2015年6月19日金曜日

「認められたい症候群」 ~承認欲求を真に悟れば、人生はうまくいく~

 鬱陶しい梅雨が続いていますが、みなさんいかがお過ごしですか?


 鬱陶しい男、武庫川散歩の時間がやってきました。今日はいつものテイストに戻ってヨタ話を繰り広げますので、お楽しみに。




 さて、仏教において、釈迦は「人生の苦しみ」の原因を煩悩であると定義しました。


 なので、仏教修行においては108つとかいう煩悩を捨てることを意識するわけですが、現代社会においてみなさんの幸せを考えるに当たっては、まさしく


 煩悩に相当するような、この世の苦しみの原因


なるものが存在します。




 というわけで、現代社会の煩悩こと「承認欲求」について今日は語ってみましょう。





 プレジデントオンラインより なぜ「認められたい」に暴走する若者が増えたのか
 http://diamond.jp/articles/-/39524




 今日の参考文献はプレジデントオンラインさんから。この記事だけでなく、現代人はなんせ



「認められたい・承認されたい」


を人生の第一義として生きておられる方が増えています。



 記事中に出てくる問いかけは、とても現代の病理にマッチしています。


「なぜ今の若者は有名企業をすぐに辞めるのか?」
「なぜ優秀な若者がNPOで働こうとするのか?」
「なぜ若者は何の報酬ももらえないのにSNSで発信するのか?」
「なぜ若者は友達がいないことを異様に気にするのか?」
「なぜ若者はソーシャルゲームに夢中になるのか?」
「なぜ若者はずーっとスマホをいじっているのか?」


 そう!これらの答えはみな、「誰かに認められたいから」という観念が根底にあるからです。


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 もちろん、認められたいという気持ちは、それ自体は悪いものではありません。


 親に認められたい、地域に認められたい、会社に認められたい、社会で認められたい、などなど。



 どうして「認められたい」気持ちが生じるのかも、実は簡単なことです。人間は社会生活・グループ生活を送る動物ですから、集団で行動します。


 狩猟採集民の時から、力をあわせて狩をして、農耕を始めてからも集団で農作業をするものですから、


「集団・周囲・他者から立ち位置を認定される必要が生じる」


のはいたし方がないのです。




 ところが、こうした集団からの認定・任命・認知は、古い時代には社会的にそうしたシステムがあったので、若者をそれほど苦しめることはありませんでした。


 たとえば、家族の中では


「長男としての立ち位置、娘としての立ち位置」


なんてものは、生まれた時から決められていたし、(家を継ぐとか嫁に出て行くべきとか)


「ムラにおける祭りへの参加の許可とか、成人通過儀礼とか」


を考えると、一種めんどくさい因習でもありますが、若者はどこかの段階で「なにがしかのポジションに認められる」ということが多々あったのです。


「会社員として、会社に所属する」


なんてのも、当たり前ですが社会人としてめっちゃくちゃ承認されまくる機会でした。



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 ところが、現代は「個の社会・個別の社会」なので、兄弟は平等、男女も平等、祭りは捨てて都会に出る、隣は誰かもわからない、という状況になっています。


 同様に「会社はいつまであるかわからない。社員の身分も不安定。どこに所属しているかもあやふや」な社会人では、とにかく



「確固たる自分、しっかり認められた自分」



がどこかにないものか?と漂流するのは当然かもしれません。



 このあたりは、記事の中でも「家族や仲間、社会からの承認が得られにくい時代」になっていることを説明されているので、頷くところが多いと思います。




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 というわけで、現代の「承認されたい症候群」の人々は、ときには「いいね」を求めて、ときには「RT(リツイート)」と求めて、ときには「リア充の称号」を求めて彷徨い歩くのですが、それがちょっと世間とズレていたりすると、


炎上


してしまったりするという難しい時代なのですね。






 しかし、悲しむことはありません。



 悟りを開いてしまえば、そんな表面的な「承認欲求」に悩まされることなく、真の意味で自由を得て心を開放することが可能です。



 そう。仏教的な悟りとか解脱とか、小難しいことはいっさい言わなくても、「承認欲求」さえクリアすえば、人は


すがすがしい境地


に到達することが可能なのです!!!ババーン!!



 これはまさしく、現代の解脱といっていいかもしれませんね(^^



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 では、「承認欲求」から逃れるには、どうしたらいいのでしょうか?



 承認欲求とは、簡単に言い直せば「認めてほしい・認められたい」ということですから、その逆は




「もう、認めちゃった」



ということに他なりません。そうです。もっとも簡単な解決法は、先に自分で自分を認めてしまえばいいのです。未来形と過去形のちがいです。



 たとえば、「解脱者・武庫川散歩」を私は先に名乗っていますので、もう怖いものはありません。


 なんてったって解脱者認定してますから、迷うことはないのです!




 ガッツ石松さんなんかは、もっとすごいです。なんてったって自分でガッツを名乗っているので、彼がどんなポーズを取ったとしても、それはすべて


 ガッツポーズ


なのです!こりゃかなわん!



 パンチ佐藤もそうですね。誰かに認めてもらうより先に、もうパンチなのです。頭が!


 ダンディ板野だってそうです。彼をダンディじゃない!なんて否定する人はいません。ゲッツ!


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 このように、あなた自身をあなたが認定した瞬間から、あなたは承認欲求から開放され、あなたというアイデンティを手に入れることができます。とても簡単ですね。


 たとえばあなたが寺西さんだとすれば、今日からtwitterの名前を



「ロンリー寺西」



にするだけで、もう、友だちがいなくても大丈夫なんです。だって、ロンリーなんだもの!


 もしあなたが、西郷さんなら、「ゴルゴ」を名乗れば、もう親戚友だち近所の連中がみんな敵でもまったく問題なく生きてゆけるはずです。



※注 あの眉毛が太い人は、「デューク東郷」であって、「ゴルゴ西郷」ではないので、間違えないように。



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 さて、ここまで読んでたいていの人は、


「じゃあ、自分は自分の何を認定すればいいのか」


ということを考えるかもしれません。自分にはそんな人に誇れるようなキャッチーなものはないとか、ひとくくりにできるような要素が見つからないとか。



 そんなことはどうでもいいんだ!!!!


 っていうか、認知・認定そのものだって、実はたいしたことではないのだ!!!



 この吹っ切れた感じが大事です。だってガッツ石松が「ガッツである意味」なんてあるわけないでしょう?「フック石松」でも「カウンターの松」でもなんでもよかったんだから。もしそういう歴史だったら、日本に「カウンターポーズ」というものが生まれてただけなんです。


 ダンディ板野とムーディ勝山の区別つかない人だってたくさんいます。それでもいいんです。ダンディとムーディはしっかり彼らの人生を生きている!!


 ゴルゴ西郷なんて存在しないのに、いそうな気がするでしょ?そんなもんなんです。



 だ・か・ら、あなたがあなたをどう認知するかなんて、どうでもいいことなのです。問題はそこではなく、


「ああ、シャネル雪江がいまここにいるのよ!!」


と思うことが大事なのです。シャネルをひとつも持ってなくてもいいんです。でも、シャネル雪江はそれだけで、気品と美しさを備えなきゃと思えるんですから。



 なので、とりあえずは好きな言葉であなたを認定してみてください。


 本が好きなら


「本の虫・吉田」

でもいいんです。本の虫吉田は、本が好きなんだから、人間の友だちがいなくても平気なのだ、と。


「SNS前川」

でもいいんです。俺がSNSなんだから、振り回されるんじゃなく、俺がセカイを振り回すんだ!と。


「フリチン達也」

でもいいんです。俺って、うそいつわりのないお茶目なヤツ、なんだから。





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 悟りを開くということは、ひとつは承認欲求から自由になることです。自分で自分を承認していれば、恐れるものはないからです。


 そして、その自分自身の認知認識も、実はいいかげんなものなんだということがわかれば、二重の意味で自由になれるはずです。



 こうなると、何もかもが「定まったものでなく、きちんとした自分ではない」ということがわかると思います。これが無常なのです。これが色即是空なのです。



 理屈を追えば、すべてが無常なのに、それでいて自己がきちんと定まってくるところが、悟りの面白いところです。


 これはつまり、「きちんとした価値観を超越したところで、自分を確立する」という行為であり、西洋哲学的に言うと


「自我」


を体感する、ということに他なりません。



「ああ、私はわたしなんだ。ああ、わたしはいいかげんなものだけれど、たしかにわたしはここにいる」

という実存そのものです。



 

1 件のコメント:

  1. 心の底から笑いました!そしてスッと楽になりました。
    武庫川さまの表現力に脱帽です。分かりやすい解説ありがとうございます。

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