ」となんとなく思いつつ、事件や災害が起きるたびに、「もしかしたら・・・」とちょっと不安になるような、そんなちっぽけな存在として生きています。
解脱してしまったしょーもない人間から、もし何か一言言わせていただけるのだとしたら、私はこんなことを伝えたいと思います。
「良い行いをしていれば救われるなんてことも、悪い行いをすればバチを受けるなんてこともなく。このセカイはもう少しドライでもあるし、もうすこし無慈悲で酷いことも起きる。今日のいのちが明日も続くかは、誰にとっても保証がない、わからないことである」
「じゃあ、そんな無常なセカイでどう生きる?どうせ死ぬならと好き勝手生きるのか?どうせ死ぬならと自ら命を絶つのか?」
「そうではなく。どうせ死ぬし、どうせ無常なセカイなんだからこそ。今のこの一瞬一秒を『悔いなく、全力で』生きよ、ということではないのか」
と。
スティーブ・ジョブズが信念としていた
「明日死ぬと思って、今日を生きる」
という言葉の原典は、マハトマ・ガンジーだそうです。
この言葉には、とても深い共感を覚えます。
どうせ無常なセカイなのだから、精一杯生きてみませんか?
災害救助、とくに遺体の収容に向かわれているチームのみなさんのことを思うと、胸が熱くなります。
どうせ死んでいる。
どうせ助からない。
なんてことを思いながらでは、現場には向かえないでしょう。
あるいは、そう思っていても、それを乗り越えてゆく勇気、自分の身を危険にさらしてまで行く勇気は、ものすごいものです。
でも、日本の救助隊の人たちは、誰一人「俺はいかない」とはいいません。
もし、あなたがその任務を負っていたら、あなたも行くはずです。
無常なセカイであっても、全力で生きることは、実は誰にでもできることなのかもしれません。
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