2016年12月13日火曜日

さみしさ とは何か ~どうして人はグレるのか~




 先日からとある事情で『寂しいとはどういうことなのか』についてずっと考えています。



 これはとても簡単な話のようでいて、実はかなり奥深い問題なので、さすがの解脱者・武庫川散歩であっても、



「ああ、それはこれこれこういうことだよ」



とさらりと回答できずに、珍しく思索にふけっている次第です。



 実を言うと、解脱者ムコガワは、少年時代から明るく元気でさわやかであったものの、その内面においては、基本的に孤独を愛する文学少年であったので、



「寂しいという不安にかられたことがない」



稀有な人生を送ってきました。ええ、ええ天性のボッチくんだったのです(^^



 実際、結婚した今の嫁はんからは、私の数少ない友人と実際に交流があることを知って、


「あんたに友達がいるなんて驚いた」


と言われたほどで、基本的には交流関係はとても薄い人間だと自覚しています。




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 しかし、一方でこの「寂しさ」「さみしいという気持ち」をどのように受け止めてよいかわからずに、 思春期の多くの時期を



 悶々として過ごしたり、あるいは


 グレてしまったり、



する人もたくさんいます。彼らにとっては、この得体の知れない「さみしさ」は、恐怖と畏怖そのものであり、自分でも処遇することのできない


 内なるモンスター


のようにふるまう脅威だったりするわけです。





 さみしさとは一体なんなのか。その正体を突き止めることができれば、あるいは「さみしさ」ゆえに苦しんでいる



 世界中の少年少女たちを救う



ことができるかもしれないのです。




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 発達心理学の分野では、この「寂しさ」の正体を



 親から受ける無条件の愛着



の不足であったり、欠如として考えている説もあります。



 なるほど、生まれたときから親によって無条件の愛を注がれることで、自分の中に



 自己肯定感



が生まれ、それがうまく形成されなかったり、欠如したときに「寂しさ」を覚えるというのは、わかりやすい考え方だと思います。



 しかし、仮にそうだとしても、それのみですべてを説明することは難しいように思うのはなぜでしょうか。


 成長期において、なんらかの成果を挙げたり、たくさんのものを手に入れたり、成功体験を積み重ねても「寂しい」と考える人はたくさんいるし


 両親が愛情を注いでいたとしても、その愛情の中身を子供なりに判定して「あいつらの愛は、正しくない」という見方をするものもたくさんいます。


 そもそも、親だって時には子供を否定する気持ちになるものです。夜泣きするとか、うんこが臭いとか、ゲロ吐かれたとか。勘弁してくれよ、と思った瞬間だって、確実にあるのです。




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 さて、「寂しさをあまり覚えない」ムコガワさんの個人的な話で言えば、ムコガワさん的には、



 他者との関わり度合いなどは、あまり寂しさの指標と関係がない



という感覚を持っています。



 つまり、”誰かがかまってくれるから寂しくない”とか”誰かがかまってくれないから寂しい”という類のものではなく、そこに他者がいようといまいと、あまり関係がないような感覚があるのです。



 そうすると、つまり、先ほどは「自己肯定感」において寂しさを説明しようとしましたが、


「これこれが出来たから(他者が肯定したから)自分を肯定できる」とか


「こういう成功体験があるから、自分を肯定できる」
 
といった話とは、実は別の次元なのではないか、とも仮説が立てられるわけです。



 これがもし別の次元の話だとすると、


「成功体験を積み重ねても、さみしいものはさみしい」


という人がいることを、説明できることになり、話が合致してくるわけですね。


 

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  さて、私の知り合いは、どちらかというと「さみしさ」を感じるタイプの人なのですが、その人物におもむろに


「さみしさとは何か」


について尋ねると、とても興味深い答えが返ってきました。



 ちなみに、この人は、両親から愛情を注がれなかったか?といえば、たぶんしっかり注がれているし、愛されて育っていると思うのですが、それでも根っこの部分に「さみしさ」が横たわっている人であったりします。


 とすれば、その「さみしさの正体」はどこにあるというのでしょう。その答えを聞いてみましょう。




『生きるとか死ぬとか、そういう端的なものではないけれど、この世界のあやふやさや、宇宙の終わりなどについて、思ったり考えていると、体感としてとても寂しい感覚が襲ってくる』


という答え。



 ムコガワも、おなじくこの世界のあやふやさについて考えているのに、なぜか真逆なこの答え。



 とても興味深いと思いませんか?




 これを心理学的に見れば、



「死の恐怖の変化形。つまり、自分も含めて認知しているこの世界が無くなるということについてのどうしようもない不安と恐怖が、さみしさとなる」


みたいな解釈もできるのかもしれません。



 ところがムコガワの場合は、真逆で、


『あやふやで、消滅するはずの世界の中にある自己のありありとした現実感が、世界が儚ければ儚いほど浮き彫りになって生き生きとしてくる』


みたいな感性があります。だから寂しくない。



 ああ、なるほど、先の感覚が「死の象徴」であるとすれば、こちらは「生の象徴」なのかもしれませんね。





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 私の数少ない友人の1人が、


「花というものの美しさ」


についていろいろと考察している話を聞かせてくれたことがありますが、花というのは、死の象徴であり、かつ生の象徴でもあります。



 一生に一度だけ、死を目前に竹の花が咲くように、本来花というのは、自分の死に対するアンチテーゼとして存在します。



 とすればそれは死の予兆であり、象徴なんだけれど、しかしながら、あまりにも美しく生き生きとした姿で見せ付けてくる花は、逆説的に



「いのちの証、象徴」



でもあるのです。






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 このように考えると、さみしさというのは「儚さや死という世界に取り囲まれながら、いかに自分の生を実感できるか」という部分に関係してくるような気がします。



 それが、ごくごく幼少の頃に、何らかの形で「植えつけられる」のか「勝手に生じる」のかはわかりませんが、形成されてくるわけです。恐ろしいことに!



 そして興味深いことに、親から愛情を注がれても、おそらくは「儚さや死という世界の先」を見てしまうこどもたちはたくさんいるのでしょう。


 言語や体験で言われたり、与えられなくても、自分たちもそのセカイの中にいるのだから、彼らは


「感じ取り、気づく」


ことができるのかもしれません。



 その時に、彼や彼女なりの心にストンと落ちるような理解や体験を得たものは、そんなことは心の奥に忘れてしまってその後の人生を過ごせるのでしょうが、



 その気付きが恐怖となり、それが引っかかっているまま


のものは、得体の知れない寂しさとなって、残り続けるのかもしれないのです。










































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