2018年10月18日木曜日
仏教の限界 逃げるは恥だが役に立つ
どうも。みなさんの解脱者武庫川散歩です。
どうやら宗教界では、大川さんの息子さんが激しく離反なさったそうで、話題になっていますが、ムコガワは最初から最後まで一人ぼっちなので、そういう心配はなさそうです。
さて、解脱者ムコガワ。悟りを開いたというだけあって、日常生活ではほとんど怒りを覚えることがありません。
ムコガワ的には、怒りなどの感情は生物学的な「快・不快」を感知するセンサー機能が発展したものだと思っていますので、動物が「快適である」「不快である」と感じること以上の意味を持ちません。
なので、万人が感情を感じることは全然オッケーはあとですが、感情に支配されるほどのことでもないというわけです。
ところが、解脱したムコガワさんといえど、1人で沈思黙考しているときはなんの問題もないですが、たとえば向こうから1人のおっさんがふらりとやってきて、
「バーカバーカ!」
と騒ぎ立てたり、人差し指でつんつんしてきたらどうなるでしょうか。
最初のうちはさらり、ふらり、ゆらりとかわし続けていても、それが延々と1時間も続いたら、さすがの解脱者といえども
「うるさいんじゃボケ!どっかいってしまえ!」
と怒鳴ってしまうことは、けしてやぶさかではありません。
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つまり、解脱というのは、「他者との関わりが無い状態」「関わりが薄い状態」であれば、それほど難しいことではなく、それは単に自分自身と向き合う作業で済んでしまうわけですね。
ところが、現実世界ではこの「他者とのかかわり」の中で、あんなことやこんなことがうっふん起きてしまうのです。
仏教におけるブッダのやり方というのは、この部分をうまく処理していることに気付きます。
■ まず、出家してしまう。これで俗世の他者との関係は限りなく薄くできる
↑なるほど、ブッダは賢いなあ!と思います。他者との関わりによって軋轢が生じるのだから、自分たちの仲間内で固まってしまえば、煩わされることは少なくなるわけです。
■ しかし、人間たるものご飯を作ったり食べたりしなくてはいけない。しかし、買い物をしたり、労働をしたりはしたくない。
ところが、丸坊主だらけのおっさんが、ただ寄り集まっているだけでは食べていけません。
本来であれば自給自足の労働をしたり、ヤマギシズムみたいに、内部で生活が成り立つようにしなくてはならないのですが、ブッダはこのあたりから逃げるは恥だが役に立つようになってきます。
■ そもそもブッダは王族だったので、労働はしない。おまけに仏教のシステムでも労働はしないことが決められている。
俗世とかかわり、作物や商品のやりとりをすると、煩わされることが増えます。そこでブッダは、そもそも労働を仏教から除外してしまったわけです。
で、その代わりに使ったシステムが
■ お布施をもらえばいいんだ!
ということです。
お布施をもらって暮らせば、労働はしなくていいし、煩わされることも減ります。そもそも、外部の人間と折衝をする時間が最低限になります。
でも、このシステムは「仏教が生まれた当時のインドで、聖職者に喜捨をすることが当たり前だった(つまりバラモン階級は労働をしなくても済んだ)」から成り立つ話なのです。
ということは、ブッダは、うまいこと「外部とややこしい関わりをしなくてはいけないこと」から、
逃げている!
わけですね。
ずっちーな!
(by織田裕二) 本来は「ずるいな」の意味。
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このあたりが仏教の限界点なのかな?と思います。
確かに悟りを開いて、自分だけが幽玄の境地に至るのはよいでしょう。
しかし、外界との接点を減らし、その方法としてお布施に頼る、というのは
ちょっとご都合主義ではございませんか?
ということになります。
現代社会で言えば、
「自分は苦しみから逃れて、どこかの山奥に住みたい。贅沢はする気がないので、お金はベーシックインカムかもしくは生活保護でよろしくお願いします。」
といってるのと同じですね。
そりゃあ、幸せやわ!
というわけで、仏教が最高の解答ではないんだ、というお話でした。
基本概念は好きなんだけど、ツメが甘いよね。
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