2020年3月17日火曜日
■神のものは神に! 〜基本的人権はどこへ漂流するのか〜
国家的、いやいや世界的非常時であり、人類の存亡がかかっているまるでインデペンデンスディな事態、それが「新型コロナウイルス」のパンデミックなのですが、
稀代の解脱者にして、自称他称を問わない哲学者でもある武庫川散歩さん
からみると、大変不可思議なことが起きていると悩んでいます。
少なくともフランス革命以降の近代国家において、リベラルな視点における「基本的人権」やら「自然法」というものがずーっと尊重されてきて、わかりやすくいえば、
「移動の自由」「集会の自由」「職業の自由」「平等」
なんてのが至極あたりまえの権利として「おのずとあるもの」と考えられてきたわけですが、今回のコロナウイルスの広がりによって、
そういうものが全部ストップ
させられているわけです。
これは一時的とはいえ、(いやいや、それでも「いつまで?」なのか現時点では無期懲役ですがね)近代国家、近代社会においてこうせざるを得ないということは、
「基本的人権や自然法、自然権は、非常事態には保証されない」
という良き前例なのか悪しき前例なのか、ができてしまったことになるでしょう。
その非常事態とは、ぶっちゃけ「国家存亡の危機」という国家論的なものではなく(だって、それを許してしまうと戦争になるもの)
「人類全体の(それもかなり多い人数での)命に関わる非常事態には、自然権は停止する」
ということがわかったわけですね。これは人類史上まれにみる出来事です。
つまり「基本的人権には条件があって、国民や人類の命に問題がない通常時に限る」
もしくは
「国民や人類の命にかかわる時には、基本的人権は制限される」ということが、21世紀の教科書には載るわけです。
まだ、主要な識者さんたちは整理がついていないと思いますが、「法学者や哲学者」なる人たちは、今回の事態において
「国家や政府が何をどこまでするのは許されて、どこから先は許されないのか」
みたいなことをしっかりお勉強しておくのがよいかと思います。
これをおろそかにすると、「戦争や動乱において」も、なし崩しが起きるからですね。
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今回の事件では、中国の対応と欧米の対応の比較からなんかも学べることがたくさんあります。
■ 強権によって封鎖や制限を加えて、ガッチガチやぞ!なほうがうまくいくのか
■ 自由と平等を愛しながら、アンダーコントロールドにできるのか
という対比ですね。
奇しくも、中国式「レインボーブリッジを封鎖せよ」作戦が功を奏して、イタリアやフランスなんかでも、「全員言うことを聞け!自由なんて奪ってやる!外に出るな!」作戦に切り替わりました。
これで
非常時とやらには、強権発動が効く
というエビデンスができてしまうわけですから、これから世界はそうなってゆくでしょうね。
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さて、そもそも自然権が「国家等に介入されない、人類がおのずと持っている権利」であると考えられたのは
「神から与えられたものである」
という理由からでした。いわゆるキリスト教的な視点です。
自然権は神のものなので、あの有名なことばが思い出されます。
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい、トリック返しだ!」
(探偵が早すぎる、より)
え?そっちじゃない?
元ネタがいっしょなんだからいいじゃない。(元ネタ 聖書)
しかし、よく考えてみると、今回の新型コロナウイルスは、神様がいるかどうかは別にして、いわゆる「自然・ネイチャー・宇宙の摂理」によって生じた事態なのですから、
「神(自然)によって生じた出来事」
であると言えます。ですから、神によって人類の生命に危機が及んでいるのだから、その場合は、神に自然権をお返しするのは、まあ、理屈としてはわからんでもない。
まさに、今、人類は基本的人権とやらを「神のものは神に返す」という措置を(一時的)に行っているわけですね。
これが「一時的」である、だから許されるという論拠は、この「カエサル理論」を使えば上手に説明できます。
基本的人権を制限する、一時的に奪うことができるのは、人為的ではなく「神によって生じた出来事」つまり自然災害(病気も含む)に限る
という理論的な押さえがあれば、特に矛盾なく受け入れられるし、政府国家は破綻もしないですむでしょう。
ただし、これは有神論における欧米社会的リベラルにおける定義づけですから、無神論者やほかの宗教・思想をもつものにはあてはまるかどうかわかりません。
世界中の神学者や法学者の議論を待ちたいところです。
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