1 そもそも「グノーシス」って何?
「グノーシス(gnosis)」とは、ギリシャ語で「知識」や「認識」という意味です。
でも、ここでいう知識は、学校で習う知識とは違います。
これは「心の奥深くで体験するような“目覚め”の知識」であり、世界の真実に目を開くような、スピリチュアルな知識です。
2 なぜ「知ること」が大事なの?
グノーシス主義の人たちはこう信じました。
「この世界は本当の世界ではない。私たちは“偽りの世界”に閉じ込められている。
でも、ある知識(グノーシス)に目覚めれば、私たちは真の神とつながり、解放されるのだ」と。
つまり、“知ること”=“救いへの鍵”だったのです。
3 神は1人じゃない?
キリスト教では、基本的に神は一人=全能で善なる創造主とされます。
しかしグノーシス主義では、「この世界を作った神」は“真の神”ではないとされました。
この世界を作った神(デミウルゴス)は、不完全で、時には邪悪です。
本当の神はその上にいて、私たちの魂がそこから来たと考えられました。
4 この世界は“間違って”できてしまった?
グノーシス主義の人々にとって、この物質世界は“不完全な神”によって作られた牢獄のような場所です。
私たちの魂は本当の神の元にいたのに、デミウルゴスによってこの世界に閉じ込められました。
だから、私たちの本当の目的は、この世界を正しく見つめて、そこから脱出することなのです。
5 救いとは“天国に行くこと”ではない?
グノーシス主義では、救いとは「魂がこの物質世界から抜け出して、本来の神のもとに帰ること」です。
これは、ただ信仰することでは達成されません。
深い“知”(グノーシス)に目覚めることによってのみ、魂は自由になれるとされました。
6 イエスは“救いの教師”だった?
グノーシス主義の中では、イエス・キリストの役割も少し違います。
彼は「罪の贖いのために十字架にかかった神の子」ではなく、
「目覚めを促すためにこの世界に来た教師・案内人」とされることが多いです。
イエスの言葉の裏に隠された“秘密の知恵”が、グノーシスなのです。
7 “蛇”は悪ではなかった?
旧約聖書のアダムとイブの物語では、蛇は神に逆らわせる悪い存在です。
でも、グノーシス主義では“蛇”は真実を教えてくれる存在と見なされることもありました。
善悪を知ることを教えてくれた=目覚めを与えてくれた、という考え方です。
8 女性的なる“神の側面”とは?
多くのグノーシス文書では、「神」や「真理」には女性的な側面(ソフィア=知恵)が登場します。
この「ソフィア」は、神から分かれ、誤って世界を生み出してしまった張本人でもあり、
同時に私たちを元の神へ導く存在として描かれます。
9 教会とグノーシスの対立
初期のキリスト教会(いまのカトリックや正統派のルーツ)は、
このグノーシス主義を「危険な異端」として退けました。
なぜなら、「救いは教会と信仰によって得られる」という教えと、
「個人の内なる目覚めによる救い」というグノーシスの考えは、まったく相容れなかったからです。
10 なぜ今また注目されるのか?
現代になって、「ナグ・ハマディ文書」と呼ばれる古代のグノーシス文書が発見され、
グノーシス主義が再び注目されるようになりました。
個人の内面と霊性に目を向けるこの思想は、宗教にしばられない新しい精神世界の探求として
スピリチュアルな人々の関心を集めています。
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<解説> (ここからは玄人向け)
グノーシス主義は、キリスト教の初期である1世紀に現れ、4世紀ごろまで隆盛した宗教運動です。
現在のキリスト教では異端とされていますが、なぜイエスの時代に近い1世紀にこうした考え方が現れたかというと、むしろこの時代のほうが、「古い中東・メソポタミアの宗教観念」がまだ人々の間に残っていて、簡単に言えば「昔の神話の考え方や伝承」が消えていなかったからだと考えられるのです。
実は聖書の中にもその痕跡が多数残っていますが、本来のイスラエル人の信仰は多神教で、もともと天地を創造したと考えられた神と、最終的に聖書の神とされた「ヤハウェ」が別の神であるということは、古い信仰形態を知っている人にとっては自明のものでした。
より厳密に言えば、「バビロン捕囚前後、あるいは捕囚以降のイスラエル人」は、ヤハウェ信仰を中心に「染まって」いたかもしれませんが、その周辺国・地域では「ヤハウェ以前の神や、他の神々」の信仰はふつうに残っていて、それらとの整合性から客観的に見ると、「聖書の神は、自称天地創造者の偽物である」という考え方は、とくにおかしなものではなかったと思われるのです。
そのため、初期のキリスト教であればあるほど「では本来のユダヤ教であったり、本来の神話はどのようなものであったのか?」と探り、発見し、再度認識し直すことは、当然重要な研究であったわけです。
そうした中で「ガチの真理は、どれなんだ?」ということを問うグノーシス主義が登場したのは、特段不思議なことではありませんでした。
それに対して現代のキリスト教は、カトリック教会によって最終的に「選別された」「後からある種、恣意的にチョイスされた」教義が元になっており、当然公然と聖書の神の否定から入っているグノーシス主義は、「異端」ということになってしまったわけです。
しかし、その古い時代の信仰スタイル、探求スタイルを再度見直すと、むしろ異端なのは「後から改変したカトリック的教義」のほうなのではないか?と疑いの眼差しを向けることは、あって然るべきかもしれません。
実際に聖書執筆者たちによって、大幅な改変が加えられ、またカトリック教会によって恣意的なチョイスがなされたキリスト教信仰は、すでに原初のものからかけ離れてしまっている可能性もあり、それでは私達は「本来の神」「本来のイエス」像を見失っていることになってしまいます。
グノーシス主義を見直すことで、「本来の聖書神話はどういうものであったのか」「イエスはどういう存在であったのか」という真の発見につながれば、こんなに面白いことはないでしょう。
奇しくも、アメリカの動きや大統領の支持者達が、そのベースにキリスト教主義を抱いている2025年においては、よりいっそう「デミウルゴス」化した偽物の思想によって世界が混乱させられている可能性があるのです。
だからこそ、そうした偽物の思想をいったん排除して、世界のありようを再度問い直してみることは、今まさに求められているテーマかもしれません。
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