2014年10月15日水曜日

原理主義を読み解く ~少年よ悟りを開け~

 しかし、まあ、なんですねえ~。

 というツカミは、桂小枝師匠の定番ネタですが、最近の武庫川散歩はずっとそんなキモチです。


 おひさしぶりですね。あなたの武庫川散歩です。


しかし、まあ、なんですねえ。イスラム国の話題とか、ヘイトスピーチの問題とか、日中のわだかまり、日韓のわだかまりとか、いろんな事件が起こっていますね。


 それらに共通する、「原理主義」的な感覚と言いましょうか、ある思想・考え・傾向に固執してその方向に突き進む姿をよく見かけるようになりました。


 原理主義的な感覚そのものは、もともとは純粋な感覚に近いので、一見すると、そのカテゴリにおいては


 正しいこと


のように見える場合があります。


 それが、誰かを思想的に魅了したり、その正しい感覚ゆえに、誰かを突っ走らせたりするのですが、私は少し違う視点でみています。


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 あ、ちなみに今日も、いつもよりかは真面目な話しぶりでお届けするつもりです。念のため。



 さて、昨今のように原理主義がはびこるのには、当然理由があります。その一番明快な答えは


「資本主義と現代型自由主義の終焉」


に他なりません。


 わざわざ私のような偉い解脱者が言わなくても、誰かが解説しているでしょうから、さらっと流しますが、ご存知の通り「資本主義」「自由主義」が一定の破綻をきたしつつあることは明らかですね。


 例えば、「資本主義」。


 日本をはじめとした先進諸国が、いちおう資本主義を標榜しているものの、リーマンショックやバブル崩壊など、いろんな経済的「もう、ムリぽ」な事態を引き起こしており、そもそも莫大な借金を背負いながら日々を過ごしている政治なんでどうやねん!な状態ですから


みんな、実は内心ドン引き


であることは明白です。


 「自由主義」社会だってそうです。これまでは「先進国民だけが自由」でしたが、あれよあれよと他の国まで豊かになってしまい、自分たちのパイを食われるようになると、自由主義の本音がつい漏れてしまいます。


 「俺たちは豊かであるべきだが、お前たちはもうちょっと非豊かであってほしい」


と。


「誰もが核を持てる自由な社会」


だなんて、誰も叫びません。ね、矛盾してるでしょ?最初から。



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 そんなこんなで、先進国であっても途上国であっても、全世界の国民が気付きはじめているわけ。


「どうも、これまでの世界秩序の枠組みには、問題があるぞ」


と。



 だから、そのどちらでも「不満や不平が起こり、それは互いのせいだと感じている」わけです。


 途上国が伸びてくると、既に利権を持っていた先進国民は抑圧されます。いやいや、途上国だって、先進国に抑圧されていたからこれまで伸びなかったんだ、と思い始めます。


 互いに、いろいろ思惑が生まれる。大変な事態です。



 こういう時に、「原理主義」は芽を出しはじめるわけです。


 わが国の歴史において、もっと原理主義的だったのは幕末から明治維新にかけてですね。


「そもそもわが国は、天皇を中心とした神の子孫による国家であり・・・」


という思想・感覚。実に原理主義的でありましょう。


 まあ、それは遠い昔のヨタ話だったわけですが。




 「原理原則に立ち返る」それも「正義の意味において」という原理主義の考え方は、


 小学生の終わりの会


に似ています。


 
「せんせー、山田くんが今日掃除をサボりました~」


「いーけないんだー、いーけないんだー、言ってやろー、言ってやろ」


「山田君はスカートもめくっていました。いけないと思います」


「いーけないんだー、いーけないんだー」


「ほら、山田なんとか言えよ~!」


「だまってんじゃねーよー」


というヤツです。



 原理原則に従えば、掃除をサボるのも、スカートめくりも「いけないこと=悪」です。その悪を正すために、一生懸命みんなで山田を叩きのめします。



 しかし、「個人攻撃」はどうなんでしょう。


「チクる」のはどうなんでしょう。


「全員で恫喝する」のはどうなんでしょう。



 個人攻撃は悪であり、反論の機会やチャンスはあってしかるべきです。もしかしたら山田くんは具合が悪くてトイレにこもっていたのかもしれません。

 チクるのは、こども社会においては「最大の悪」です。絶対に守らねばならない子供憲法第一条です。それなのに先生に言いつけるなんて、ひどいことです。

 全員で攻め立てるのは悪です。それを人は「いじめ」と呼びます。



 原理主義が持つ問題点は、ここ!なのです。原理主義に染まってしまうと、それから逸脱した思想や行動は、その時点で絶対悪とされてしまい、糾弾されます。


 しかし、人の世において「絶対悪」なんて存在しません。悪も善も、相対的なものだからです。



 いや、悟りを開いた武庫川散歩からすれば、悪も善も、そんなものは最初から存在しないのです。依拠する対象ではありません。


 
 世界が存在しないのに、悪も善もクソもないはずでしょ?


 だから聖子ちゃんはクソをしないのです!・・・ちがうか。



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 従って、原理主義を追求することは、言い換えれば「小学生レベル」だということになります。せめて中学生レベルになってほしい。

 できれば「中学生日記」を見直してほしい!ものです。


 
 とはいえ、原理主義にハマる人がたくさんいるのも事実で、それは「やはり、自分の生き方の指針になるものを見失っている」人が多いから、そうなってしまうとも言えます。



 なぜ、安保闘争がうまくいかなかったのか。それは当時の学生たちが、「いい会社に就職する予定があって、経済成長伸び盛りの社会に生き」ていたからです。


 もっとも賢かった彼ら(国内で最も高い学歴と学力を持っていた)には、平和で幸せな未来が待っていた。だから安保闘争はうまくいかなかったのです。


 だから彼らは、現実を見つめることができました。(できなかった一部の人だけが、あさま山荘事件を起こしたり、よど号を乗っ取ったりしたわけです)


 

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 これから、日本社会はこれまでのように経済的に豊かで幸せいっぱい夢いっぱいではなくなります。


 なので、原理主義的な考え方がはびこる要素がたくさんあります。


 私は、そうした考えに染まるのではなく、ぜひ「悟りを開いて」ほしいと願っていますが、この願いが届くかどうかはわかりません。



 なぜなら、このブログのアクセス数があまりにも少ないからですっっっ!!!


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