2026年3月19日木曜日

エホバの証人を卒業した!

 



 当ブログを長らく愛読くださっている読者諸氏にとっては、おなじみのことだと思うが、わたくし武庫川散歩は、その昔「エホバの証人」であった。

 赤ちゃんの頃こそ、両親はふつうの人間であったが、ちょうどムコガワが幼稚園くらいの時に、家庭にピンポンしてきたオバハン姉妹のために、まずはオカンがエホバの証人に引きずられてしまい、その後、父親も入信し、その後はお決まりの「家庭崩壊」一直線だったのである。

 まあ、そこらへんの経緯は今までのnoteやX(Twitter)などにも、あるいはこのブログなどにもダラダラと駄文を書き連ねているので、すでにコアなファンにはおなじみのことと思われる。(そんな奇特な人がいるのか?ww)

 とはいえ、「卒業した!」のだ。わはは。

 実際に武庫川が「王国会館」を泣きながら飛び出して神に背いたのは中学生時代のことであり、そこから長年「エホバの証人」ではなかったわけだが、中学時代を仮に13歳として、現在ムコガワさんは不肖51歳であることから、

「38年間も、なにしてたんや!」

ということになる(笑)

 いやいや、エホバの証人を辞めたのが13歳として、51歳にもなって

「卒業した!」

とはこれいかに。

 それはこういうことだ。

 エホバの証人をやめたとて、熱心な信者であればあるほど「この宗教が誤りだったとして、では正解はどこにあるのだろう」ということに、一抹の疑念を抱くことになるわけだ。

 これはどの宗教を「やめた」人間にとっても同じで、

「ある宗教が誤りだと気づいても、その代わりに本物の宗教を探すようになる」

ということは十分起こり得る。いやむしろ

「ある宗教が誤りだと証明するためには、それが宗教でなくてもいいが、何らかの正解なり真理真実を突きつけなくてはならない」

ということなのだ。

 なのでたいていの場合、ある宗教をやめたとて、「他の宗教や思考に依存したり、そっちにハマってしまう」という罠に陥る人も多いわけだ。


 そうでなくてもエホバの証人というのは

「この世界で今起きていることは、これこれこういうことで、世界はこれからこうなるんですよ!」

ということを主張する教義になっている。では対抗して

「いや、この世界はむしろこっちで、これからはあなたたちの預言通りではなく、違う方向へ進むんだ。なぜなら、これこれこうだからだ!」

くらいは言えないといけないことになる。


 つまり、「否定するだけの言うだけ番長」では不十分であり、「対案をしっかり出せる、論破できるひろゆき」にならねばならないわけである。(まあ、ひろゆきが対案まで出せる人かどうかはともかくとして)


 とまあ、そういうわけで、51歳になるまで時間がかかってしまったが、ついにすべてを解明し、論破できるところまで整理することができたのである。

■ エホバの証人とは、どういう活動であり、どういう宗教で、その本質は何であるのか。

■ エホバの証人が主張する論拠は、事実と整合性があるのか、ないのか。

■ エホバの証人が誤りであるとすれば、では真理真実はどうなっているのか。

 これらについて、明確明解にすべてを解き明かすことに成功して、なおかつそれを懇切丁寧に説明することまできるようになったわけである。


 これでもう、何も怖くはない。免許皆伝、卒業証書授与である!!


 というわけでその全てについては


エホバの証人のための聖書研究

https://note.com/mukogawa_sanpo/m/m33ac35605d9f

という有料noteマガジンに書き記しておいた。

 1000円出せば、連載のすべて・15本の記事が読めるので、これでもう全部ごりっととまるっとお見通しである。


 さて、実は武庫川さん。別にエホバの証人でなくても「この世界を解き明かす」責務を負った、類い稀な人生観を持っていたのであった。

 それは戦前に遡る。

 私の祖父というのは満州にいて、満州鉄道で仕事をしていた。もともとは九州の生まれであり、そこから中国へ渡って満州国の成立と崩壊を目の当たりにして、また九州へと戻ってきたという。

 祖父は私が小学生の頃まで生きていて、たいへん厳格でもあり紳士的な人であった。中国の古典にも通じていたので、武庫川さんの名前は本来中国の古典に由来する人名になっている。

 名前をつけてくれたのは祖父である。

 おまけに祖父はバイオリンは弾くわ、三味線は弾くわ、文化的な教養も備えていた人であった。

 ただ、長男ではなかったので、満州から帰ってきてもその後は苦労したという。

 その祖父が亡くなる間際に、父がそばについていたそうだが、祖父が父に言ったそうなのだ。

「人生とは、この世界とは、わからんもんだなあ」

と。

 人はなぜあるのか、人はなぜ生きているのか、そして、この世界はなにものなのか。それが ”わからない” と言ったのだ。

 国家というものや、戦争というものに翻弄された人生であり、それは「世界」規模でこの世の儚さ、わけのわからなさを実感することになったゆえであろう。

 その宿題が父に引き継がれたのである。


 さて、その父も、エホバの証人になったり、辞めたり、オカンと離婚したり、いろいろあったのだが、最終的にはガンになって死んだ。

 その病室に、あろうことか「聖書」を持ち込んで、死ぬまで読み返したりしていたらしい。

 それは別に死ぬ間際に回心して、再びクリスチャンになろうとしたわけではなかったのだが、彼はまた祖父とおなじようなことを私に言ったのである。

「死ぬときくらいは、神がなにか答えのようなものを与えてくれるかと思ったが、なんもなかったわ」

と。

 結局、父は神からなーんも答えをもらえずに死んでいった。


 この親子2代の「宿題」が、私に残されているのである。

「人生とはなにか」
「世界とはなにか」

 あるいは国家とは、社会とは、この世の全ては、どうなっているのか。


 だから武庫川さんにとっては、祖父と父、そして自分を含めた3代に渡っての「問い」との真剣勝負なのであった。

 これはなんとしても

「世界をひもといて、祖父と父の無念をはらさなくてはいけない」

という忠孝敵討ちの世界なのであるっ!!! 


 そしていよいよ、山鹿流の陣太鼓とともに、その敵討ちがやっとこさ果たされた、というわけだ。

 世界に勝った。

 これで祖父も父も、心置きなく成仏できるのである。


 まあ、「エホバの証人のための聖書研究」を読んでいただければ、

「えらい、武庫川さん、世界に勝ったとか、壮大なことを言うてはりますなあ」

というポカンとした感想が、180度入れ替わることであろう。

「こりゃたしかに、おもろいこと言うてはるわ。世界はそういう仕組みやったんやねえ」

くらいには、感心していただけるはずである。


 しかしですよ。エホバの証人は関係なくとも、私は武庫川家3代の敵討ちを果たしたので、じゅうぶん満足なのであった。

 エホバの証人の信者や元信者の方々への「実は世界はこうなってますねん」というのはオマケに過ぎないので、読みたい人は読めばいいし、別にどっちゃでもかまわない。

 ただ、書くからには生半可なことは書いておらず、しっかり世界と向き合っている内容なので、そこは安心してほしい。


 えーっと、まあ。ついでと言っちゃなんだけれども、エホバの証人だけでなく、「キリスト教」とかも一緒にぶった斬ってしまったのは、御愛嬌。

 許してね・・・・。



(おしまい)


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