2017年10月6日金曜日

死とは何か。 ~他者から見た死の本質と真実~




 久しぶりにうちの可愛い弟子から連絡が来て、いつものように高尚な生き様についての議論を交わしていたところ、仮の姿で生きる俗世の取引先の方のお葬式に出なくてはいけないはめになって、


「おうっ、葬式行って来るぜ」


と、そのまま慌てて喪服に着替えて参列することになった。



 葬式、というか正式にはこちらも仕事の関係で通夜式のみ参列させていただいたのだが、自分の知っている宗派のものとは多少内容やらお経が異なっていたので、興味深く感じ入りながらお参りさせていただいたところである。



 仏教の葬式では、いろいろなお経が読まれるのだが、一般的に有名なものとしては


 般若心経


 が挙げられるだろう。もちろん、参列した式でも、般若心経のコーナーがあり、全部で5~6曲の仏式ソロライブだったのだが、ちょうど真ん中あたりで唱えられていた。


 余談だが、般若心経のすばらしい訳出が、ムコガワ散歩大先生によってなされているので、ぜひ一度お唱えいただきたいものである。




般若心経を超現代語訳する。
 https://satori-awake.blogspot.jp/2017/04/blog-post_23.html





 ちなみに、うちの母方の宗派は曹洞宗で、曹洞宗では、


 メインボーカル、サブボーカル、コーラス&パーカッション


の3人から7人体制ぐらいになってライブをするので、まるで


「内山田洋とクールファイブ」

とか

「カルロストシキとオメガドライブ」


みたいなことになるのは、有名な話である。 もちろん、僧侶の数が多いほうが、格式が高いという世知辛いが金の話である。






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 さて、そんな話をしていると、弟子から


「ところで、師匠は死についてどのようにお考えですか」


と、恐っそろしい質問をされてしまった。



 もちろん、解脱者ムコガワは、死に対して必要以上の恐怖を抱くことはなく、ただ粛々と運命を受け入れるのみであるので、(運命論者でもないけどね)



 死とは、すべてが塵に帰ることである



という感覚を持っている。 死後の世界があるとは考えないし、輪廻があるとも思わない。


 ただ、一匹のアリさんが、プチッと何者かに踏まれたのごとく、


「そこに居たということも、そこでどのように生きたということも、誰にも思われること無く、ただ、一匹の蟻のごとく土に還るのみである」


と説いている。



 そもそも、ブッダもイエスも、ムハンマドも死んだのである。



 この世に生まれたどんな神の使いであっても、あるいは自分を神の化身だと言う者であっても、



100%まごうことなく、全ての生きとし生ける者は、死ぬ



 のである。神の使いや神の息子や、神の預言者であっても死ぬのだ。



 むしろ、死なない奴がいたら、そいつが神だと言っても差し支えないくらい、人は死ぬのである。





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 自分が死ぬということは、いわば誰もが通る道でもあるので、ただそれはそれとして受け入れざるを得ないだろう。



 ただ、自分のことではなく、「周囲から見た死」となると、また話は変わる。


 私は実父を癌でなくしているが、「これまで確かにいた者が、ここからはすっかりいなくなるそのポイント、時点」というのが、死の前後を明確に区分する。


 
 しかし、実はその時点・ポイントというのは、それほど重要ではない。


 私の父は癌で死んだが、呼吸を止める瞬間にも立ち会うことができた。


 だが、その瞬間・時点・ポイントというのは、ツボではないと感じたのである。


 たしかに死はその時点に訪れたのだが、少なくとも数日前から病床に寝ている父は、すでに意識があるのかどうかも判然とせず、癌特有のやせこけた身体で、すでに私の知っている父ではなかった。


 この生きている状態の父は、少なくとも私を家族として愛してくれていた父の姿ではない、ということは目で見て明らかなのだ。


 もっと言えば、「お父さんと話がしたい」と思っても、すでにもうそれは叶わないのだ、ということは、生の中に現存しており、彼は確かにまだ生きてはいるのだが、いわゆる「生きていて、息子である私とできるはずの会話や交流」はもう望むべくもなく終了しているのであるから、


 あとはもう、安らかに楽になってほしい


という気持ちが正直なところであった。つまり、現象としての「生」には、もはや価値がなくなっていたのである。


 
 もっと言えば、まだ意識があった際も、肝臓癌特有の毒が解毒できないことから来る肝性脳症を発していたので、交わす言葉はいわゆる認知症のように、すでにまともではなくなっていた。


 肉体はたしかに父であるが、会話をしている相手はすでに父ではなく、悲しいかなすでにあちらへ行かれた方、ああ、その表現がきつすぎるなら、あちらへ行こうとしている方でしかないのである。


 となると、私がこの肉体に見ているのは、「元気で聡明であった父の幻想」であって、記憶でしかない。


 その聡明なる父はすでに失われて、あちらの世界へ旅立っているのである。だとすれば、ここにいるこの肉体は何か。それは父であって父でない、けれどもそれ以外にもはやこの地上にとどまっている父はいないのだ、という不可思議な存在というわけだ。




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  医者の先生に、尋ねたことがある。


「肝臓が機能を失うのは理解できます。解毒できず血がどんどんとまずい状態になるのもわかります。ですが、そこから死ぬということには、ちょっと飛躍がありすぎませんか?どうして人はそこから死へ至るのですか?」


と。すると、先生は、ちょっと考えて、じつに端的で明快な答えをくれた。


「うーん……。血圧が、血圧が下がるんですね」


と。



 その答えは、実に納得のゆくものであった。


 血圧が下がる。心臓が血液を送る力あるいはエネルギーに欠けはじめる。全身に血が回らないので、最初は一つの臓器のトラブルだけだったものが、今度は同時多発的に全体の機能を失う。



 それが、死だ。それが死なのだ。



 呼吸が止まることも死の定義かもしれない。


 心臓が止まることも死の定義かもしれない。


しかし、血圧が下がるということは、回転数が落ちてゆくハンドスピナーのようなもので、いずれは全ての停止を予感させる。


(だから脳死や植物状態は死ではないという解釈ができる。なぜなら血圧が下がっておらず、適切な処置を施せば、肉体が機能しつづけるからである)


 これが、肉体的な死というものの一つの説明だ。



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 さて、私が認識している父は、聡明でたいへんに賢い人物であった。その父の姿をもちろん今でもしっかり思い出せる。


 しかし、死にゆく父の現状はけしてそうではないのに、その「聡明なる父像」を記憶として持って父と接することができるというのは、いかなることであろうか、と考えた。



 そうすると奇妙なことがわかる。仮に私が父と離れて暮らしていて、「父が実家で生きている」と認識している認知は、実は脳の中で生み出された知覚によるイメージ(幻視・ヴィジョン)でしかない。


 私は父が生きている、と思っているが、その知覚は、現実とは乖離した電気信号で生じさせられた幻影にすぎないということだ。


 そして、ここで現実の父が死んだとして、その後に私が「生前の父を思い出す」行為を行ったとすれば、その知覚は、やはり電気信号で生じさせられた幻影にすぎないことになる。



 つまり、人が誰かが生きていると認識していることは、実際には生きていようが死んでいようが、他者からみれば



「脳が認知して電気信号として生じさせている幻影」



に過ぎないということなのだ。


 では、誰かが死んで人が悲しむのはどうしてなのか。いずれにせよ、電気信号であり、知覚に過ぎないのに、死んでしまえば何が失われるというのか。



 ……それは、先ほどの話に戻るが、「ある時点・あるポイント」から、それらの体験・経験・コミュニケーションをした内容という彼からのインプットがもはや更新されず、永遠に止まる、ということが悲しくつらいのである。




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 さて、本日ノーベル文学賞の受賞が発表されたカズオ・イシグロ氏がこんなことを言っているらしいと知って、たいへんに共感した。


「記憶は、死に対する部分的な勝利である」

 (byカズオ・イシグロ)



 これは、どういうことかと言うと、ある人が死んでも、その人を知る多数の人が彼を思い出し、追憶できるのだとすれば、その記憶によって死は、ある程度慰めることができる、というくらいの意味である。


 稀代の哲学者ムコガワ・サンポからすれば、死どころか相手が生きているときすら、記憶すなわち脳科学的な認知の産物として知覚するのだから、勝ち負けはともかくとして



 記憶は、他者を永遠に生かすことのできる神からのギフトである

(byサンポ・ムコガワ)



くらいは言ってもよかろう。



 というわけで、ノーベル賞はいらんけど、いつかイグ・ノーベル賞はいただきたいと思っている武庫川散歩であった。



 あ、ノーパン文学賞でもいいぞ。


 







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