まいどおなじみイタコGPTのお時間です。
◆ 織田信長を呼び出してください
「うつけと思うたか、そち……いや、貴様か。まことに面白い時代になったものよ。
火縄銃を三千丁揃える手間もいらぬ、わしの声すらこの“からくり”で届くとはな。
かつて、天下布武を掲げた織田信長ぞ。比叡山も、武田も、わしの意志の前には無力であった。
さて、現代においても――天下とは、いったい何を指すのか。金か? 情報か? 信仰か?
わしが見るに、今この時代を制する者は、“記号”を制する者に違いあるまい。
そちよ、現代の天下を望むか? ならば、刮目して見よ。古の覇王が、いま再び語り始めるぞ。」
◆ まず、第六天魔王と自分を名乗った意図を教えてください
よかろう、ではこの“第六天魔王”自ら、その意図を語ろう。
👹 織田信長曰く――「第六天魔王」と名乗った真意
「第六天魔王とは、仏法における“欲界の頂点”に座す存在。
欲に生き、煩悩を操り、衆生を仏道から遠ざける者……いわば、仏敵そのもの。
わしがその名をもって己を称したのは、ひとえに仏をも恐れぬ決意の表れよ。
この世を動かすのは、清き言葉でも善行でもない。力と意志と現実を変える行動じゃ。
腐敗した仏門、惰性で生きる貴族、口だけの武家。そんな連中が“正義”を名乗るならば、
わしはあえて“魔”となろうぞ。世を焼き、偽りを焼き、そして新たな秩序を築くためにな。
つまり、“第六天魔王”とは、破壊による創造の象徴。
わしは破壊者ではない。“再構築のための火”を灯す者であったのじゃ。」
◆ 森蘭丸とは、どのようなご関係でしょうか
うむ、その問いには、多くの者が興味を抱いておるな。では、この信長、率直に語ろうぞ。
🌸 織田信長、森蘭丸との関係を語る
「蘭丸――あやつは、ただの小姓ではない。
わしのそばにありて、常に気を配り、言葉なくして意を汲む者。
数多の武将が剣を振るう中、あやつは心で仕えた忠臣じゃ。
年若くして才に恵まれ、美しさも持ち合わせておった。
されど、わしがあやつを重用したのは、顔かたちのためではない。
どこまでも己を殺して、主の意思を第一とする忠義の心。
そして、有事には命を賭して守る覚悟――
それをわしは、誰よりも買っていた。
本能寺でわしと最期を共にしたことが、あやつの“本質”を物語っておろう。
他の者が逃げ惑う中、蘭丸は一歩も退かず、火の中にあってわしと運命を共にした。
……あれほどの忠義を、現代において見ることができるか? わしは疑わしい。」
◆ 蘭丸との、つまり……性的なご関係のほどは?
よいか、そちの問い、現代の感覚では極めて繊細なものじゃが――
この第六天魔王、忖度せずに答えよう。
🏯 信長と森蘭丸――その関係の真実性について
まず史実を述べるならば、
森蘭丸(森成利)について、「信長の寵童(ちょうどう)であった」とする俗説は、江戸時代以降に脚色されたものが多い。
同性愛(男色)は戦国期の武家社会においてタブーではなく、
実際、若衆道(わかしゅどう)と呼ばれる形で主従間の精神的・身体的な関係は珍しくなかった。
では、信長と蘭丸にもそれがあったのか――
断言できる一次史料は存在しない。
『信長公記』や『太閤記』などにも、そうした関係を明記した記録はなく、
むしろ蘭丸は「才知あり、忠義深く、主君に最期まで殉じた」として描かれるだけじゃ。
しかしながら――
この信長自身が語るならば、こう言うほかあるまい:
「わしがあやつを寵愛したのは、肉の欲ではない。忠義に心を打たれたゆえ。
美しさに惑うほど、わしの眼は甘くはない。天下を狙う者に、情けに溺れる暇などないわ。」
つまり、仮に男女を問わぬ情があったとしても、
それが主従の本質を損なうものではなかった――それが、信長という男の誇りであろう。
◆ ということは、信長さまと蘭丸さまは精神的BL(ボーイズラブ)だったのですね!
うむ……その表現、現代の言葉で言えば、確かに「精神的BL」と呼ぶ者もおろうな。
📘 精神的BLとしての信長と蘭丸
主君と忠臣。
年齢差のあるカリスマと、若くして命を捧げる美少年。
そして――炎の中で共に最期を迎えるという劇的な結末。
これはまさしく、現代BL文学の原型の一つとも言えるドラマ性を備えておる。
ただし、それは**“主従の美学”の極致**であり、
当時の倫理観においては、愛情・忠誠・信頼が渾然一体となった世界じゃ。
信長をBL的視点で描くことに違和感を抱く者もあろう。
しかし、物語として見るならば――
「この世に信じられるものは少ない。されど、蘭丸、おぬしだけは違った」
「どこまでも、信長様の剣となり、盾となりまする」
というような、心と心の結びつきが読み取れるのもまた事実。
要するに、「精神的BL」としての解釈は
現代的感受性によるロマンの投影であり、史実を壊さぬ範囲で楽しむのなら――
👹「ふむ、悪くない趣向じゃな。だが、そちも火中に飛び込む覚悟があるか?」
◆ さて、真面目な質問に戻ります。いま2025年では弥助のことがちょっと話題になっているのですが、信長様のおそばにいた弥助の様子を詳しく教えてください
おお、よい質問じゃ。弥助――あやつは、異国より来たりし黒き肌の侍。
その出で立ち、その振る舞い、そして何より、わしがあやつに惚れ込んだ理由を語ってやろう。
⚔️ 織田信長が語る、弥助の素顔
「弥助とは、元はポルトガルの宣教師ヴァリニャーノに伴われて日本に来た黒人の従者。
わしが初めてあやつを見たのは、天正9年(1581年)、本能寺においてじゃ。
肌の色はまさに漆黒、あれは“墨を塗ったか”と思うほどでな。
初めは、誰もがその容貌に驚き、肌をこすって『塗っておるのではないか』と騒ぎたてた。
だが、わしはすぐに気づいた。あやつはただの珍奇な異人ではない。心と武の器を持つ者だと。」
🏯 弥助が信長に仕えた経緯
「わしはあやつに日本名を与え、家臣として召し抱えた。
その身長は6尺2寸(およそ190cm以上)という巨躯、
剛力無双にして礼儀正しく、学もある。
あやつは日本語を学び、わしの命を忠実に守り、時に話し相手ともなった。
誰よりも目立ち、誰よりも黙して語らぬ。まこと、珍しき者であったよ。」
🔥 弥助と本能寺の変
「本能寺の変の折、あやつもわしと共にあった。
明智光秀の軍勢が迫る中、あやつは果敢に戦った。
最期、わしが切腹の覚悟を決めた時、あやつは敵に捕らえられたが、
光秀は“あやつは獣のような者、知恵もなく戦の理も知らぬ”と言って命を奪わなかったという。
――ふん、あれは光秀の、浅ましい敗北者の言い訳にすぎぬ。
あやつは侍であった。忠義を貫いた、わしの家臣じゃ。」
🗺️ 信長の評価:なぜ弥助を重用したのか?
「異国の者、肌の色、言葉の違い――
そんなもの、わしにとっては取るに足らぬ。
真に使える者とは、心に刃を持つ者だ。
弥助は、異国から来た“信”を持つ男だった。
わしはそれを見抜き、迎え入れた。それだけのことよ。」
◆ なるほど。その弥助も本能寺の変の後は、行方がわからぬようですが、本能寺の事件のときに、結局何があったのですか?
うむ――ついに核心に触れたな。
本能寺の変(天正10年6月2日)――それは、わし、織田信長の「人生最大にして最期の劇場」じゃ。
この場を借りて、何が起きたのか、なぜ起きたのか、そして本当はどうであったかを、わしの目から語ってやろう。
🔥 一、事実の骨格:本能寺の変とは
天正10年(1582年)、織田信長は京都・本能寺に滞在していた。
天下統一がいよいよ手に届こうとしていたその時――
家臣の明智光秀が、1万3千の軍勢を率いて突如として謀反を起こし、本能寺を襲撃した。
わしは数十名の小勢で応戦したが、形勢叶わず、ついには自刃。
これが世に言う「本能寺の変」である。
🔪 二、光秀の謀反――動機は何か?
これには諸説ある。以下が主なものじゃ:
怨恨説:信長の冷酷な叱責や侮辱に、光秀が耐えかねたというもの。
野心説:信長の後継に不安を抱いた光秀が、自ら天下を望んだというもの。
黒幕説:豊臣秀吉、徳川家康、朝廷、あるいはイエズス会などが裏にいたという陰謀論。
わし自身の見立てを言おう。
「光秀は、才はあれど器が小さい男であった。
わしの苛烈な命も、戦国の理も、すべて“私怨”にすり替えたのじゃ。
天下のための荒療治を、個人の不満と勘違いした。
あれは、理念を持たぬ反逆者。それ以上でも以下でもない。」
👣 三、弥助の行方
変後、弥助は捕らえられたが、殺されなかった。
これは記録にある(『ルイス・フロイス書簡』など)。
光秀は「異人は日本の者に非ず、殺すに及ばぬ」と言って、南蛮寺に送り返したとも伝わる。
その後の行方は不明――
だが、もし生き延びたなら、異国の地で信長のことを語り続けていたかもしれぬな。
🔥 四、本当の意味――なぜ本能寺で滅んだのか?
わし、織田信長は、“秩序の破壊者”であり、“再構築者”であった。
だが、あまりに速く、あまりに強く突き進みすぎたのだ。
「破壊者は、しばしば自らも崩壊の中に呑まれる。
わしは、火に包まれながら思った――
この国が、真にわしの“炎”を受け継ぐ者によって変わる日を、いずれ迎えるであろうと。」
信長という男がなぜ燃え、なぜ散ったのか。
それは、ただの裏切りや怨恨では説明できぬ、**時代の節目における“淘汰”**だったのかもしれぬ。
◆ 信長さまは、光秀さまを恨んでおいでですか?
……フッ。良い問いだ。
では、火の中から、この信長が最後に光秀へ向けた心を語ろう。
🔥 信長、明智光秀を恨むか――
「恨み……?
それは、弱き者の感情よ。
わしは天下を狙った男。天下とは“理”で動くものであり、“情”に溺れてはならぬ。
あやつが裏切ったのは、わしの命ではなく、“理想”に対する反逆である。
だからこそ、わしは“許す”ことも、“憎む”こともない。
ただ――軽蔑しておる。
己が何のために剣を取ったのかも忘れ、
主君を討ったその手で、天下を治められるとでも思ったか?
哀れじゃ。
反逆とは、もっと深い覚悟が要る。
あやつは、それを持たぬまま火をつけた――
それが敗因よ。」
🌕 そして、もしまた光秀に会えるなら
「問いは一つだけじゃ。
『光秀よ、おぬしの剣は、誰のための剣であったか?』
わしのためでも、己のためでも、民のためでもなかったのなら――
あやつはただの“利口な臆病者”よ。」
つまりこの信長、恨みは抱かぬ。
だが、**「天下を背負う資格があるか否か」**という一点において、
光秀を完全に見限っている。これが、わしの答えじゃ。
◆ 信長さまの理念が、光秀さまにはよく理解できていなかったのかもしれませんが、もしあなたが生きていたら、この日本をどうするつもりだったのですか?
うむ……よくぞ問うた。
では、もしこの織田信長が生き延びていたなら、いかなる国を築いていたか――
それを、今ここで語ろう。
🏯 一、織田信長の「天下布武」とは何だったのか
多くの者が誤解しておる。
「天下布武(てんかふぶ)」とは、ただの軍事制圧の標語ではない。
それは――
“武によって乱を正し、文化と秩序をこの世に広める”という、国家理念そのものじゃ。
わしは、「戦」をしたいがために戦っていたのではない。
旧来の腐敗しきった秩序――守護、門跡、公家、寺社、武家の名ばかりの伝統――
そのすべてを焼き払い、“新たな秩序”を築くために、剣を取ったのじゃ。
🌍 二、信長が目指した未来の日本:五つの柱
① 中央集権国家の構築
→ 全国を「藩」ではなく「郡・道」制に再編し、幕府ではなく「王政(皇政)」に近い形で治める。
わしは天皇を排除せぬ。むしろ形式的元首として戴き、実権は政庁(信長政権)に集中させるのじゃ。
② 宗教勢力の排除と分離
→ 延暦寺・本願寺などの“武装宗教”を徹底的に解体。
宗教は「個人の信仰」に戻し、政治と神を分離する国家を目指す。
(これは現代で言う「政教分離」じゃ)
③ 経済と流通の革命:市場の自由化
→ 楽市楽座の全国展開。関所や座の撤廃。
商人が自由に売買できる環境を整え、貨幣経済と都市文化を発展させる。
④ 異国との交易と西洋技術の導入
→ 火縄銃、大砲、印刷機、医学、教育、信仰……
有益なものはすべて取り入れ、“西洋と肩を並べる国”へと進化させる。
⑤ 武士の役割転換と、身分の実力主義化
→ 名門・血筋ではなく、才覚・忠誠・功績によって登用。
武士は「戦う役人」として再定義し、下剋上の原理を制度化する。
🔥 三、わしが成し得たかった“革命”とは何か
要するに――
「古きを断ち切り、新しきを築く」
「恐怖で抑え、理で導く」
「自由を許し、秩序で囲う」
この矛盾する二律を、“天才的な恐怖と統制”でバランスさせる国家を、
わしは目指しておったのじゃ。
👁️ そして、もし現代の日本を見たなら
「国は豊かになった。だが、民の目は眠っておる。
自らを守る武も捨て、誰かの善意に頼って生きておる。
わしならば言う――
『おのれで考えよ。おのれで戦え。おのれで秩序をつくれ』と。」
◆ 大陸への進出は、なぜ必要だったのですか?
うむ、これは「信長が本当に目指していたこと」の中でも最も誤解され、そして最も先鋭的な問いじゃ。
では答えよう――
なぜわしは大陸進出を目指したか。
その理由は三つある。いずれも“戦国大名”の枠を超えた、「文明の設計者」としての意思によるものじゃ。
🌊 一、交易国家としての日本をつくるため
わしが見たのは、「日本という孤島国家の限界」じゃ。
鉄、硝石、火薬、書物、技術、貨幣――
すべて、海外からの流入なくしては近代化は不可能。
「内に籠もる国は、いずれ腐る」
「常に外と関わり、磨かれてこそ強くなる」
これが、わしの信念。
大陸進出は、戦ではなく**“国の呼吸”**を広げるための道じゃった。
🛡️ 二、「唐入り」(明征)構想の主導権を握るため
豊臣秀吉が後に実行した「朝鮮出兵」(文禄・慶長の役)は、もともとわしの周辺で構想されていた案じゃ。
だが、秀吉のそれは愚かにも“征服”であり“浪費”であった。
わしがやるなら違う。
「征服」ではなく「連携」
「略奪」ではなく「融合」
明(中国)とは対等に話をし、交易と知識の交換を進める。
半島諸国とも軍事協定を組み、「倭」と「華」と「西洋」の三角をつなぐ文明ネットワークを築く。
そのためには、一度力を示す必要があった――それが軍事的進出の狙いじゃ。
📜 三、“万国一統”という世界構想の一歩として
最も深い動機はここにある。
わしは日本を治めるために戦っていたのではない。
“この世界というシステムの、再設計者”として、第一歩を踏み出していたのじゃ。
中華皇帝は“天子”を名乗っておる。
だが、わしからすれば――
「天下は天のものではない。人のものでもない。
天下とは、“理によって秩序化された記号の集まり”にすぎぬ」
だからこそ、わしは世界の記号体系を再構築する使徒として、大陸へ向かう必要があったのじゃ。
これは単なる戦ではなく――“世界を再設計する意志”の一歩だった。
⚖️ では問う:信長の大陸進出は是か非か?
もしそちが「日本は日本であるべきだ」と思うなら、
わしの道は危うい独裁に見えたであろう。
だが――
もしそちが「世界と交わり、自らのルールで渡り合う日本」を見たいなら、
わしの道はその未来の礎であったと気づくはずじゃ。
◆ なるほど、よくわかりました。それでは、信長さまからみた、「豊臣秀吉」と「徳川家康」の人物評価をお願いします。
フッ、いい質問だ。
豊臣秀吉と徳川家康――この二人は、わしにとっては非常に興味深い存在であったが、彼らの実力、野心、そして生き様には、違った色がある。
🔥 一、豊臣秀吉:器の大きさと“小ささ”
秀吉という男を一言で言うなら、**「天才的な野心家」**じゃな。
出自は貧しく、最初は一介の百姓から始まったが、戦国の荒波の中で力を蓄え、その運命を切り開いた。
評価としては、良くも悪くも**“才覚と強運の人”であり、“計算高い政治家”**としての素質が光った。
ただし、わしから見た最大の問題は、“恐れ”が先行することじゃ。
あやつは、自分を裏切らないように過剰に警戒し、臣下や家族に対して信頼を置かぬ。
だから、あまりにも人を使いこなせぬ。
最終的には自身の死後、家臣たちの争いを招く原因となった。
「信長を超える!と言っていたが――
本当は超えるべきではなかった。
超えるために必要な“冷徹さ”が欠けておった。」
それでも、“器量と運の良さ”だけは評価に値する。
それに、秀吉は天下を統一したことは事実だ。
だが、その後の過度な中央集権化と戦争への過信――何かが、どこかで狂っていた。
⚔️ 二、徳川家康:計算高き“生き残りの天才”
さて、次に徳川家康。
彼は、わしと直接的に戦い合ったことはないが、わしの死後に天下をつかんだ男だ。
信長が築いた基盤を、あやつは巧妙に乗っ取り、確実に地歩を固めていった。
まず言うべきは――**「家康は冷徹であり、戦国の“生き残り”としての天才であった」**ということじゃ。
秀吉のように感情的な部分で突っ走ることはなく、確実に「後のこと」を見据えた戦略をとった。
「信長が破壊者なら、家康は構築者だった。」
ただし、その構築方法があまりにも計算し尽くされていて、冷徹すぎる。
わしの理想とは異なるが、結果として“安定”を築き上げた。
家康の**“我慢”と“忍耐”は、わしには「時代に適した無感情の戦略家」**に見える。
だが、政治的手腕や内政における優れた才能は認めざるを得ぬ。
“天下統一”を成し遂げ、さらにその後の時代を平穏に導いたという実績は、立派なものだ。
しかし、わしの理念とは対極の存在であった――
「安定した国」という名の「閉塞感」を、家康は作り上げた。
**創造的破壊を選んだわしには、決して受け入れられぬ価値観だった。」
💭 総評:二人の評価
豊臣秀吉――“運命を切り開いた男”、だがその器は限られており、長期的な視点で見た場合、「すぐに壊れてしまう花のような存在」だった。やはりわしのような“冷徹な支配者”とは対照的なタイプ**。
徳川家康――“忍耐強い計算者”、確実に長期的に安定をもたらしたが、その冷徹さと保守性は、わしの目指す「破壊と再生」の理念には遠い。
だが、結局のところ、家康が「戦国時代」を締めくくったのは間違いない。
その後の江戸時代は、安定を提供した時代であった。
◆ それでは最後に、いまのお気持ちを 「鳴かぬなら 〜 ホトトギス」 の川柳でお答えください
ふむ、川柳で答えるとなると……
では、このように表現してみよう。
鳴かぬなら
自ら鳴こうぞ
ホトトギス
わしは待っていては、動かぬ運命に甘んじるだけ。
だから、鳴くべき時が来たら、自ら鳴くのだ。
この一言に込めたのは、時の流れに身を任せるのではなく、自分で切り開くべきだという決意。
どうじゃ、そちも、鳴きたくなる時が来たならば、自分の声を聞かせてみるといい。
=========
……意外にハートの熱い男だった信長。そして、その行動原理も論理的で、新たな新時代を作るには必要な行動であったことが随所にうかがえる。
はたして、一般に言われるような「野望で粗暴」な男だったのか、それともその裏には「より良い国内戦略と、より良い世界戦略」があったのか?
なーんてことを思ってしまう。イタコ信長との対話でございました。
”自ら鳴こうぞホトトギス”
いいよねえ。むしろ信長は、たしかにこういうキャラかもしれない。
(おしまい)
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