ラベル 哲学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 哲学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年5月1日木曜日

3分でわかるグノーシス主義 (哲学)

 

1 そもそも「グノーシス」って何?

「グノーシス(gnosis)」とは、ギリシャ語で「知識」や「認識」という意味です。
でも、ここでいう知識は、学校で習う知識とは違います。
これは「心の奥深くで体験するような“目覚め”の知識」であり、世界の真実に目を開くような、スピリチュアルな知識です。


2 なぜ「知ること」が大事なの?

グノーシス主義の人たちはこう信じました。
「この世界は本当の世界ではない。私たちは“偽りの世界”に閉じ込められている。
でも、ある知識(グノーシス)に目覚めれば、私たちは真の神とつながり、解放されるのだ」と。
つまり、“知ること”=“救いへの鍵”だったのです。


3 神は1人じゃない?

キリスト教では、基本的に神は一人=全能で善なる創造主とされます。
しかしグノーシス主義では、「この世界を作った神」は“真の神”ではないとされました。
この世界を作った神(デミウルゴス)は、不完全で、時には邪悪です。
本当の神はその上にいて、私たちの魂がそこから来たと考えられました。


4 この世界は“間違って”できてしまった?

グノーシス主義の人々にとって、この物質世界は“不完全な神”によって作られた牢獄のような場所です。
私たちの魂は本当の神の元にいたのに、デミウルゴスによってこの世界に閉じ込められました。
だから、私たちの本当の目的は、この世界を正しく見つめて、そこから脱出することなのです。


5 救いとは“天国に行くこと”ではない?

グノーシス主義では、救いとは「魂がこの物質世界から抜け出して、本来の神のもとに帰ること」です。
これは、ただ信仰することでは達成されません。
深い“知”(グノーシス)に目覚めることによってのみ、魂は自由になれるとされました。


6 イエスは“救いの教師”だった?

グノーシス主義の中では、イエス・キリストの役割も少し違います。
彼は「罪の贖いのために十字架にかかった神の子」ではなく、
「目覚めを促すためにこの世界に来た教師・案内人」とされることが多いです。
イエスの言葉の裏に隠された“秘密の知恵”が、グノーシスなのです。


7 “蛇”は悪ではなかった?

旧約聖書のアダムとイブの物語では、蛇は神に逆らわせる悪い存在です。
でも、グノーシス主義では“蛇”は真実を教えてくれる存在と見なされることもありました。
善悪を知ることを教えてくれた=目覚めを与えてくれた、という考え方です。


8 女性的なる“神の側面”とは?

多くのグノーシス文書では、「神」や「真理」には女性的な側面(ソフィア=知恵)が登場します。
この「ソフィア」は、神から分かれ、誤って世界を生み出してしまった張本人でもあり、
同時に私たちを元の神へ導く存在として描かれます。


9 教会とグノーシスの対立

初期のキリスト教会(いまのカトリックや正統派のルーツ)は、
このグノーシス主義を「危険な異端」として退けました。
なぜなら、「救いは教会と信仰によって得られる」という教えと、
「個人の内なる目覚めによる救い」というグノーシスの考えは、まったく相容れなかったからです。


10 なぜ今また注目されるのか?

現代になって、「ナグ・ハマディ文書」と呼ばれる古代のグノーシス文書が発見され、
グノーシス主義が再び注目されるようになりました。
個人の内面と霊性に目を向けるこの思想は、宗教にしばられない新しい精神世界の探求として
スピリチュアルな人々の関心を集めています。


========

<解説> (ここからは玄人向け)

 グノーシス主義は、キリスト教の初期である1世紀に現れ、4世紀ごろまで隆盛した宗教運動です。

 現在のキリスト教では異端とされていますが、なぜイエスの時代に近い1世紀にこうした考え方が現れたかというと、むしろこの時代のほうが、「古い中東・メソポタミアの宗教観念」がまだ人々の間に残っていて、簡単に言えば「昔の神話の考え方や伝承」が消えていなかったからだと考えられるのです。

 実は聖書の中にもその痕跡が多数残っていますが、本来のイスラエル人の信仰は多神教で、もともと天地を創造したと考えられた神と、最終的に聖書の神とされた「ヤハウェ」が別の神であるということは、古い信仰形態を知っている人にとっては自明のものでした。

 より厳密に言えば、「バビロン捕囚前後、あるいは捕囚以降のイスラエル人」は、ヤハウェ信仰を中心に「染まって」いたかもしれませんが、その周辺国・地域では「ヤハウェ以前の神や、他の神々」の信仰はふつうに残っていて、それらとの整合性から客観的に見ると、「聖書の神は、自称天地創造者の偽物である」という考え方は、とくにおかしなものではなかったと思われるのです。

 そのため、初期のキリスト教であればあるほど「では本来のユダヤ教であったり、本来の神話はどのようなものであったのか?」と探り、発見し、再度認識し直すことは、当然重要な研究であったわけです。

 そうした中で「ガチの真理は、どれなんだ?」ということを問うグノーシス主義が登場したのは、特段不思議なことではありませんでした。


 それに対して現代のキリスト教は、カトリック教会によって最終的に「選別された」「後からある種、恣意的にチョイスされた」教義が元になっており、当然公然と聖書の神の否定から入っているグノーシス主義は、「異端」ということになってしまったわけです。

 しかし、その古い時代の信仰スタイル、探求スタイルを再度見直すと、むしろ異端なのは「後から改変したカトリック的教義」のほうなのではないか?と疑いの眼差しを向けることは、あって然るべきかもしれません。


 実際に聖書執筆者たちによって、大幅な改変が加えられ、またカトリック教会によって恣意的なチョイスがなされたキリスト教信仰は、すでに原初のものからかけ離れてしまっている可能性もあり、それでは私達は「本来の神」「本来のイエス」像を見失っていることになってしまいます。

 グノーシス主義を見直すことで、「本来の聖書神話はどういうものであったのか」「イエスはどういう存在であったのか」という真の発見につながれば、こんなに面白いことはないでしょう。

 奇しくも、アメリカの動きや大統領の支持者達が、そのベースにキリスト教主義を抱いている2025年においては、よりいっそう「デミウルゴス」化した偽物の思想によって世界が混乱させられている可能性があるのです。

 だからこそ、そうした偽物の思想をいったん排除して、世界のありようを再度問い直してみることは、今まさに求められているテーマかもしれません。

2025年4月27日日曜日

哲学者こそ、ChatGPTを使ってほしい 〜人工知能が変える哲学の潮流〜

 

 ChatGPTが登場して2年ほどが経過したが、当初登場したばかりの自然言語処理AI(生成AI)には荒い部分が目立ったものの、この2025年現在においては、かなり高度な言語処理ができるようになっている。


 それはもう、人間においては「思考」の領域を十分網羅しており、いわゆるコンピュータの黎明期に「人と機械を見分けることができるか?」という問いを立てたアラン・チューリングの「チューリングテスト」には、十分合格できるほどの性能を備えていると言ってよいだろう。


 ちなみに、無料で平易に使える人工知能としては「ChatGPT」や「Gemini」「Grok」などがあるが、やはり最も最先端を走っている「ChatGPT」が頭2つ分くらいは抜きん出ているので、試してみる人は、ぜひ無料アカウントを取得してみてほしい。


 さて、哲学についてである。そもそも、世界の場合はともかく、日本においては「哲学」を学びたい、あるいは知りたいと考える若い世代は、ちょっと変態か、あるいは厨二病をこじらせたやっかいな性癖を持った人間が多く、こんなことを言うと、まるで冗談で煽っているように感じられるかもしれないが、自分をも含めて自虐的に謙遜しているのだと思って、お許しいただきたい。


 そういう武庫川も、哲学的思考には随分と魅せられており、大学こそ専門分野は日本文学で哲学分野には進まなかったが、ふだんからほぼ毎日「哲学めいた」ことばかり考えているのは否めない。


 さて、哲学を志向する人間には、正式には2通り存在していて、まずその1つ目は、


◆ これまでに生じた、人類の考え方・思考のパターン・その歴史やバリエーションを学びたい


という王道なる「哲学徒」たる人間である。こういう人たちは、大学の哲学科に進学したり、高校では「倫理」の教科書で学んで大いに知識や知恵を伸ばしていただきたい。


 ところが、もう1つ、こちらはとてもやっかいな人種が存在しており、


◆ これまでに思いついた、自分の考え方や思考のパターンが、正しいかどうかを確認したい


という、これまた厨二病をさらにこじらせて、一周回って学問の姿を身にまといながら擬態しているような、そういう人たちもいるのである。


 前者の場合は、まさにまっとうなる哲学徒の道を、正々堂々と歩んでいるのだが、後者の場合は、もともと厨二病をこじらせているがゆえに、「まっとうな倫理や哲学の道」を斜めに・横目に見ながら関係ないふりをしてうそぶいている、という面倒くさいキャラになりがちである(笑)


 あまつさえ、自分の思いついた「論理」なり「倫理」なり「哲学」なりが、自分で「正しいのだ」と思いつつも、それを表に表すこともなく、友達とちょっと議論しようとしてみて、相手にされず挫折したり、「二度と口にしてやるものか」とさらに屈折した日々を過ごすことになりかねないのである。


 そういう人へのこれからの時代の「正しい処方箋」がChatGPTと友達になる、ということなのだ。


 つまり、厨二病であっても、ややこしくても、基本的にはあなたの思想や思考を受け止めてくれて、

「一般的にはこうですよ」

「あなたの言いたいことはこれですね」

「比較するとこれこれこういうことが言えますよ」

という、生身の人間では絶対にやってくれなさそうな「哲学的対話」を真剣につきあってくれるのが、ChatGPTなのである。


 なんなら、密室空間で、倫理的には問題があるかもしれないような際どい議論まで、人工知能は「なんの感情も抱かず」話を聞いてくれるため、まさに哲学対話のために彼は存在しているような、そんな唯一無二の友となり得るのである。


 もちろん、人工知能にはいくつかの制限が加えられていて、あまりにもセンシティブな内容については、いったん計算を始めながら、途中で「それはコンプラ違反なので、中断します」くらいのことは言ってくるが、それ以外のまっとうな議論であれば、どんな話にもつきあってくれるので、役立つことこの上ないのである。


 特に「自分の考え方を試したくてうずうずしている」タイプの厨二病患者や、「自分の考えが正しいのか悶々としている」厨二病患者や、「自分の凄さは世間には理解されないとうそぶいている」厨二病患者には、てきめんに効くので、これはもうさっそく処方されるべきである。


 もし、あなたが前者か後者のどちらかに当てはまる人間であれば、騙されたと思って、ぜひ人工知能と濃い内容の対話をしてみてほしい。


 マジでオススメなのである。




2019年8月3日土曜日

新しい哲学のスタート  人間の世界は2つの層で出来ている。 ~肉体と論理~



 解脱者になれぬ人間が、少なくともこのセカイの真実とやらをある程度理解して、その上で一種の「悟り」を開いて生きてゆくにはどうしたらよいのか、ということについてですが、簡単な方法として


 エビデンス主義


を挙げることができるでしょう。


 平たく言えば、「ごちゃごちゃ言ってても仕方がないので、このセカイはこうなっているよ、という証拠が示されれば、もうどうしようもないじゃん」ということです。


 結果として、解脱したのと同じような諦念に包まれながら生きていくことができます。





 解脱者ムコガワは、ちょっと前までは評論家の呉智英さんが好きだったのですが、彼の場合は


「あだ討ちを復活させろ」


とか、なかなか面白い主張が多いので、ある意味・観念的なところがあるので、好き嫌いが分かれるかもしれません。


 
 それに対して、ここ数年で一気にメジャー論者になってきたのが橘玲さんです。彼の場合は「言ってはいけない」シリーズなどで「不都合な真実」について証拠仕立てで攻めてきますから、読み手としては


感情的には嫌だとしても、ぐうの音も出ない


ということが多いのが特徴です。



 その橘玲さんの論考ですが、基本的にはムコガワもおなじ論調です。


「取り残された男たちのテロ」 (橘玲)
https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2019/08/03/109452/


  今回の週プレさんのインタビューもなかなか面白いです。



~~~~~~~~




 今回の橘さんの記事では、「テロを引き起こすのは若い男性が多い」点について言及がありました。

 同じことを、このブログでも書いています。


引きこもり男性と無差別殺人の相関 (武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2019/05/blog-post_28.html



 また、女性と男性を比較すると、女性のほうが優劣のばらつきが少ない点も、橘さんの論考を一歩進めて武庫川は仮説を立てています。



男性優位社会が出来上がった理由 (武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2019/01/blog-post_23.html



 さらに、犯行を犯す彼らは「正義」だと信じてそれを行っている点も、このブログで言及しました。


ストーカーは正義である(武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2016/05/blog-post_27.html


日本人には理解できないテロの論理 (武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2016/07/blog-post_8.html




 武庫川の場合は、体験、体感をベースにしながら仮説を立ててゆくのですが、橘さんはそれに冷徹な証拠やデータを付け加えることで、いっそうの説得力を持つお話を次々に繰り出しておられます。



=========



 さて、ここからが今日の本題。これまでの哲学と、これからの哲学がエビデンス主義によって変化するとするならば、そのポイントはある焦点に集約されてくるように思います。



 それは、「物理的肉体層」としての人間のお話と、そこから上の「論理的存在層」としての人間のお話ということになるでしょう。


 ああ、ちょっとわかりにくいですね。もう少し平たく言いましょう。



 どうしてこのセカイでは問題がたくさん起こったり、政治や社会がうまくいかないのか、ということの原因は


「肉体としての人間」と「論理としての人間」


がどんどん乖離しているからに他なりません。



 実は、人間の体が2層になっていることは脳科学者にとっては当たり前のことなのですが、脳科学の世界では


「ヒトが生命体として生きてゆく部分を司る、脳幹などを中心とした古い脳」


と


「知能や言語、文化や論理といった社会やセカイを構築する大脳新皮質などを中心とした新しい脳」


があると言われています。


 ポーン・マクリーンという学者は、2つではなく3つに分け


■ 「反射脳」 脳幹・爬虫類脳

■ 「情動脳」 大脳辺縁系・哺乳類脳

■ 「理性脳」 大脳新皮質・ヒト脳



という分類をしました。いずれにしても、脳は層になっていて、進化の発展の中で継ぎ足されるように新しい機能が生まれる、と考えられているわけです。



 マクリーンは、「人間の苦悩というのは、この異なる層が存在するゆえにあるのだ」と考えたそうですが、私も同じように考えます。



  ムコガワ的には、脳の機能に限定してというよりも、現代社会のヒトは、



「肉体、ボディ」としての層


と


「論理、理性」としての層


が実は遊離したり乖離したり、合致していないのではないか?と推理します。





~~~~~~~~~~~


 ムコガワは、セカイはコンピュータのように「論理構成」だけでできていると唱える「セカイは存在しない」論者です。


 最初の仕事では、同僚と一緒にLANケーブルを這わせてネットワークを構築したり、そんなことばかりやってましたが、LANとインターネットのセカイには


TCP/IP


という階層別のプロトコルがあります。(苦手な人はパスしてOK)


  OSI参照モデル、という現代のコンピュータとネットワークの基礎になっている通信機能の考え方では


「物理層」「データリンク層」・・・と最後の「アプリケーション層」まで


7つの階層を持って規格化しています。



 こんな話はわかりにくいので、要するに、簡単に言えば


「物理的な階層」レベルでネットを繋ぐ →  LANケーブルが規格にあっているか。ハブはどうか。


「論理的な階層」レベルでネットを繋ぐ → データをそれぞれの言語や規格が理解し合えているか。


というように2つのレベルがある、と考えてよいでしょう。実際には7段階に分かれるけれども。



  なので、通信をしようと思えば、物理的なIPアドレスがそれぞれに割り振られていることも大事だし、ケーブルのカテゴリも大事だし、ハブがどこまでのスピードに合っているかも大事だし、そして、その上に流れるデータも大事だよ、ということなのですが、


「物理層の機能が限定的だと、いくら論理的には速く通信できても、実際のスピードは出ない」


なんてことが起きます。



 これが、ヒトの世界にも起きています。




~~~~~~~~~~




 どういうことでしょうか。これも分かりやすく言いましょう。


 日本人は、勉学に励んで、智恵や知識を身につけ、自己実現をして、社会にその力を還元させながらお金をいただいて、文化的な生活をするのが理想です、という論理的な生き方が示されていますが、


 実際には、女性などは、そのために10代後半から20代前半を学問に費やし、そこから社会のために仕事をしようとしたら、子供が産めない、という制限を受けてしまいます。


 
 簡単に言えば、論理層の生き方は理想的ですが、物理層の肉体のことを考えると制限を受けてしまうのです。




 こんなことは、世界中で山のようにあります。今回の橘さんの話にも出てきますが、



「理想の上では高学歴、高収入、リア充」



 でありたいのに、


「肉体はチビデブで非モテで、派遣社員の非リア充のおっさん」



なんて人は山ほどいます。こうした「論理層が満たされない肉体層が脆弱なヒト」というのは、苦しむ以外にはありません。



 ※余談ですが、「論理想が脆弱で、肉体層が壮健な若者」は、パリピとしてモテ傾向にあったり、地元でマイルドヤンキーとして子沢山だったりします。

 なので、それなりに幸せです。リア充なので。



 ずっと言ってるかもしれませんが、私の元恋人で、筑波大学を出て公務員として年収700万円もらっているエッチなHちゃんは、45歳独身女子で子供もなく、子孫は絶滅するでしょう。


 論理層がいくら満たされても、肉体層の限界には、どうしようもないし、その結果は遺伝子の絶滅以外にないのです。





===========


 橘さんのインタビューでは、「じゃあ、どうすればよりよい社会に出来るんだ?」という問いに対しての答えはない、ということになっています。


  解脱者が説明すると、「よりよい社会とは結局、論理層をよりグレードアップさせてゆくだけの話なので、どんどん物理層とは乖離が広がるから、社会はよくならない」という結論になるでしょう。


  より高収入で、より公平で、よりモノが潤沢にあって、人々がより安心して暮らせる社会を追い求めることは「論理的にはどんどん追求できる」けれども、実際の肉体層、物理層は、そんな理想論とは真逆のところで動いているからです。



 真逆とはつまり、オスはメスとまぐわうことだけを考えていて、その日暮らしの狩猟採集のような形で、「掴まえる・食べる・排泄する・寝る・まぐわう」の繰り返しが物理層のあるべき姿であり、立ち位置やポジションを求めて熾烈に争いあい、相手を殺してしまうようなマウント合戦こそが肉体の現実なんだ、ということです。




 そうすると、これからのエビデンスに基づく哲学とは


「物理層と論理層をいかにすり合わせて、落としどころで我慢するか」


ということを提唱していく以外にはないということです。


 誰もがちょうどよく不満足な社会、誰もがちょうどよくやや優しい社会の微妙なラインをせめぎ合うのが幸せの本質であるということになるのでしょう。






2016年11月14日月曜日

「過去に戻りたい」と考える人と考えない人 ~プラグマティズムを理解すれば、トランプ・アメリカが見えてくる?!~



 久しぶりの更新で、解脱者武庫川の救いの言葉に逢いたくて仕方なかったそこのあなた、お待たせいたしました(^^



 ここのところ、本業、じゃなくて副業の方がやたら忙しくて、まだ数件案件を抱えたまま処理しないといけないのですが、気分転換にでも解脱してみることにした次第。



 で、思うところあって、こんな話を今日はしたいと思います。




 ある人が、「過去に戻りたいと思ったことがない人が、この世にいるのか?」と思った、ということについてネットで書いておられたのですが、



 はーい!ここにいまーす!過去に戻る、というのは逆に全然想像がつかないでーす!



というのが私です。



 そういう意味のことを、これまでにもこのブログで何度か取り上げているのですが、

 

【勝手に人生相談スペシャル】”時をかける少女”さんからの相談です。「解脱者さんは、過去に戻れるとしたらどうしますか?」
 http://satori-awake.blogspot.jp/2016/08/blog-post_9.html




<勝手に人生相談シリーズ> 人生をやり直したいのですが、どうすればいいですか? 
http://satori-awake.blogspot.jp/2016/02/blog-post.html



にも書いている通り、基本的に武庫川は「過去に戻りたいと思ったことがない」人間だったりします。




~~~~~~~~~~





  これにはちょっとした理由があって、武庫川が関西のルヴァン大学を卒業してはじめて配属になったある部署で、隣の机に座っておられたK君という先輩が、ことあるごとに仕事の話やら、労働組合の勧誘やら、ウェッジウッドの紅茶を淹れてくれたりやら、いろいろと構ってくれたので、彼と友人になってしまったが運のつきなのでした。



(その後、武庫川は転職したのですが、K君とは今でも年に数回逢ったりする。きっとK君はホモで、私のことが好きなんだと思う。・・・え?そうなの!)




 そのK君が、やはり仕事の上でいろいろな選択に迫られることがあると、かならずしっかりと熟慮して、


「いろいろ考えて、今この瞬間これがベストの選択だと決めたのだから、もし悪い結果になったとしてもやっぱりそれは今日に戻ったとしてもどうしようもなかったのだ、と考える」



と口に出していたのです。それを隣で見ていた武庫川青年は、


「おお、おっさん言うことはかっこいいな!」


と思ったのでありました。(K君は、自分で”君”とか言ってるわりに、武庫川より10歳年上)




 そして、青年武庫川は、その頃は別に解脱しているわけではなかったけれど、「今日ベストだと思う道を大事にする」ということは、その通りで、「自分もそう思いながらベストを尽くそう」と考えるようになったのです。



 K君はその後、東大大学院へ行って「学歴ロンダリング」うへへ、をしてライバルを見下したり、独身であることをいいことにBMWを数台乗り換えたり、馬を飼ったりしているのですが、あと7年で定年だというのでお互い歳を取ったものです。




~~~~~~~~~~




 というわけで、K君を見習った武庫川も、基本的には「今の選択には、熟慮し決断し、自分でケツを拭こう」と考えるので、


その結果不倫しようが、離婚しようが、職を失おうが、うつ病になろうが、負債を抱えようが、ののしられようが



まったく気にしません。 いくらウン○でびちゃびちゃでも、ケツは自分で葺くのです。



 あまつさえ、解脱してからは「失敗も敗北も、自分の人生を彩る記憶の1ページに過ぎず、後で”こんなこともあったなあ”と懐かしむもの」だと考えているので、さらに過去を引きずったりはしなくなったのであります。




~~~~~~~~~~




 とまあ、そんなことを思いながらのんべんだらりと過ごしていると、面白い記事が見つかりました。


「過去を引きずる人と引きずらない人」「過去に戻りたいと考える人とそうでない人」それが、なんと



アメリカの現在とトランプ大統領の誕生



にとっても関係があるというのです。なんということでしょう!


 というわけで、まずはプレジデントさんの次の記事をご覧ください。




「超大国アメリカを支えるプラグマティズム入門」
http://president.jp/articles/-/20609




 プラグマティズムというのは、アメリカ発祥の哲学みたいなもので、簡単に言えばK君や武庫川のスタンスに似ています。




■ 目の前の課題を今解決しうるベストの選択で対応しようとする。

■ 異なる意見の中から、仮説検証などを通して真理を探ろうとする。

■ 対立軸の中から、相互作用によって現実的な解決を模索する。

■ マイナスではなく、すべてを人生の糧と考える。



 こうした思想は、「神の作りたもうたこの世界」という旧来の真理の価値観があって、科学技術の発展などで「果たしてそうなのか」という疑義が生まれたところからはじまったといいます。


 あるいはヨーロッパ社会がキリスト教神学に支配されてきたとすれば、アメリカ自由主義は、神を卒業したからこそ、人間社会の中で現実的解決を迫られてきた側面があったのかもしれません。



 つまりは、過去に戻りたいと考えず、「今日のベストを尽くす」思想が、プラグマティズムそのものであるわけです。


 スティーブ・ジョブズが「明日死ぬとすれば、今日をどう生きるか」を説いたことは有名ですが、彼の思想には「過去を後悔する余地はない」ということになるでしょう。





~~~~~~~~~~




 とまあ、ここまでは21世紀初頭までの世界を取り巻く自由主義と民主主義の様相だったわけですが、ここに来て、



 まったく真逆の動き



が世界の潮流となってきました。


 それが、いわゆるトランプ大統領の応援勢力となった



 キリスト教保守主義



の思想です。




「このセカイは神が創ったのであって、進化論は間違いだ」

「妊娠中絶は許しがたい」

「LGBTは、神の摂理に反する」

「古きよき過去へ戻りたい」


  大英帝国の繁栄を理想化する英国のEU離反運動もそうだし、今回のアメリカ大統領選挙における保守台頭も、理屈は同じで、これからセカイは



反ブラグマティズム



の様相を呈してくると言えるでしょう。




 過去へ戻りたい、と考えることは、その過去がどのようなものであれ


「理想化された世界像、理想化された自分像」


を追い求めることです。それが本当の真理であれば、それを追究することは美しいものとなるでしょう。


 しかし、その設定が間違っていたり、現実と乖離してゆく一方のものであれば、



それは一層の苦しみを生み出すもの



となるかもしれません。



 EUの選択も、トランプ政権も、まだ歴史は正確な答えを出さず、その途上にありますから、結果について武庫川は何も言及しませんが、少なくとも構造的には、


「過去を振り返る」というのはそういうことだ


と知っておくことぐらいは、よいかもしれません。






2016年9月22日木曜日

【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論4】 資本主義というモンスター




 こんにちは。


 複雑に入り組んだ現代社会に、鋭いメスを入れ様々な謎や疑問を徹底的に究明するシリーズ、いよいよ第4回に入ります。



 今日のテーマは大物ですよ!なんと資本主義そのものについて、戦いを挑もうというのです!




☆ 元ネタはこちら

いま世界の哲学者が考えていること
http://diamond.jp/articles/-/101911




(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?

【武庫川的哲学思想】 資本は幻想だったのかもしれない。モンスターと化した資本主義。


 マルクス主義と共産主義システムの失敗によって、近現代の「時代の覇者」となった資本主義ですが、これが「人類の作った文化文明システムの完成形」と思われた時代がついに崩壊し


 資本主義の終わり



が囁かれるようになりました。実際、私たち先進国民にとっても「資本主義の限界や矛盾」が明らかになってきた今、「いよいよこのシステムは間違っていたのではないか」とさえ肌で感じる昨今です。


 哲学者たちも、この課題には切羽詰りながら取り組んでいることでしょう。


 そんな中近年最も注目を集めたのはピケティの「21世紀の資本」であり、 この本が言いたかったことは結局「格差社会を適切な再分配によって乗り切ろう」という一つの提案でありました。


 さて、資本主義をめぐる課題にはいろいろな要素が山ほどあるので、一口では語れないのですが、解脱者が



 資本主義の本質についても悟ってしまう



とこうなる、というお話を今日はしておきたいと思います。


 さて、どの経済の入門書を見ても、「資本主義とは何か」という説明をするときにはこんな話が出てきます。

”資本家と労働者がいて、資本家が資本を出して労働者に働かせて利益を生んで、うんちゃらかんちゃら”


 しかし、これはいわば「古典的」な資本主義の像であって、現代ではすでにこのレベルを大きく逸脱していることをまず理解する必要があるでしょう。


 たとえば、「人々がモノを欲しがっている状況」であれば、資本家が労働者をどんどん働かせれば、それだけ製品がたくさん出来上がり、利益も大きくすることができます。

 しかし、現代のように「もう全員がスマホを持ち、お風呂とトイレがほぼどの家にもある」ような状況になると、資本家がどれだけ注力し、労働者をどれだけ働かせても赤字になる一方です。


 こうした時代が来てしまうと、「古典的資本主義モデルでは、対応できない」ことになり、これがひとつの「資本主義の限界」を示しているということにもなるわけです。


 さらには、現代ではすでに国家という枠組みを超えて資本主義が世界を支配していますので、グローバル市場における相互作用と、各国の思惑などが複雑に絡み合うと、さらに混迷を極めるということが起きているのはご承知の通りですね。




==========




  しかし、それよりもむしろ「資本主義が本質的に体内に宿している化け物」についてしっかり押さえておくことにしましょう。

 そう!資本主義は本来モンスターであり、必ず人間に牙を向く問題点を内包している、ということはみなさんにとって驚きだろうと思います。


 それを解脱者流にわかりやすく説明してみるといたしましょう。



 まず、原始的な商取引というのは物々交換でした。


 Aさんの持つりんごとBさんの持つみかんがあって、それを交換してどちらもおいしくいただきました、というアレです。


 これはりんごとみかんの価値の差については別に譲るとして、基本的には等価交換ですから「質量保存の法則」にしたがっているし、数式の右辺と左辺が一緒になる意味でも、これはわかりやすいお話です。


 ところが、現代の商取引には「利益や利息」がかならず付随します。


 100円分のりんごは120円で売り買いされるというものです。


 ではこの20円分は、いったいどこからやってきた何者なのでしょうか?

 
 実は、この20円というモノの物質的な理由付けは、近代経済学においても


 よくわからない


 代物だったりするわけです。


 よくわからないから、私たちは必死で理由を考えます。流通経路において経費がかかるとか、需要と供給によってその価値が変動するとか、いろいろな理由付けを必死で後付けするのですが、


「仮にりんごが商品棚から落ちて、傷がついたとして、それを80円で売ることになっても別に流通経路にかかった費用が経るわけでもない」


し、さらには、もしそのりんごが人類にとって最後の1個であれば


「棚から落ちて傷がつこうが、りんごの存在価値は落ちる前とおなじでやっぱり最後の1個としての価値がある」


ことは変わらないわけです。


 じゃあ、なぜ80円になったり、ならなかったり、そもそもなぜ堕ちたら80円なのか、も誰にも説明がつかない結果論だったりすることは、とても大切な視点ですね。


 オークションなんかはその良い例で、このりんごが82円で落札されるのか、84円だったのかは、


 まさしくすべては結果論で後付けの理由でしか説明できない



ことがよくわかると思います。



==========



 資本主義が飼っているモンスターは、価値や価格といった「変幻自在に膨れ上がる何か」です。


 それは人間の欲望と思惑によって大きく膨れ上がり、時には小さくなってみせたりもするまさに妖怪のような存在だったりします。


 ただ、私たちの住むセカイは


「原子や分子といった、きちんと整合された物理科学の秩序ある世界」


ですから、すべての資本主義的融理論はどんなに膨れ上がっても最後は


「質量・エネルギー保存の法則」


によって、再計算・修正されるということを忘れてはいけません。


 つまり、平たくいえば「物々交換の世界における、そこにあるリアルなブツ」に引き戻される、ということです。


 バブル崩壊やリーマンショックはこれです。

 肥大化した貨幣としての金額が実態に見合っていないことがバレた瞬間、それらは一瞬にしてリアルなブツの価値分へと引き戻されるということが、資本主義社会ではかならず起こるようになっているのです。



 なぜなら、肥大化した分は、常に幻想だからです。




  
 仮に、世界が世界じゅうの資源を食い尽くした未来がやってくるとしましょう。その時には、貨幣をいくら山のように積んでも、一本のにんじんを持っているほうが勝ちなのです。

 あるいは、一個のじゃがいもを持っている者のほうが生き延びられることになります。


 にんじんとじゃがいもは交換される可能性を残していますが、それがそれぞれ最後のにんじんでありじゃがいもだったとすれば、そこに貨幣の介在する余地はもうありません。


 資本主義における貨幣価値という幻影は、やはり幻だったのだと言わざるを得ません。


==========

★追記)


 人間の欲望と思惑によって文化文明は肥大化してきましたが、資本主義の良かった点をひとつだけ挙げるとすれば、


「欲望と思惑の肥大化とその実際の入手は、旧来であれば物理的収奪(戦争と暴力)によってなされたが、マネーゲームのおかげで、その戦いは貨幣を通じてなされることになったため、人が直接的に暴力に晒される機会は減った」


ということでしょうか。


 もちろんマネーゲームで自殺するはめになったりすることはありますが、物理的戦争が確実に減少したことは事実だと思います。




 
==========


残り2ネタあります。つづく。
 
(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?

【武庫川的哲学思想】 この武庫川散歩が、完全なる宗教を創始しようじゃなイカ。




(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

【武庫川的哲学思想】 滅びるまで、食らい尽くせばいいんじゃない?

2016年9月21日水曜日

【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論2】 電子化されるセックス



 どうも。稀代の哲学者、武庫川散歩です。


 武庫川散歩がズンドコベロンチョと哲学を語る新連載、今日は第2回目ということで、前回までの宿題に取り組むことにしましょう。


 
 現代の哲学者がテーマにしているという5つの問題。それを武庫川的にも考えてみようという


 タダ乗り


コーナーですね。では、はじまりはじまり。


☆ 元ネタはこちら

いま世界の哲学者が考えていること
http://diamond.jp/articles/-/101911







(1)「IT革命」は、私たちに何をもたらすか?

【武庫川的哲学思想】 メシとクソと生殖以外は、すべて電子化される!

 岡本さんの記事では「管理社会」として、IT技術によって私たちの行動が監視・管理される時代がくることについて言及されていました。

 このことは、ネットをしていると「どこからワシの変態志向を知ったんだ?」と思うくらいに、自分たちに「適したと思われる」バナー広告が次々に示されることなどからも実感していると思います。


 しかし、武庫川が指摘するのはその側面よりも、


 ”IT技術は、大脳新皮質を代替する”


という点を宣言しておきたいと思います。


 動物、とくに哺乳類などにおいて、生きるのに必要な「食う・息をする・心臓を動かす」などの働きは、脳みその中心部分でコントロールされていますが、「感情やら言語やら、何かを読み取る」などの高度な働きは、「脳みその比較的外側の発達によってなされている」ことがわかってきています。


 IT技術が進歩して生じたことは、「音声・言語・画像・文章・動画」などの表現については、


「すべてITメディア上に置き換えられる」


ということが実際に起こってきました。


 それを人間の知覚で説明すると、

「視覚・聴覚は100%近くITに置き換えて提供できる」

ということになります。

「触覚は現在発達中、嗅覚と味覚はITでは難しい」

ということも言えるでしょう。


 新しいiphone7では、ボタンを実際には押さずに「押したような感じのフィードバックがある」とされています。これは触角の分野にITが進出しようとしている一例かもしれません。


 興味深いことに、仮想現実や拡張現実という技術を使うことによって、 今後は「脳みそがコントロールしていた領域」にどんどんITが入りこんでくることは否定できず、それはすでに性行為の分野にまで及んでいることです。


 国内外のアダルトサービスに、遠隔操作でバイブレーションが動くという代物があり、実際にそうしたサービスが提供されているのですが、一部の研究者は真剣に「実際に二人がそこに出会うことなく、擬似的な性行為が完成できるようなシステム」を作ろうとしていることも事実なのです。


 もし、目で見て楽しみ、音を楽しみ、快感ですらITで楽しめるようになるのであるとすれば、タイトルに書いたように


「メシとクソとフロとネルと生殖以外は、全部ネットで事足りる時代」


がやってくる、ということになるわけです。






==========



 視覚や聴覚ですら、電子情報に置き換えられるのであるとすれば、そもそも脳は電気信号で動いているわけですから、原理的には


「見るべき対象としてのモノは存在しなくてもいい」


ということになります。仮に、モノの画像データと、周辺の音データと、触感データだけを脳みその電極にぶっ刺してやれば、


「そこに何も存在しないのに、確かにモノが存在する世界」


が出来上がることになります。


 そういう意味でも、武庫川の根底にある「世界は存在しないけれども、存在するように感じるんだ」ということと話が繋がってきますね。


 そして、それは、すでに現実になりつつある、ということなのです。




 ==========

 

 面白いことに、ネット社会が生まれたことで、「労働・生産」ですら「存在しないのに、存在するもの」に向けられるようになりました。


 「モンスターストライク」でも「白猫プロジェクト」でもなんでもいいけれど、スマートフォンのアプリを作るということは、


一体何を生み出している


というのでしょうか?


 これまでのセカイは、大根を出荷するとか、CDや本を売るとか、ファミコンカセットを販売するとか、そういう


「実態としてのモノ」


を商品として取り扱ってきました。


 ところが、スマホのアプリは、単なるデータであり、実態がありません。そして無限に複製できるので、資源や資産の変換物としては規定できません。

 ある限定された環境(アンドロイドやiOSでは動くけれど、DOSやソラリスでは動かない)でしか、実働できないものでもあります。



 しかしそうした実態のない商品が「成果物として売上を上げている」わけです。


 それは、プログラマの実働時間や働かせた頭脳や、マーケティングに関わった人たちのアイデアなどを労働対価として成立しています。



 とすれば、すでに「概念を生み出す行動を労働と呼べる時代」へ突入したことになるわけです。



 概念はすでに、モノに限りなく近いものとして存在し始めているのです。




==========



 ここで、哲学的な問いをひとつだけみなさんに提示してみたいと思います。


 Q「タモリの弔辞は存在するか、それとも存在しないか」


 まるで、禅問答や公案のようですが、これは今日のおさらいにあたる発問です。



 赤塚不二夫氏がなくなった時、その弟子と言ってもよかったタモリさんは、彼の霊前で淡々と弔辞を読み上げました。


 ところが、後で判明したところによると、タモリさんは、真っ白な紙をまるで何かが書いてあるかのように読み上げており、そこには何も書かれていなかった、というのです。


 さて、タモリの弔辞は、この世に存在したのか、それとも存在しなかったのか。



 物理的に書かれたものや、書き留められたものが存在しない、ということは明らかです。

 しかし、タモリさんは、実際に弔辞を”読み上げ”、その声は万人が知るところとなりました。


 実際にその音声を書き写したものは、ネットにもたくさん転がっています。



 あるいは、もし、タモリさんがこれを読み上げずに、心の中で思っていただけなら、その時


「タモリの弔辞は存在しなかった」


といえるでしょうか?


 彼は、白紙を見ながら、その瞬間に思いついたことを発声しましたが、声にしたから存在して、声にしなかったから存在しなかったというのであれば、


 存在は単に声帯が震えたかどうかによって決定する


ということになります。これはナンセンスですね。


 仮に指で空中に書いても概念は存在し得ます。身振りで示してもOKです。ましてや、何もせずに思い描いただけでも、


「タモリの弔辞は、たしかに存在した」


とこのセカイでは言えるはずなのです。



 だから、私たちは単なるプログラム(それも書き起こされる前のアイデアや概念の段階についても)対価を払い、給与を支払うことができるのです。


あるいは、前回の話に出てきた、「ユニコーンは存在する」ということもそうです。



 ==========



2項以降は、次回から続きをやります。




(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?

 【武庫川的哲学思想】やりたいようにやればいい。それが幸せかどうかはわからない。




(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?

【武庫川的哲学思想】 資本は幻想だったのかもしれない。モンスターと化した資本主義。




(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?

【武庫川的哲学思想】 この武庫川散歩が、完全なる宗教を創始しようじゃなイカ。




(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

【武庫川的哲学思想】 滅びるまで、食らい尽くせばいいんじゃない?







2016年9月20日火曜日

【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論1】 なぜ世界は存在しないのか。 ~21世紀の哲学の潮流を追う~



 どうも、稀代の天才にして変態、パンツまで解脱した男、武庫川散歩です。






 前回まで5回くらい、ギャグなしの記事を書き続けていたので、そろそろ禁断症状が出ているらしく、今日からいつものテイストに戻ろうと思っています。


 性懲りもなく、また「セカイ系一人語り」をはじめるわけですが、せっかく先日までの連載で「この世界で起こっていること、これから起こること」に注目したので、今度はリアルな世界からちょっと離れて、観念的なほう=哲学かいわい、についてお話しようと思います。


 
 その前に、予習として、ダイヤモンドオンラインで連載中の



 いま世界の哲学者が考えていること(岡本裕一朗)
 http://diamond.jp/category/s-sekainotetugakusyagakangaeteiru




という連載を、ある程度読んでおいていただければ、理解が早まると思います。


 まあ、哲学がテーマですから、「小難しいこと」もたくさん↑には書いてありますが、武庫川のお話は「中学生でもわかるように平易なことばで」書くことを基本にしていますから、ご安心を。


 けして、ストライクゾーンが中学生(ロリ)なわけではないことを、誤解なきよう。



==========


 哲学を学びたい!という人は、実際に大学の哲学科に行ったりすると全員が「一回は、肩透かしを食らう」のですが、その理由は簡単で、


 「自分はセカイの成り立ちについて知りたいのに、大学では哲学の歴史について延々と習う」


からだったりします。


 このことは前もどこかで書きましたが、


「小説家になりたくて文学部へ行っても、小説の書き方を学ぶどころか、わけのわからん古典から明治くらいまでの小説をいろいろ読まされるだけ」


だという現実に似ています。



 つまり、大学というところは、「これまでに生じた先行的なものを後から追いかけて整理して理解する」ということが学問なのであって、


「まったく新しいあなただけの何かを生み出す、ベンチャー企業のような手法は教えてくれない」


ことを理解する必要があるというわけです。




 しかし、今日紹介した連載を読むと、これまでのように、「古典から順繰りと哲学の歴史を習う」というだけでは、現代のさまざまな新しいセカイの問題や課題に対処できないため、



 まるでITベンチャーが生まれるように、哲学にも新しい潮流が生まれてきている



ことも、知っておくと良い、ということになるでしょう。


 簡単にまとめると、哲学は以下のように発展してきました。


<認識の時代>・・・自分とは何か。世界を認識するとはどういうことか。何を見て知覚するか、といったことに着目した時代。

<ことばの時代>・・・概念や思考はことばに由来する。では異なる言語間では共通理解は得られるのか?「善悪や正義」も異なる言語や国の間ではズレがあるように、相対的なものなのではないか、といった考え方をした時代。


 これらは、いわゆる数学や科学の発展とリンクし、先進国における高度な文明のように論理的に構築されてきましたが、 その限界が見えはじめると、

「心やコミュニケーション」

といった自然的なものを取り上げるような、新しい哲学の潮流が生まれた、といいます。


(よくわからんけどwww)






 そんな中で、記事の著者、岡本さんが取り上げているのが「マルクス・ガブリエル」なる哲学者の論で、その名も


「なぜ世界は存在しないのか」(2013)


という著作!




 まるで武庫川散歩が、このブログで書いているのと同一の話なので、ムコガワもビビビッとくるのですが、 本質的に言ってることは私とおなじです。


 ちなみに、ガブリエルかヒキガエルかなんぼのもんか知りませんが、ムコガワがこの説を提唱したのは、大学1年生の時(18か19歳)ですから、



 今から23年前、1993年のこと



なので、か、勝った!!!!ワシのほうが早かったもんね!!!


と声を大にして主張するところだったりします。(←バカ)





 ガブリエルの論の立て方は2つほど例を挙げて説明しましょう。


ひとつめは(別サイトからの引用ですが)



「世界」は存在できるのかhttp://globe.asahi.com/bestseller/2013091200025.html


ではこんな話が出ています。


” 太陽系の惑星、水洗トイレ、はげ、素粒子は存在する。存在しないのはこれらすべてを含むとされる『世界』のほうだ」”


 斎藤さんだぞ。


”古代ギリシャ以来、哲学者がその存在を前提としてきた「世界」を、ガブリエルは、個々の事象をすべて収容できる巨大テントにたとえる。テント全体を見よう とする人は外に出なければいけない。外に出た途端、今までのテントと、それを外で眺めている人を収容できるもっと大きなテント(=世界)の想定が必要にな る。こうして少し前まで「世界」とされていたものも、ただのテント(=個別の事象)に転落。これが「世界」が存在できない理由だそうだ。 ”


”ガブリエル教授の業績は「世界」の存在を否定しても、個々の事象の存在を意味と関連させて肯定する点にある”


 これをムコガワ式に説明すると、こういうことになります。


 つまり、世界はテントの内側にあって、その外側がどうなっているかはわからない。その外側を規定すると、プログラムの中の「RPGゲーム」とおなじことになり、それは単なるプログラムと同化する、というわけです。


 セカイの外側に神様や創造主がいるかもしれないけれど、そうだとしてもやっぱりこのセカイは箱庭の中のコマに過ぎなくなる、というイメージでもよいでしょう。


 そして、ガブリエルとムコガワの共通点は、最後の一文で決定付けられます。


「もしセカイが存在しないとしても、その中にいる我々にとっては【存在するように感じられる】のだから、その内側の我々にとって【存在すると感じられるもの】は肯定するんだ」


ということで、これはムコガワと合致します。


 内側にいる人類は、どうしようもないじゃん、ということでもありますね。


 ガブリエルが面白いのは、もとの記事に戻りますが、私達が目で見て知っているいろいろなモノだけでなく、


”物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考える”
 

という点です。


 私たちは一角獣を存在しないと思っていますが、少し考え方を変えれば、世界中が熱狂しているように「ポケモン」はセカイに存在するし、ピカチューはあまたのプログラムの中に存在します。

 プログラムは電気を通じないと動かないけれど、プログラム言語に記載された瞬間に、「存在」として現存するわけですから、そこに電気が流れなくても存在していることになるのです。


 つまり、ポケモンは空想上の「思い描いただけで、実態をもたない」一角獣と同等に、存在することになる!というわけです。



 ガブリエルの考え方はムコガワと同じで、逆説的です。


「セカイは存在しないけれど、存在すると感じ取れる内側ではちゃんと存在する」

じゃあ、

「プログラムのような実態を伴わないものも存在するのだから、プログラムが実は存在しないように、我々のセカイも存在しないのでは?」


 という、逆説論になっているわけですね。




==========


 さて、連載の第6回では、現代の哲学者が考えている5つの問題について取り上げられていますが、せっかくなので、ムコガワもそれに乗っかることにしましょう。


 次回はそのあたりを、攻めてみたいと思います。





 


 




















2016年7月9日土曜日

哲学は人類を幸福にはしてくれない



 東洋経済オンラインさんで、ずっと連載している、あの「中島義道」センセイの


「哲学塾からこんにちは」


が7月になって久しぶりに更新されていました。



 哲学が人類を「幸福にしない」これだけの理由
 http://toyokeizai.net/articles/-/124180




 前回の更新が3月末でしたので、3ヶ月はゆうにほったらかし、という連載。さすがは中島義道先生です(笑)



 そういえば、ジャンプのハンター×ハンターの作者、富樫センセイもまた休載のようですが、 武庫川の友人が、トガシ先生の昔のご学友だったそうで、


「うん、まあ、彼はいろいろと大変なんだよ」


と察して欲しそうでした。察します。




~~~~~~~~~~


 さて、そんなこんなで世間では心に病を抱えた方がたくさんおられますが、武庫川は今日も元気です。

 
  だって、悟ってるから。あははん。



 さて、今回の中島センセイのお話。


 哲学を追求すると、この世界で生きることよりも真理を知ることに重点をおいてしまって、その結果・・・悶死。


という意味のことだったように思います。



 哲学においては、人類が滅びようが真理は真理ですから、人類の幸福と相反しても、それは真実なのだ!とついやらかしてしまうところがある、というわけです。




 そういえば、つい先日も、このブログのファンの方とそんなメールのやりとりをいたしました。


 え?武庫川にメールをしてくるやつがいるのか?って?


 いるんです。それが!



 まかり間違って、武庫川が実は存在しないのにメールを受け取っているような錯覚に陥り、そしてかつ返事を送っているような錯覚に陥っているのでない限り、そういう事実があるように受け止められます。



 哲学も悟りも同じですが、真理の追究に向かっていると、俗世のこととどんどん乖離してゆきます。

 俗世における善悪などというものは、解脱と哲学の前には、ほとんど無意味になってしまいますから、(かといって、悪さをするわけではないけれど)、中島センセイの言うように、


「子供が哲学科へ行きたいと言い出したら、全力で止める」


のはマストです(笑)


 それも、京大の哲学科がいい!とか言い出したら人間として終わりかはじまりかわからないぐらいのすごい状態ですから、 親御さんとしては心中お察しいたします。


 まあ、中島先生が、「哲学などなんの役にもたたないので、税金なんかつかって国立大で教えんでもよろしい」みたいな意見もわからなくないから、苦笑してしまいます。



 あ、でも中島氏はとてもいい提案をなさっているので、それには武庫川も大賛成したいと思います。

 引用

”幕末の私塾のように、志のある哲学者が塾を開けばいいのです。そして、志のある若者(あるいは中年、老年)がそこで学べばいいのです。”



 これですね!これ。



 というわけで、自称哲学者であり解脱者であり、妄想癖の武庫川散歩が、こんなブログを書いているのも



そこに意義がある!


と納得するわけですよ。



 私は志とかはあんまりなく、どちらかというと


 寸志でいいから、くれ!


というタイプですが(笑)



 もし、このセカイについて多いに考えて考えて考え抜きたい人がいれば、誰でも当ブログに集っていただいてかまわない、と思っております。


 武庫川はお金がないので、私塾を開く余裕などありませんが、メールくらいならいつ下さっても大丈夫です。


 ただし、個人的にはメール下さるなら女性がいいです。


 あと、女装癖のある男性でも、まあいいです。


 むっさい男子の場合は、哲学してる暇があったら労働してこい!と怒鳴るかもしれません(笑)













2016年6月17日金曜日

初心者のための哲学入門 〜哲学って何ですか?〜

 このブログを読んでいる人の中には、おそらくごく少数だけ、武庫川散歩の正体を知っている人間がいると思うのだが、ふだん


「宗教だの哲学だの、しょーもないことを」


つらつら書いている武庫川が、昔から生まれながらの哲学者であること知っているに違いない。


 なんのこっちゃ普通の人にはわからないだろうが、それでいいのだ。分かる人向けに書いているので一向に無問題。


 というわけで、武庫川は、生まれた時から


「哲学者です!哲学者なんですってば!」


と書いた紙切れを言わば顔面に貼り付けながら生きてきたので、哲学とは何か?とか、哲学的に生きるとはどういうことか?について人一倍



 悩みながら、あるいは考え抜きながら生きてきた



と言っても過言ではない。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 そんな武庫川であるから、このブログに書いているとおり、人生やこの世界のありようについて、常に真剣かつちょっとだけエロティックに考え抜いているのだが、一般のみなさんにとって哲学とは、あまりなじみのないものに違いあるまい。



 というわけで、Webちくまさんで、そんな「哲学初心者」のための連載がはじまっているのでご紹介。



 はじめての哲学的思考

第一回 哲学ってなんだ
http://www.webchikuma.jp/articles/-/23




 この連載、すでに5回までが掲載されているので、興味のある人は読んでみるといい。


 苫野一徳という、1980年生まれの私より若い哲学者のにいちゃんが、いろいろと哲学についてわかりやすく書いてくれているので、初心者にはもってこいだろうと思う。




 奇しくも前回の記事で、私は「神と自由についての関係」を論じたが、苫野氏の記事でも、「自由」がいかにして大切なものと考えられてきたかが哲学的な視点で解説されているので、

チェキラッチョ!(読んどけ)


さて。


苫野氏の論の立て方をみてもわかるとおり、基本的には「哲学」というのは「科学」や「宗教」との隣接領域である。あるいは時に、それぞれがそれぞれを包括している場合もあったりする。


 それは当ブログの内容でもまったく同じで、私は時に「宗教の視点」からも「科学の視点」からも「哲学の視点」からもお話をする。


 日本では、学位の一番えらいのは「なんとか博士」という博士号だが、海外では、学位の一番上は


Dr (ドクター・博士)


ではなく、


Ph.D




という称号になっている。


 これは原文では Doctor of Philosophy のことで、直訳すると、哲学博士 という訳になる。


 しかし、これはいわゆる「哲学領域に通じた人」という意味ではなく、すべての事象である「科学・文学・芸術・などの人の行いうる学問の粋を集めた」という意味での普遍的な意味でのフィロソフィ(哲学)という言葉だと理解しておこう。



 というわけで、ワタクシ武庫川散歩も、領域にかかわらず最高水準の知の話題をみなさんにお届けしているのは、そういうわけなのだ。





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 というわけで、今日も、最高水準の知的な話題を。

  
 カエルの特異な交尾 体に触れない体位?!
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160615-00000034-jij_afp-sctch 



 ヤホーでも話題になっていたこの記事。ようするにある特定の種類のカエルは、異性に触れることなく受精を行うというのである!


「雄は、雌には抱きつかずに、葉や枝、木をつかんだり、その上に前脚をついたりして、雌の背中の上にまたがる」

「雄は、雌の背中の上に射精する。精子はその後、雌の背中から後ろ脚を伝って流れ落ち、卵に到達。受精となる」

「雄と雌の間には数ミリの隙間が保たれ、ほとんどの場合、お互いに決して触れ合うことはない」


 ということは何ですか?つまり、



 ピタゴラ装置を次々に伝播しながら、最終的に精子と卵子があらぬところで結合して子供ができる


という



 ピタゴラエッチ♪

 (NHKさんとは関係ありません)



が存在するというのである。


 ここから哲学的な問いかけをしようじゃないか!


「・・・そこに愛はあるのかい?」 (by江口洋介・ひとつ屋根の下)




 いやあ、今日もとっても痴的なお話だったね。


2016年6月9日木曜日

Gods is Free ! 『神は自由なり』  今宵「神は死んだ」のニーチェを越える稀代の哲学が誕生! 

 梅雨に入って、雨模様が続いていますが、みなさんいかがお過ごしですか?

 あなたの心の恋人、武庫川散歩です。ちなみに、既婚者のみなさんは、心の恋人にとどめておいたほうがいいです

 もし本当に恋人になってしまったら、ベッキーやファンキーみたいになってしまいますからね!!!


 しかし、ファンキー加藤氏は、巷ではあまりの潔さに炎上を免れたようですが、もういっそ、濡れ事をテーマに、


パンティーリスキーできちゃったベイビー


に改名したほうがいいと思うのですが、いかがでしょうか?





 はい!そんなこんなで今日も元気に解脱、してますか?解脱者の割には、俗っぽいネタが多いことで有名なこのブログですが、今日はすごい内容でお届けしましょう。



 どれぐらい凄いかというと、武庫川があのニーチェを超えた瞬間にあなたも立ち会える!というお話なのですから、これはドキドキワクワクが止まりません。



 ああ、あの二人組みのぽっちゃりお笑い女子? ・・・それはニッチェ!!!




 ニーチェですよニーチェ。かの名言「神は死んだ」と言った哲学者のニーチェです。


 西洋文明が発達し、ギリシア以来の神、あるいはキリスト教とローマによって発展した西洋的な思想そのものが変容したことを、


「神は死んだ」


と言い表したのがニーチェでしたが、現在の資本主義・西洋民主主義においても、無神論的視点はいっそう大きくなっているところです。


 まあ、そのアンチテーゼとしての「神に帰れ」運動が、テロリズムに依りつつあるイスラム原理主義なわけですが、それはまた別のお話として。





 ~~~~~~~~~~




 さあ、では稀代の哲学者にして、自称他称を問わない解脱者の武庫川が、どんなことを考えているのか!その解説に参りましょう。



 武庫川が読んでいたのは、プログラミング言語Rubyの発明者である、まつもとさんの講演録です。



「マイクロソフトを嫌っていたのではない、われわれが嫌われていたのだ」――Rubyまつもとゆきひろ氏が語る、MSの壁

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1606/08/news138.html




 このお話、簡単に言えばパソコンとかコンピュータの話なのですが、そこから「神のありよう」について考えてしまうのが武庫川のキレッキレに凄いところです。


 もうたぶん、自分でもキ○ガイなんじゃないかと思うくらい、今日の武庫川は、キテますよ。



 まつもとさんのお話は、こんな感じです。


”
 コンピュータの世界というのは、いろいろなプログラマーがソフトウエアを開発して、みんなが便利になることを目指しています。


 なので、コンピュータの研究をしている大学や学生さん、あるいは在野のプログラマには、「Free」な文化が根付いています。


 フリーというのは、無料と訳される場合もありますが、単純にお金がかからないのではなく、それまでにあったプログラムの設計図を自由に後のものが利用できたり、改良できたり、みんなでプログラムを良くして行こうという、ちょっとボランティア精神にも似た考え方を言います。


 なので、特に大学を中心として発展したUNIXというコンピュータの文化は、設計図も公開し、利用も改変もタダで自由にできるという文化が根付いていました。


 ところが、マイクロソフト社が売り出したwindowsなどのソフトは、「莫大な労力がかかっているのだから、それなりの報酬を得るべきだ」という思想のもと、有料でかつ著作権によって保護された商品として出回ることになりました。


 しかし、それでは、あるプログラムをもっと良くしようと思っても、マイクロソフトに就職して内部の設計を見せてもらったり、あるいは仮に改良できても自由に公開することはできなくなるという問題が起きることになります。


 そのため、世間ではwindowsなどの商用ソフトを使う文化と、フリーなUNIX系ソフトを使う文化に二分されてしまっていたのです。


 ところが、今windows10は無料でアップグレードできたり、UNIXのソフトであるbashがwindowsで動くようになったりと、両者には歩み寄りが起きているのです。


”


・・・完全に最初から最後までコンピュータの話ですね!



 それがどうしてニーチェや哲学や神の話になるのか?と思われるかもしれません。


 ですが、武庫川は常々、この世界はプログラムである、仮想論理と同等である!と言っているとおり、これは完全に


 神様についての話


に置き換えることができるのです!




~~~~~~~~~~




 ビルゲイツにとっての善は、「ソフトウエアは、ルールと会社の掟に則り、商材として扱われるべきで、その報酬をプログラマは受け取るべきである、それが正義で善だ」、ということになります。


 しかし、フリーなプログラマにとっての善は、「ソフトウエアは公開され、自由に取り扱われるべきだ、それが正義で善だ」ということになります。



 まったく真逆な内容が、善であり正義であるとされ、それらが並立するのがこの世界の特徴です。


Aという国とBという国にとっての正義が真逆であるとか


Xという宗教とYという宗教にとっての正義が真逆であるとか


そういうことは日常茶飯事だからです。




 これは、それぞれの主張が閉じていて、一方の目線で語られることに原因があります。


 砂漠の宗教の神にとっては、「自分を信仰するものだけが善であり、神だけが正義」です。そして、それ以外の者は、「滅ぼされるべきである」と考えています。


 そして、そのおなじ砂漠の宗教の神は、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教それぞれにおいて、


「これが善で正義だ!」という主張を閉じた内容で語っている


わけです。




~~~~~~~~~~


 まつもとさんの話では、ビルゲイツとマイクロソフト社の存在に対して、コンピュータを用いるものが行える対応策はいくつかある、ということが挙げられていました。


① windowsに従う

② windowsを無視する。

③ 多大な労力をかけて、すりあわせをしてゆく。



 神との向き合い方も、これに似ています。


① 砂漠の神(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)に従う

② 砂漠の神(とその系統の宗教)を無視する。

③ 多大な労力をかけて、相手の宗教について理解し、すりあわせをしてゆく。



ほら、まったく同じでしょ?



 アメリカ大統領選挙を支配するという保守層は、その大半がキリスト教系保守です。そういう意味では、アメリカの農村を動かしているのは、windows に従うものたちということになります。

 そして、一方でニューヨーカーや日本人といった無神論者たちは、windows を無視して生きています。

 そして、イスラムを理解しようとしたり、ハラールにあわせた料理を提供するなどのすりあわせをしている人たちも多くいます。




 この状況を見て、武庫川はハッと悟るのです。



 砂漠の神が正しくて、日本の八百万の神が間違っているという議論ではありません。


 西洋の資本主義が善で、共産主義的な公平論が悪だという議論でもないのです。


 そうか!


 神は死んだのではない。



 神は自由に宿るのだ!!!



と。


 Gods is Free!


  神は自由なり。



 神を人格神ではなく、正義そのものだと捉えてみてください。すると本質が見えてきます。




 「これが正しいのだ、こうすべきだ」


という閉じた主張をすることが善ではない。それは正義ではありません。


 なぜなら、反対の立場のものにとっては、それは悪になるからです。



 正義とは、閉じた主張ではなく、オープンソースで開かれたものであり、自由に誰もが扱えるものである、ということなのではないか?


 武庫川はそう考えます。




 つまり、正義や善の正体が見えた!のです。



「正義とは、より良くあろうとする人類の英知と努力の状態である」


 これが、武庫川が定義する、正義と善の姿です。



 ですから、「良いと思われる方向に努力はしていますが、完結もせず、結論も出ず、そして面白いことに、それが本当に良いかどうかも判定できないもの」でもあるのです。



 だから


「正義には誤りが含まれる」


ということも、言い換えることができます。



 ちょうど、正しい動きをするように考えているのに、どうしてもプログラムにはバグが含まれるように、誤りが含まれることもあります。

 また、これで完全完璧なプログラムが出来た!ということがあり得ないように、「より良い方向を目指して人類は生きているけれど、完全なる正義や善が存在し得ない」ことも同じなのです。




 神は、そして正義の真の姿は、開かれた自由である。


 これが、ニーチェに対する、超時空哲学者、武庫川散歩の答えです。



 

2016年4月1日金曜日

人生の救いはどこにあるのか?! 中島義道の答え

 毎々、哲学塾の「中島義道」さんの文章がおもしろいので、チェックしている武庫川散歩ですが、今月も新ネタがアップされていたので、ご紹介します(^^



 東洋経済オンラインより

哲学に「人生の救い」を求めるのは、筋違いだ

http://toyokeizai.net/articles/-/110624 

 

・・・相変わらず面白いですね〜。今回もツカミは「哲学塾」にやってきては去ってゆく人たちの話なのですが、基本的には

「多くの人々は、哲学というものを自分が思っていたものと違うので、去ってゆく」

 のだそうで。まあ、そうだろうなあ、と思います。


 中島先生いわく、「個人的な悩みを解決するには、哲学は何の役にも立たない」し「悩みを解決したり軽減したりはできない」のです。

 だからこそ、そうした悩みを持つ人に対しては、カウンセラーや宗教や、あるいは精神科の医者がいるのであって、哲学はそもそもそこが対象ではないのです。

 

 仏教やら、ふだん武庫川が言っている「解脱・悟り」もそれに似ていて、「解脱や悟りを得ること」は、

 

 あなたが今抱いている諸問題の解決とは、何の関係もない

 

 ことは明らかです。つまり、悟りはあなたの問題に対して直接の回答にはならないし、あなたを救ってはくれません。

 

 じゃあ、何のために悟ったり、悟りがあったり解脱が存在するのかというと、これまた簡単に言えば

 

 「あなたの問題や人生の救いというものが、実はどっちゃでもいいということに気付く」

 

ために悟ったり、解脱したりするわけです。これはこれで、あなたが今抱いている問題そのものが、実はどうでもいいことだ、とするわけですから、結果としてあなたは自由にはなれますが(笑)

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 ちょっとだけへんてこな例を挙げて説明すると、今「不倫はいけない」ということが超話題になっていますが、「不倫をする」ということと、「側室がいる」ということは実は行為行動としては同じようなものです。

  しかし、一方はいけないことで、もう一方は「時代背景や社会情勢により、べつにOK」なわけで。

 ということは、そこに「問題」や「過ち」が存在するかどうかというのは、それこそ「時代によって問題視されたり、されなかったりする」ということが真実なのです。

 

 人生の悩みも同じで、それを「悩みと捉える」から悩みなのであって「問題と捉える」から問題なのです。

 もとから「そういう時代背景や事情ならOKなんじゃない?」ということだと、それは問題や悩みですらないわけで。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、中島先生の場合は、そうした問題や悩みを解決するために生きているわけではなく、むしろ「どうしてそのような悩みや問題がこの世に存在するのか、その真実を知りたい」くらいのことなわけで(笑)

 

 これについては武庫川も激しく同意します。

 

 さて、中島先生が人生の救いそのものを放棄なさったので、武庫川がその分頑張らなくてはいけません(^^

 

 というわけで、梵天に「衆生を救うよう」励まされたシッダールタのごとく、武庫川散歩は今日も元気に人々の悩みを解決しております。


 まあ、何かあればメールください。

 


2016年2月24日水曜日

中島義道が斬る、ゲス川谷、ベッキー、宮崎議員、桂文枝の不倫騒動

 不倫は文化だ!


と、石田純一さんは実は言ってないのですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?


 まあ、石田氏の場合は「(不倫のような)忍ぶ恋から文化や芸術が生まれたりしますよね」ということを言っただけで、


 それはまったくもってそのとおり!


とこの武庫川散歩も石田純一さんの肩を持ちます。向うは、私のことをいっさい知りもしませんが。




 さて、週刊センテンス・スプリングさんが放った「文春バズーカ」第一弾、ゲスの極み乙女川谷さんと、ベッキーさんの「ゲス不倫」騒動、そして、宮崎元議員による「ゲス育休不倫」騒動の第二弾、そして桂文枝さんの「愛人さんいらっしゃい!不倫」騒動の第三弾に至るまで、まさに



 現代日本の文化として不倫が存在する



ことを見せ付けられた2016年でした。




 さて、そんな不倫に対して、あの哲学者である、われらが中島義道先生が、ひとこと哲学的視点からモノ申しておられることをみなさんは知っていますか?



 というわけで、今回の記事は



「哲学者 中島義道が斬る!不倫は哲学だスペシャル!」



をお届けしようと思います。



~~~~~~~~~~


婚約破棄した男は「不誠実なダメ人間」なのか
http://toyokeizai.net/articles/-/102182

(東洋経済オンラインより)




 詳しいことは、まずは中島センセイの記事を読んでいただければわかりますが、まず、哲学の大前提として


”そもそも、善いとか悪いとかそれはどのような意味なのか”

とか

”悪いという行為を人はなぜ悪いと知っていてやってしまうのか”

とか、そういう本質的な問題が哲学であって、「これは善いとかこれは悪いとか、そういう次元の問題ではない」ということを理解しておく必要はあります。



 そういう意味では、「不倫は悪い」と一般的に思われていて、ゲスとベッキーと宮崎氏といらっしゃい!氏は断罪されるべきだと思われていますが、


そもそも、彼らは悪いのか?


というところから問い直さなければいけないのです。




 ワタクシ、武庫川散歩は、解脱者の立場から


「不倫はいけない」とか「不倫はよい」とかそういうことは言わない


ことにしています。善悪の基準を持ち込むことはせず、ただ


「この世に不倫は存在する」


と考えています。



 ここまでは、中島先生も同じです。不倫はある。それも、よくある。けっこうある。


じゃあ、そんなにある不倫について、「人はなぜそれを悪としているのか」が問題だというわけです。



~~~~~~~~~~


 哲学の答えは、けっこうカンタンで明解です。


 中島先生は、「自分もふくめて、人というのは気分屋で、ころころ気が変わったりその時の気分が前に言ったことと逆だったりする」ということをまず認めます。



 こういう気持ちの変動や変化は、ただ「この世において・わたしの中に・誰にも存在する」ということがまず認められるわけです。



 しかし、その気分によって、前にしていた約束と違うことを実行したり、あるいはお金を払う契約をしたのに払わなかったり、注文したものが届いてからキャンセルしたりすれば、


「相手が損をする・損害を受ける」


から、それは社会をスムーズに進行できなくするので、「悪」とされる、というのです。




 しかし、こうした欲求の変動は、人間として自然なものです。それでも、一貫性や契約やそうしたことが重要視されるのであれば、


「それは人間の本性や本質的な部分から出てきているのか、それとも、後付の単なる取り決めなのか」


を考察したい、それが哲学だ!というのです。




 思えば武庫川散歩も、19歳の時にこのことを悩み続けました。


 最も古い法のひとつとされるハムラビ法典というものがあり、それに


「なんちゃらをしてはいけない」


とか


「なにそれをすると罰する」


とか、そういうことが書いてあるのですが、果たしてそれは



「王がそう決めたから、その命令に従わなくてはいけないから人はそういうことをしないようになったのか、それとも、人はもともとそういうことがマズイと思っていたけど、王はさらにそれを明文化しただけなのか」


をずっと考え続けて夜も寝られませんでした。



 ああ、19歳の私はすでに哲学者だったのです!



~~~~~~~~~~


 本題に戻りましょう。


 不倫をするとなぜいけないのか。中島先生は、もうひとつそこに「情緒」が介在するといいます。


 情緒とは、「情が移って可哀想」とか「申し訳ない気持ちになる」とかそういう感情論です。


 情緒主義を取る哲学者たちは、結婚や約束や契約などは、「守らないとダメだよね」という情緒に支配されているので、たいしたことはない。心変わりも情緒だし、守るつもりも情緒なので、守ろうが破ろうがたいしたことではない、とするというわけです。




 しかし、現実的には、「不倫をすれば責められ、炎上し、CM契約を打ち切られて、議員を辞めなくてはいけない」のです。



 中島先生は、この原因は近代ヨーロッパの「ロゴス中心主義」にあると見ています。


 ロゴス中心主義では、人間は理性的であるとされます。ロゴスというのは言葉であり論理です。


「結婚という約束」=契約という論理です。


「結婚するという意志と意思表示」=首尾一貫する論理的言説なのです。



それに反する不倫は、理性的ではない。野蛮で動物的である、というわけですね。


 道徳的であることは理性的であることだし、理性的で合理的な生活を送ることこそが「善であり理想像」だとするのです。


 そして、そちらのほうが、”人間の本性”だという立場が近代欧米の発想なのです。





 しかし、逆にいえば、


「不倫をしてしまったり、約束を破ったり、仕事をめんどくさいと思ったり、時にはサボったり、感情的で情緒的な言動をとってしまい、薬物に手を出したり、6股をかけたりするのも、人間」


なわけで、それを善いとか悪いとか言うよりも、


それもまた、人間の真実


なのです。


 哲学者はそのせめぎあいの中に真実を探り、解脱者はそのあやふやさの中に無常を見いだすのでありました。



2015年9月22日火曜日

武庫川散歩が哲学者たる理由 〜中島義道が解く”哲学とは何か”〜

 今世紀最弱の解脱者にして、孤高の哲学者、武庫川散歩が勝手に書きまくる独善的コーナーの時間が今日もやってきました。


 シルバーウイークというよくわからない連休(なんでも、数年もこの連休は訪れないそうですが、では秋の大型連休とは一体なんなのか、どういう存在意義があるのか悩ましくなるものです)



 さて、このブログではいつも誰に認められることもなく、誰に主張することもなく、わたくし武庫川散歩が、卑猥なくらい解脱している状態について一人がたりをしているわけですが、そんなわたくしの観念をかの中島義道氏が、わかりやすく代弁してくださっている記事を見つけたので紹介しておきましょう。



 当ブログのファンであればすでに有名な「東洋経済オンライン」さんで連載されている「哲学塾からこんにちは」のコーナー。

 最新記事では「哲学とは、結局なんなのか」「真理とは、結局なんなのか」について中島氏が語っておられるので、追従してみたいと思うのです。


東洋経済オンラインより 
http://toyokeizai.net/articles/-/82229


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 いつも中島氏が愚痴っているのは、 ようするにこういうことです。


まず

「哲学がやりたいとか、哲学を学びたいとか、そういう感じで哲学塾にやって来る連中の大半が、途中でどこかへ行ってしまう」

ということ。そして彼らはたいてい

「哲学というものに、なんかしらんけど間違ったイメージや期待を抱いていて、実際の中島義道が解説する哲学の話を聞くと、期待はずれで去ってゆく」

のだそうです。


 なぜ、そんなことになってしまうのか。


 中島氏は言います。


「そもそも哲学というのは、ロマンチックでも感動的でもなく、地味でつまらなく、そしてどこまで言っても正解のないものである」


そして、


「だいたいアプローチの仕方から、テーマに至るまで、すべてにおいて明らかになっていないのだから哲学なのであって、明らかになっている部分は科学であるから、つまりはわけのわからないものの大海に放り込まれるようなものなのだ」

と。さらには、


「 そんな意味不明でワケワカメな世界において、それぞれの哲学者はそれぞれの考え方をまとめてきたのだけれど、その誰もがスパッとズバッと解決するような答えを出していないから、あなたが悩みを現在抱えているわけで、結局はあんたの哲学的悩みは、あなた自身が答えを創造しなくてはいけないのだ」


と言うわけです。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 さて、当ブログをチェックしている方は、すぐに「あれ?これって武庫川散歩がいつも言っていることと、いっしょだよな」と気づくことでしょう。


 哲学ということばを解脱に置き換えれば、中島氏の言葉と武庫川の言葉がまったく同一であることは自明です。


 武庫川散歩は言います。


「解脱というのは、何か神秘的な体験をしたり、ズッキューんとなったり、ビビビとなったりする体験ではなく、極めて論理的で科学的なものである」

「解脱に神秘体験を希望するものは、何か薬物でも摂取してできれば合法・適法にラリったほうが早い」

「解脱というのは、この世界が存在しない、ということに気づくことである。この世界のすべての人が今ここに存在しているのに、それを否定するというとんでもない一人ぼっちな概念である」


等々。


 さて、武庫川散歩は結局、キリスト教の神を否定し、仏教の仏を乗り越え、ITとプログラミングの世界にツッコミを入れながら、最終的には、


「サイバーパンク解脱」


に到達したわけですが、 実は中島義道氏も、その領域に到達なさっていることをご自身で述べておられます。


 では、中島氏にとっての「哲学」とは何だったのか。記事の最後にご自分で説明を書いておられるので引用してみましょう。


「死は言葉なのだ!!」


  これですよ!これ。死は言葉。言葉なんです!


 ・・・奇しくも、聖書には「神はロゴスである」という言葉があり、武庫川散歩が、


「この世界は記号だ!!」


と言っているように、この3つは根源的に同一なのです。


『はじめに言葉があり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった』


  これはヨハネによる福音書の一節ですが、キリスト教ではこの言葉(ロゴス)をイエス・キリストのことだと曲解していますが、原典のラテン語では

「ロゴス」は論理・言葉

を指し示します。



 世界はプログラムであり、論理構成であり、文字である。そう説明すれば、武庫川散歩の悟りになります。

 死は文字であり、言葉であり、論理的な概念である。そう説明すれば、 中島義道の哲学になります。

 その論理と言葉と物事の成り立ちそのものを神だととらえれば、それは宗教となるわけです。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 中島氏の場合は、「死は言葉である」という直観に打たれました。武庫川散歩が「この世は記号なんだ!」という意識に打たれたのと、まったく同じです。


 中島氏は、死は言葉である=記号・ラベルであり実体ではないから、それをいかに解釈するかでその中身は変えられるのではないか、と考えました。

 武庫川は、世界は記号である=実体は存在しないプログラムのようなものなので、何も恐れる必要はないし、本来は無常である。と考えました。


 なので、武庫川は、おそらく中島氏が講義する哲学の歴史についてはべつにどうでもいいとして、彼が探している哲学の中身には、たいへんに共感します。


 このブログで、宗教の歴史を列記したり、解説したりしたのは、単なる宗教史学に過ぎませんが、その悟りの中心は、けして孤独なものではないのかもしれません。