2020年3月5日木曜日

■法の原点は「殺したい!」と「除外したい!」である。



 新型コロナウイルスの猛威は、アジアだけでなく世界にも広がっているようで、イランでも


「マスクの転売屋は死刑」


という法律なのか、方針なのかが取り決められたそうである。



 このお話。とても興味深く、これを聞いた日本人の大半も、ある程度はその措置に納得してしまうという事態になっている。


 なぜなら日本国内でも、マスクが枯渇していて、かつ転売ヤーと呼ばれる人たちが暗躍しているために、必要な人にちっともマスクが行き渡らないからである。



 ちなみに、うちの奥さんなんかはついに、自分でマスクを縫いはじめた。



 







 この話が面白い(失礼!)のは、死刑という近現代の法制度において最もといってもよいくらいセンシティブな話題であっても、我々の通常の感覚として



「この大変な時に転売して儲けようとするヤツは死んでしまえ!」


という感覚がフツーに備わっている、という事実である。



 ましてや、イランといった遠く離れた国のことならなおさらで、この話を聞いて、



「いやいや、人権というものがあるだろう」

とか

「マスク転売の罪は、そもそも死に値するか」

とか、そういう気持ちはこれっぽっちも生まれてこないのが大半の人の感覚であって、



「イランかー。そんな遠い知らない国なら、死刑になってもそんなもんかもしれないわね」


としか感じないのが、人権国家日本人の本音なのだから、 これは実に興味深い。



 
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 このことをもっとわかりやすくまとめると、つまり人というのは、「殺人はいけない」「人を殺すのはよくないことだ」といちおうはオモテムキは思っているけれども、それと同時に



「悪いことをするヤツは死ねばいい。殺してしまえ」



とも思っていることがよくわかる、ということだ。



 むしろ



■ 人殺しは絶対的な悪だ


とは思っておらず



■ 悪を行う者は、殺したい


と思っているのである。



 ハムラビ法典という人類史においてもかなり初期の法制度においても、実は


「殺人がいけないことだ」


とは一切書いていない。


 一般的には「目には目を、歯には歯を」などで有名なこの法典だが、条文をちゃんと読んでゆくと、


https://web.archive.org/web/20190306220929/http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/5054/


■ 人に罪を負わせたものは殺す

■ 命に関わる偽証をした者は殺す

■ 盗んだやつは殺す

■ 横取りしたら殺す



などなど、ほとんどが「ぶっ殺す」しか書いていないのである。


 これはもう、「ハムラビちゃんは殺したい」なのではないか?と感じるほどである。



 つまり、結局のところ、人間と言うのは、自分たちの共同生活を脅かすルールなどを破ったものは、


「除外したい、ヘイトしたい、いやもう殺したい」


と考えているのであり、それが法の原点なのである。



 このことに目をつむってしまうので、「人殺しはいけない」なんてオモテムキの言説に迷ってしまうのだが、今回のコロナウイルス騒ぎでもよくわかるように、人は結局のところ


「仲間じゃないものは出て行け、やってくるな」


だし


「仲間に害を成すものは死んでしまえ」


としか考えていないのである。



 恐ろしいのは、こうした危機を感じる状況では、そうした「ヘイトと死刑」の感覚が、



当然であたりまえのもの



として、ウラから表に本当に飛び出てしまうことである。



 だから、イランで「転売屋は死刑」という話を聞いても、「そうだろうな」とか「日本もそうしたらいいのに」と


つい思ってしまったり、そのことに違和感を感じなくなってしまう


わけである。



 くわばらくわばら。



 












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