おひさしぶりですね。今日はえらく雪が降っています。雪が降るあなたはこない♪
雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろ♪ これくらいでしたらJASRACさんに怒られるのでしょうか?それとも適切な引用?!
そういえば「兄は夜更け過ぎに、雪江と変わるだろ」という替え歌がありました。2丁目ですね。
・・・とまあ、今日もわけのわからない話でスタートしました、どうも、孤高の解脱者、武庫川散歩です。
巷では、宗教と国家と信仰に関するえらくひどく大変な事件が起きていますが、それにまったく触れずに今日まできたのは、武庫川散歩的にも心を痛めているからに他なりません。
世間の人からみれば、「海外の過激派やテロリストが日本に関わりのある事件を起こす」なんてことは、おそらく思ってもみないことであったのでしょうが、それが一歩ずつ現実へと変わりつつあります。
これまで日本のテロリズムというのは、日本人が国内に向けたものが目立っていました。たとえば、地下鉄サリン事件とかよど号乗っ取り事件とか、まあ2.26事件も入れてもいいです。
ところが、海外の、それも「思想信条宗教理念の全く異なる人が、日本という国家国民に対して、あっちの理屈で何かを押し通してくる」ということがリアルになってきた今、私たちはこれまでのような「のほほんとした気持ち」を捨てねばならないわけです。
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よく、今問題になっている「過激派」は、どうして残虐なことをするのだろう、という質問が飛び交っていますが、答えはすごく簡単です。
宗教について造詣が深い武庫川散歩教授(自称)によれば、
「聖書に、異教徒は滅ぼしてしまえと書いてある。神様がそう言ってるから」
他なりません。
そうなんです。中東に紛争が絶えないのは、基本的に「アブラハムの子孫」に対して、エホバもしくはヤハウェという神様が聖書で
「理想の土地を、わたしを信仰するお前たちにやるので、その土地にいる異教徒を滅ぼしつくせ」
と言っているわけです。もちろん、正しい神を信仰するものは、許してやるとも書いてありますが。
で、「アブラハムの子孫」はユダヤ人もそうだし、アラブ人もそうです。みなアブラハムの子孫だと思っています。
さて、じゃあどうしてアブラハム子孫同士が憎しみあうのかと言えば、理屈は以下のようになります。
① アブラハムの子孫のうち、ユダヤ人は聖書の古い部分(旧約聖書とキリスト教徒が呼ぶ部分)を信仰しており、それをユダヤ教徒という。
② アブラハムの子孫のうち、聖書の古い部分は「昔の神との約束事(つまり、旧約)」であり、イエスキリストが登場したことによって、新しい約束に切り替わったと考える人たちをキリスト教徒という。(キリストとの新しい約束だと、人種は関係なく誰でもOKになった)
③ アブラハムの子孫のうち、聖書の古い部分も大事だし、キリストも尊重しないわけではないが、一番最後に神から使わされた預言者がムハンマドであり、この約束が最も最新バージョンだと考える人たちをイスラム教徒という。
というわけで、みーんな同じ神様を信仰しているわけですが、神との約束のバージョンがそれぞれ違うので、どこまでのバージョンを信じるかで
「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」
に別れており、それぞれがそれぞれ相手を「誤った信仰をしている異教徒(異端)」だと考えるから戦っているわけ、です。
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しかし、大半のイスラム教の人たちは、首を切り落とすようなことはあまりしません。あるいは、爆弾を巻いて自爆したりはしないわけで。
そこで、また新しい疑問が湧いてくるのです。
「いったい、どうしておなじ宗教でも行動がこんなにも違うのか」
という謎。それはまた簡単な話で、
「聖書に書いてあることをどう読み取るか」
に関わってくるのです。
たとえば、聖書には「ひづめが分かれていて、反芻するものは食べてもOK」と書いてあります。しかし、豚は「ひづめが分かれているけど反芻しない」ので、イスラム教の人は食べません。
これは旧約聖書の記述ですが、書いてあることをそのまま、額面どおりに受け止めているからイスラム教の人たちは、そのとおり実行しているわけです。
ところが、キリスト教徒は、「その後、新約聖書で、そういう食べ物も神様が清めたからOKって書いてある」ので、(というかOKだと解釈している)ので、別に気にせず食べるわけです。
このように、「書いてあることをそのまま受け止める」ことを原理主義といいます。
もともと、原理主義というのは、イスラム教ではなくキリスト教を示すことばでした。
もう、ズバリわかりやすく書きましょう。
その昔キリスト教徒は「異教徒を滅ぼせ」と書いてあるので、アラブの国へ出かけていって、滅ぼしまくりました。これを十字軍と言います。
十字軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
当時、神が与えた約束の土地である「エルサレム」はアラブの人たちがイスラム教のエリアとして住んでいたので、キリスト教国のヨーロッパ人は
「異教徒を滅ぼせ!」
とエルサレム奪還作戦を実行したのです。(ちなみに、1192作ろう鎌倉幕府より前の話です)
だから、今イスラムな某国は今度はヨーロッパ・アメリカに敵対して、「異教徒を滅ぼせ」を実行している、という理屈になりますね。
報道の中に、ヨーロッパ・アメリカを指して、さんざん「おまえら十字軍は」とイスラムな国が言う内容が出てくるのはそのせいです。
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このように、何かひとつの行動原理を立てるときに、「何かにそう書いてあるからそうするんだ」と愚直に守ることを原理主義と言いますので、原理主義者からみれば、
「そう書いてあるのにそれを実行しないやつらは、中途半端で真の信仰を持っていない」
と解釈することになります。
まあ、よくあることですが、人間というのは、そう中々書いてあるとおりには実行できません。憲法で
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」
と書いてあるのに、実際は、「いや戦力じゃないし、守るための道具だし」みたいな言い訳をしてしまうようなものです。
ところが原理主義者からみれば、こういうのは嫌いなんです。「なんやねんお前らは。中途半端な誤魔化ししやがって!」と
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もとい、ちなみにワタクシ武庫川散歩は、憲法9条原理主義者でもないし、どこか特定の宗教・イデオロギーの原理主義者では全くありません。
ものすごくええかげんなヤツ、ですので、誤解なきよう。
解脱者というのは、「そういうの、別にどうでもいいから」ということです(笑)
解脱してしまえば、聖書に書いてあることも、憲法に書いてあることも、人間界のちいさな事象にすぎません。
想像してみてください。釈迦に憲法9条の話をしてみたら、たぶんスルーされるでしょう。釈迦に聖書の話をしたら、きっとハテナな顔をされることでしょう。
「釈迦の耳に聖書」
「ブッダに憲法9条」
ということわざができるくらいです。
<・・・うーん、なんか。あんまり関係なくてどうでもいいことのたとえ。>
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