2015年6月6日土曜日

「こころ教」と「原理主義」の時代 ~ビジネスパーソンのための仏教入門を読む~

 やや、期間が空きましたが私は元気です。


 そういえば、この間シャープの中の人がこんなツイートをtwitterでしていましたね。



 ”落ち込んだりもしたけれど、わたしは元気です”

 https://twitter.com/SHARP_JP/status/598836153333092354



 「魔女の宅急便」の映画コピーですが、そんなこと言うてる場合か!


 まあ、会社のキキ(危機)だけに。 言うてる場合か!



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 そんなツカミはともかく、日経ビジネスオンラインでの連載がなかなか面白いので、紹介しようと思います。



ビジネスパーソンのための仏教入門
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150604/283913/?P=1



 この連載、佐々木閑さんという方が仏教の現状についてあれこれ教えてくださる楽しいお話なのですが、これまでにバックナンバーをひもとくと



”日本の仏教はシャカの教えではない”

”タイの坊さんがグラサンでグッチのバッグでもOKな理由”

”お寺の税金はなぜ免除されているのか”



などなど、興味深いネタが満載なので、みなさんもぜひどうぞ。



 そしてまあ、なんですねえ。そんなこんなで第四回は、現在の仏教が何を失って、何に逃げているのかというお話だったのですが、詳しくは元ネタをどうぞ。



 ここでは概略だけを述べておきますが、そもそもまとも・まじめに仏教や哲学について考えようという人は、入り口やスタートラインの時点で疑問に思ったり躓くことがありますよね?



 それは、仏教でもキリスト教でもいいのですが、


「(天上かどこかにいるらしい)ホトケ様や神様は本当に存在しているのか?」

「死後の世界や霊の世界はあるのか?」

「っていうか、それらは科学的にどうやねん。物理的にどこにあるねん?!」


というそもそも論な疑問・疑惑と言っていいかもしれません。




 いくらなんでも、現代の先進国の人間に対して、


「神様はいるんですよ」

と説いても、

「どこに?」「証拠は?」「連れてきて」「その神は外人?鼻高いの?」「しゃべるのは何語?」

などと、極端に科学的に具現化された話でつき返されるのがオチです。



 ところが、全ての宗教は、この話にきちんと対応して返事をすることができません。



 ここが、宗教の現代的問題の本質であって、もうこれから先に「宗教をよりどころとできない」根本的な理由になるのです。


「神様はいるんですよ。地上3760キロメートルのところからぐるぐる回って、全人類の言葉を聞き分けておられます。定期的に地上にも来ていますが、ふつうの人のような姿になっているので誰も気付きません。しかし、しっかりあなたの行いを見ています。容姿は全ての人種を足して割ったような中世的な顔立ちでチン○もマン○もついてます。バイリンガルです。もちろん。時には、銀河系から出ていってその外の世界にもワームホールで出入りしてます。あ、もちろんワームホールも神様が創ったんですけどね。その構成元素は地上にはないので、名前はついていませんが、私たちはS69元素EX-0721と呼んでいます」


とか言ってる教祖がいたとしたら、これはもう信仰どころではなく、


「大槻教授、対決お願いしまーす!!!」


の次元ですよね?


 というわけで、もし仮に真の宗教があるとしても、それはなんだかとてもトンチンカンな感じになってしまうということになります。



 そこで、記事にあるとおりに既存の宗教は、逃げなのかすり合わせなのかわかりませんが、



「神は心の中におられる」


とか言い出すのです。



 この分野、キリスト教では特に真面目にガチで考える人が多くて、


「ほんまにノアの箱舟はあったのか」

とか

「モーセは紅海を割ったのか」

とか

とにかく聖書に書いてあることを科学的に証明しようというプロジェクトは山ほどあります。


 しかし、それでは完璧にいくわけもなく。


(だってそうでしょう。キリストが水の上を歩いたことを証明とかできませんやん。パンを無限に増やしてみるとかも、無理ですやん)


なので、聖書学者はこれまたきちんとした学説として


歴史的事実(現実に起こったこと)と信仰的事実(信者がそう感じたこと)は違うが、信仰的にはそれらは事実として受け止められているんだ」


なんて言い出すわけです。



 こんなこと言い出したら、


「源義経が歴史的には死んだけれど、大陸に渡ってチンギスハーンになったんだ」


は、もう信仰的事実です!


「源為朝が歴史的には死んだけれど、沖縄に渡って子が舜天になったんだ」


は、もう信仰的事実です!いや、こっちは沖縄の正史として認定されているそうなので、恐ろしいことですが。



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 話があっちこっち行き過ぎましたね。


 さてこんな風に、現代の宗教はどうしても「科学的に整合しないことは『こころの問題』として、棚上げしないと無理」なハメに陥っているわけですが、これがまた


 意外と何言ってるかわからないから、万人受けする


ので困ったものなのです(笑)



「あなたの生き方は、あなたの心が決めるのです」



なんて言うと、なんかいいこと言ってるみたいでしょ?でも、



「あなたのローンは、あなたが決断してはんこを押すのです」

「あなたの嫁はんは、あなたが叱り飛ばすべきです」

「あなたの息子がやったことは、あなたが責任をとりなさい」

「あなたのハゲに、この製品を購入しなさい。さあ、今すぐ!」


となると、とたんに嫌な感じが満載なのはナゼでしょう。おなじことを言っているのに!





 つまり、何言ってるかわからないことは、いいことのように思えちゃうのです。




 あいだみつをさんなんかいい例ですね。


「つまづいたっていいじゃないか、にんげんだもの」

法廷で被告人弁論で、こんなこと言ったら即満場一致で死刑ですよ。





「そのうちそのうち べんかいしながら日がくれる」

いやいや!全然いい言葉じゃなくて、ただのダメ人間ですって!部下がマジでこれだったらリストラしたい!



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 また、脱線しよりますので、戻します。


 というわけで、ふわふわとした「こころ教」(佐々木さんの造語です)が広まると、今度はその反対のベクトルとして


原理主義


が注目されるようになる。これは重要な視点です。


 宗教が「ふわふわといいことばっかり言いやがって何の役にもたたん!」となれば、真に困窮している人は、より


「原典にちかい所、原点に近い宗教」


に答えがあるのではないか、と思うようになるのです。


 だから、イスラム教でも一定数が原理主義に魅了されるのです。キリスト教でも、「聖書に帰れ」的真集団は次々に登場している現実があるわけで。



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 このブログを読んでいればわかるとおり、武庫川散歩はどちらかと言えば原理主義者ですので、それも科学と整合しなきゃ嫌なタイプの原理主義者なので、あまねく世界の宗教家の中で唯一といっていいほど、


ふわふわしたよいことなんて、これっぽっちも言わない


人間であることは間違いありません。


 そもそもこの世界が存在しない、という原理原則で動いているので、



「生きるとか、いのちとかどうでもいい」



というのが本音です(笑) ・・・なので「どうせ死ぬんだからどうでもいい」な中島義道先生の理屈とちょびっと合うのです。




「ブサイクだっていいじゃないか、ブサイクなんだもの」


「そのうちそのうち 弁解してるヤツは氏ね!!!!」


 ・・・さんぽ。








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