2017年10月30日月曜日
「さとりってなんですか?」に対するお答え。
「教えてお坊さん!悟りってなんですか」
なる書籍が出るらしく、ちょっと気になって読んでしまったこの記事。
「さとりってなんですか?」 6人のお坊さんに直球で聞いてみた
https://www.houdoukyoku.jp/posts/20561
へー、そういうことを考える女子がいるのね。と著者の小出遥子さんという方にも興味が湧いたわけですが、記事そのものは
ちょっとまろやかにぼやけているので
もやっとしましたよ。苦笑。
それくらい、悟りというものは「悟った人にはわかる」んだけれど、「悟っていない人には、わかりづらい」ものなので、じゃあこのリンクの記事を読んで「悟りについてわかるか」「せめて悟りとはどういう常態か想像できるか」と言われても
わからない
のではないかと思います。
まあ、わたくしムコガワも、この書籍をまだ読んでいないので、内容についてはなんとも言えませんが、気になった言い回しがあったのも事実。
” 「夢から醒めてしまえる」と。その事を、皆さん色々な例え話でおっしゃってくださる。
それで「この世の中は夢かもしれない」と思って、おそるおそるそのような見方で見てみると、普段の生活でもそれを証左するものに気づいたりして、私個人としては全くおとぎ話でも無いなと思うわけなんです。”
(記事より引用)
このあたりの話は、ムコガワがいつも言っている「この世は存在しないかもしれない症候群」に連動していますね。
それを夢と言い換えているあたりが、ちょびっとまろやかなんだと思います。
ちなみに、もう一つ引用。
”仏教はさとりの境地を指し示す教えだと思っているのですが、そこをガツンと言ってくれるお坊さんがなかなかいなくて”
いるじゃん。ここに(笑)
わたしゃ坊さんではないけど、ガツンと言いますよ~。ガツンガツン。
~~~~~~~~~~
で、せっかくなのでムコガワなりの「悟り」とは何かということをお話しようと思います。
悟り、というのはある種の絶望というか、喪失なんですね。あると思っていた世界や、あると信じていた理想像や、あると感じていたものが、実は
ない
のではないか、というところから悟りは始まります。
でも、その絶望や喪失の中に身を置くと、ぶっちゃけ「死ぬしかない」わけですよ。私たちは。
だって、ものすごい絶望や喪失で、そこにカタルシスや救いのようなものが「ない」と感じ取ってしまうわけですから。
となると、人生やこの世はなーんにも価値がない、どうでもいいものになってしまうわけですが、でもひとたび喪失して、何にも無くなってまるで砂漠のようなところへ放り出された時に、逆にいろいろなものが見えてくるわけです。
見えてくるものは、人によって千差万別で定型ではありません。
ある人には、砂漠の中なので、砂のひとつぶひとつぶがしっかりはっきり見えてくるかもしれない。
ある人には、果て無く広がる空間というものが感じられるかもしれない。
ある人には、ああ、そして空というものが存在するんだ。太陽や月があるんだと思えるかもしれない。
ある人には、遠くになにかオアシスのような緑が見えるかもしれない。
そうすると、絶大なる喪失であったはずなのに、その小さな発見が、その小さなものが「ある」ということに目が行くのです。
これが悟りの第一段階のようなものですね。
すべてがすっかりさっぱり「ない」と思っていたのに、「ある」ということそのものを発見することが、悟りなんです。
そうすると、今度はその人の生き方が変わってくる。
「ある」んだ。じゃあ自分も死なずに「あってもいい」んだ。
「ある」んだ。じゃあ「あるということ」には意味があるんだ。
とか、そんなことを思い始める人には、希望が生まれるし、感謝が生じたりもします。
「ほんの小さいものだけれど、ある」んだ。それはすばらしく大きなできごとだ。
「ないという状態とあるという状態は違う」んだ。そこに、価値が生まれるんじゃないか?
とか、そんなことでもいいのです。
仏教的には、悟りによって生じた「知足(ちそく・足ることを知る)」の概念などと言ったりもしますが、 ないものの中であることの価値を感じ取れると、そもそもが「ない」のですから、ほんのわずかなことへの感謝や希望が生まれ、
我欲や執着が消えてゆく
ことになります。このへんになってくると、「ああ、なるほど、それは悟りっぽい」とわかりやすくなりますよね?
まあ、そんな感じで誰でも悟りに到達できるわけですが、そこには苦しい修行もいらなければ、全てを捨てて出家しなくてはいけないこともありません。
ただ、何か大きな喪失体験があると、感覚的には理解しやすい、というのはあるかもね。
ってことで、今日はこのへんで。
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