2023年2月12日日曜日

ChatGPT と Character.AI 〜自然言語処理とチューリングと私〜 その3

 

 

 ChatGPTの登場は「人類にとって何を意味するのか?」というお話も、三回目に突入しているが、なぜそこまで私が「自然言語処理AI」にこだわるのか、という「沼」っぽいテーマに突入してみよう。

 もともと、この”武庫川散歩”という仮名は、「世界とは何か」「宇宙とは何か」「人とは何か」を突き詰めるために思考するアカウントであった。

 その原点はこのシリーズ連載の第一回(その1)で述べたように、

「チューリングマシンは、世界の過去と現在と未来を記述し、計算できる」

という大学1年生の若者が受けた「衝撃」にある。

 これまでのnoteでも書いた通り、私は元エホバの証人というキリスト教系新興宗教の2世であったから、もし聖書やキリスト教の言うところの「天地創造と宇宙の創造主」の物語が「誤っている」というのであれば、それを置き換えるための

「本当のセカイはどうなっているのか」

という答えを探さなくてはいけないハメに陥っていたのである。

 もちろん、このチューリングマシンとの出会いは、まだ「セカイのはじまり」には到達していない、ただの入り口に過ぎなかったのだが、当時の私はこう考えた。

「チューリングマシンによって世界が叙述でき、なおかつ過去・現在・未来にまで計算可能性があるということは、”世界のまるごとテキストコピーが作れる”ことになる」

と。

 さて、現実の「世界・宇宙」が仮にここにあるとして、そのテキストコピーが無限のテープ上に記述できるとしよう。なおかつ、未来部分についても「計算可能性がある」としよう。

 そうすると、「本物の世界」と「コピーの世界」が存在できることになるわけだ。

 もちろん、この段階では『本物』と『コピー』は天と地ほども違う。いくらコピーが取れるといっても本物ではないからだ。

 ところが、本物とコピーはまったく違うといいながら、実はその境界線はとても曖昧なものである、という論証もたくさんできる。特に情報処理関連においては、本物とコピーは「ニアリーイコール」に限りなく近づいてくる。


 たとえば、ここに「スーパーマリオブラザーズ」というゲームがあるとしよう。本物のスーパーマリオブラザースは、ファミリーコンピュータという機械の上で動く。AボタンとBボタンがついたコントローラと、テレビ画面と、本体を介して動作する。

 これは紛れもなく実在する本物のスーパーマリオである。しかし、この本物のスーパーマリオが唯一絶対に重要な存在か?と言われれば実は違うのである。

 ほんとうに重要なのは、本物のスーパーマリオではなく、「テキストで書かれたプログラム」のほうだ。むしろその著作権の根源は、テキストのほうにある。ただの文字列のほうが、オリジナルなのだ。

 ということは、スーパーマリオのオリジナリティとは、3つの段階で存在することになる。

◆ 頭のなかで、こういうゲームを作ろう、こういうプログラムを書こうと考えた段階
◆ それを実際のテキストプログラムで表記した段階
◆ 最後にハードウエアを介して、人間が触れられるゲームに実装した段階

 これらはすべて、どれが欠けても成立しないものであり、それぞれはそれぞれのコピーのようでいて、同一だったりする。

 とくに最初の思考は、形がないだけに著作権を主張するには難しいが、それでもそのアイデアを構想した段階で、「たしかにスーパーマリオは生まれた」とも言える。脳内ですべてのプログラムを想像できる天才プログラマがいれば、テキストに書かずとも、そのプログラムは「動く」からだ。

 だから思考を含めて、テキストコピーは、本物と偽物という関係ではなく、ニアリーイコールに限りなく近づくのである。


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 さて、ここで現実の地球に戻ってこよう。私たちはリアルな世界に生きている。

 私たちはリアルな現実世界に生きているから、「テキストコピー」された世界はやっぱり「大きく異なるもの」と考えてしまうのは致し方ないだろう。

 しかし、そこですこし視点を変えてほしい。私たちの世界と宇宙は、原子や電子や素粒子といった「規則的に動いている何か」によって、整然と論理的に動いている。

 それらはコンピュータのように「0(ゼロ)と1」の形をしていないだけで、超絶正確に動く、最小単位の組み合わせだけで動いているわけだ。

 その最小単位が「なにがしかの物質」だと捉えているから、私たちは現実世界が「リアルに存在するモノの世界」だと思っているが、実は

「なにがしかの物質だと思っていたものは、実は記号だった」

ということもありえると考える。

 平たく言えば、私たちはリアルな世界を「モノ・物質の世界」だと勘違いしているが、実は最小単位は「記号であり、モノではない」のではないか?という視点である。

 最小単位が記号である可能性は、いくつか証明できる。


◆ 一番小さな最小単位の物質は「それ以上壊せない。小さくできない」

○ 記号は壊せない。それ以上小さくできない。(”あ”の形を分解すると意味を失う)


◆ 最小単位は、ユニットをつくって結合する。大きな単位へと移ることができる。

○ 記号も、ユニットをつくって結合する。大きな単位へ移ることができる。(文字が単語になるように)


◆ 最小単位は、それが有する性質で機能するのではなく、組み合わさった時の「関係性」で機能する。

○ 記号も、それ単体で機能せず、組み合わさった関係性で機能する。
(”あ”と”か”が転がっているだけでは無意味だが”あか”と組み合わさったらはじめて意味を持つ)
※この概念はちょっと注意が必要。”か”だけでも”蚊”の意味を持つことがあるなど、本格的に考えるときはもっと丁寧に考えねばならない。(詳細略)


 こうして考えてゆくと、実は「リアルで現実でモノにあふれた世界」と思っているこの地球や宇宙が、

「論理的な記号の組み合わせで、物理が生じているだけのシロモノ」

とニアリーイコールなのではないか?という仮説が生じるわけだ。

 つまり、さらにさらに平たく言えば、

「この世界は記号で叙述された、プログラムのようなもの」

だということになる。宇宙とは、

「巨大な巨大なチューリングマシンのようなものに書かれた、データにすぎない」

のではないか?ということだ。


 そして、もし神(創造主)が存在するなら、その神がプログラムを思考するだけで、プログラムは「動く」ことができるのだから、実は紙に叙述する必要すら無い。

 そうすると、めちゃくちゃ恐ろしい話だが、実は

「この世界は、実はリアルには存在していないかもしれない」

という可能性まであることになる。


 私たちは、神のような何かが夢想した、「空想の夢」にすぎないかもしれないわけだ。

 それは、「スーパーマリオのゲームを作りたいなあと想像した段階」と同じく、「宇宙を作りたいなあと想像した段階」とあまり変わらないという、恐ろしい発見である。


 最初の話に戻ろう。この世界は現実で、テキストコピーは偽物だった。いくらチューリングマシンがこの世のすべてを叙述しても、リアルな世界は、コピーとは違うと思い込んでいた。

 しかし、その現実世界や宇宙が、何がしかの「記号」で叙述されていたとしたら?むしろ、現実世界のほうが、記号で書かれたプログラムに過ぎないとしたら?

 それを今度は、別の記述法(デジタルなチューリングマシン)で、書き換えようとも、それは記述方法が異なるだけの

「移植された互換ゲーム」

に過ぎない。

 つまり、どちらの機種でも、スーパーマリオは動く、ということなのだ。

 もはやここまで来ると、世界とチューリングマシンはニアリーイコールどころか、完全に同一コピーということになるのだ。


 この衝撃の結末に、あなたは耐えられるだろうか?

 私たちは、そんな未来へ向かう入り口に立っているのだ。


(つづく)

 

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