2015年2月12日木曜日

『うつ病を解決する魔法の理論』 ~そしてボクは全ての悩みから開放された~

 ふだん、私のブログをずっと読んでくださっている読者の方にとっては「また、はじまった(笑)」とついつい苦笑なさっている顔が浮かぶようですが、そうです。その通りです。


 当ブログではよくある”「うつ病」とボク”ネタシリーズです。


 21世紀の最弱解脱者と自称している武庫川散歩が、その昔”うつ病”を罹患しそこから無事に生還したお話はこのブログのいろんなところに散りばめられているのですが、その内容があまりに


 ひどい


ので、みなさん読後にポッカーンと口を半開きにして黙って去ってゆかれるのがいつものことです。


 なので、今回はあまり冗談を言わず、全体的に真面目なテイストでお送りしたいと思います。


 心に迷いがある人、苦しみを抱えた人はあっさりとおつきあいください。


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 このブログの「アドラー心理学の回」でもちょっと話をしようとしていたのですが、のびのびになっていたことがあります。


 http://satori-awake.blogspot.jp/2014/10/blog-post_26.html



 それは、「正義のゆらぎ」という言葉についてです。



 多くの人が「うつ病」になったり、「心の病」を抱えたり、あるいは「ひきこもり」になったり、と心と体に問題を抱えるようになる原因の多くに、私はこの



正義のゆらぎ」状態を経験すること



という大変特徴的な体験があると考えています。


 正義のゆらぎ、という言葉は、まだ一般的ではないし、誰もほとんど使っている用語ではないのですが、私武庫川散歩はこの概念をとても重要視しています。


 さて、では「正義のゆらぎ」とはどういう状態を示すのでしょうか。



 まず、重要なのは、ここでいう「正義」という言葉は、世間一般で言うところの


「道徳的に正しいこと」や「一般的に悪ではないこと」

という意味ではない、ということを覚えておいてください。



 ちょっと難しいですが、世間的な「正しいこと」というニュアンスよりも、



自分やあなたにとって正しい状態・理想的な状態・どちらかといえばそっちが望ましい状態



のことを「正義」だと捉えることがふさわしいように思います。



 
 たとえば、ある人にとっては、「大学に合格している自分が正しい状態・望ましい状態」だとしましょう。それはその人にとって「正義」に近い感覚だと思います。


 また、ある人にとっては、「クレーマーな顧客が、限度を越えた文句を言わなくなること」が正義の感覚かもしれません。


 また、ある人にとっては、「上司が問題に対して解決できないまでも、相談に乗ってくれること」が理想的な状態かもしれません。



 頭の硬い人や理想主義者に近い人だと、そうした「よい状態」を「こうあるべきだ」とよりガチガチに正義だと捉えるかもしれませんし、そこまで頑固でない人だと「そっちのほうがいいよね」くらいでおさまるかもしれません。


 しかし、大きなベクトルとして「このほうが、よさそうだ」「このほうが正しそうだ」というイメージが誰にでもあって、それに沿っている状態を「正義」だと捉えるのは当たり前のことのように見えるでしょう。



 いずれにしても、すべての人にはそうした「正義・正しいこと・そうあるべきだし、そうあってほしい状態」というのが存在します。それをここでは”正義”と呼んでいるわけです。



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 しかし、現実には私たちはそうした理想的な世界とはうらはらに、「そうではない状況」に置かれたり、置かれ続けることに直面します。



 これが、正義のゆらぎ状態です。



 先ほどの例で言えば、「大学に合格できない状態」とか「顧客が責め続ける」とか「上司が全く丸投げでサポートしない」ような状況です。


 この状況が、その人の限度を越えるまで継続し、まったく改善されない場合に、「心と体の問題」は頭をもたげてくるようになるわけです。


 こうしたことは、たとえば単純な身体についても当てはまります。適切な休養を取らねばならないのに、激務が続いて休みがとれていない状態も「身体的な正義」からは外れた状態です。


 こうした「自分の望む姿と現実の差・違い」というのは、心理学的には「認知的不協和」と言ったりもするのですが、認知的不協和とのちょっとした違いがあります。


 それは、「認知的不協和」の場合は、人は「思っていたことと実際が違うと不快」なので、実際のほうを否定してなんとか心の中を丸く収めようとするのですが、「正義ゆらぎ」の場合は、


 実際のほう(現実のほう)を否定することが難しい


のでパンクを起こしてしまうわけです。ここで、心と体に逃げ道がない状態に陥ります。


 心理学の用語としては「認知的不協和」のほかにも「ダブルバインド」といった状況や現象もあるのですが、これらは専門のサイトを参照してください。ここではあまり詳しく述べません。



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 「認知的不協和」や「ダブルバインド」と異なり、「正義のゆらぎ」がややこしいのは、ただ単純に二つの相反する状況がぶつかりあっているだけではなく、


「一方が正義というベールをまとっている」


点にあります。ここが話をややこしくします。


 認知的不協和の場合は 


Aという状況とBという相反する状況があって、その人はAだと思っていたのに現実がBだったりすると、「そういう場合もあるかもしれないけど、それは特殊だ」とか事実をゆがめようとする


わけで、また、ダブルバインドの場合は


Aという状況とBという相反する状況があって、それを同時に提示されると人は困惑して心に問題を抱える可能性がある


というものでした。


 これらは単純な相反するAとBのせめぎあいでしたが、「正義のゆらぎ」の場合は



「絶対Aのほうが正しいであろうと想定できるのに、事実はBである」


という正義の価値判断が盛り込まれているところです。ここに問題の中枢があります。



 人は文化的生活を送る中で、周囲や自分で築いてきた「正義の価値判断」があります。
 
 そこが「大きくぐらぐらと揺れつづけ、真逆の方向に倒れこもうとするのを見ると、人は機能停止に陥る」わけです。




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 さて、ここからは解決編に入りましょう。


 うつ病などに代表される心と体の病に罹患してしまったとき、心理学的には


「認知療法」


というものが試されたりします。


 認知療法では、上の例でいえば、たとえば


「Aという状態」「Bという状態」のどちらも客観的に見つめ、捉えなおすことで自分自身を変革する


とか、


そもそも状況を捉えている考え方に誤解や拡大解釈・思い込みなどがないか振り返ってみる



とか、そういう方法で解決しようとします。具体例で話をすれば、


 クレーマーや上司が、背景にどんな問題を抱えていてそうした言動を取るのかを想像し、彼らを単に批難しない。(もしかしたら、苦しみや彼ら自身の問題が隠れているのかも、など)


などの方法が認知療法の対応に似ていると言えるでしょう。



 しかし、こうした認知(考え方)の転換で捉え方をスッキリさせることができる人は健康なわけで、中にはどうしても


「それでも、こうした方向のほうが正義のはずだ、正しいはずだ」


と認知を変えることができない人がたくさんいるわけで、それが問題を拡大させていることは否めません。



 ですから、ここで、解脱者として一言ズバリともの申させていただけるとすれば、


 そもそも、正義は存在しない!


とキッパリ明言しておきたいわけです。

 
 認知を変えるとすれば、根底からひっくり返しておくのです。



 正義もクソもないんだ!クソ野郎!!!!


とガツンとあなたの胸倉を掴んで叫んで差し上げたい。


 これが、ブッダがたどりついた境地です。「これがよい状態であろう」と想像すること、「これが正義であろう」と想像することは、実は108つの煩悩のようなもので、それを捨てれば、そもそも


「正義は、ゆらがない」


のです。


 大学に入れない? そうだ!俺はアホなんだ!悪いかクソ野郎!



 クレーマーもクソだ!俺もクソだ!クソ同士好きなようにやっちまえばいいんだ!



 上司はクソだ!俺もクソだ!みんなクソ野郎だ!今日も明日も快便だ!



 ぐらいに、ケツの穴をしめていけば、何も恐れるものはないのです。クソがいやなら


「どうせこの世は無常なんだ!俺もお前も知ったこっちゃねえ!」


と腹をくくることです。


 本当にこの境地に到達すれば、何も怖くはないし、すべて解決します。



 なんなら客にガツンと言い放って、首にするならすればいいさと覚悟してみてください。


 上司に「なんでアンタは手助けひとつもできねえんだ!」と言い放ち、全力であなたが立ち向かってみてください。


 覚悟があれば、来年大学にチャレンジしてみてください。



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 うつ病の人に、「頑張れ」というのは禁句だとよく言います。私はあなたに頑張れとはいいません。



 頑張らなくていいように、一瞬の覚悟を決めろ!



とだけ言いたい。すべては一瞬でケリがつきます。あなたが覚悟を決めさえすれば。あなたの悩みは、すべて一瞬で吹き飛ぶのです。












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