2017年9月29日金曜日

自分が不幸だと思っている人は、永遠に不幸である。 ~幸せとはなにか~




 これまで、公私共にいろんな人たちと接してきたり、あるいは家族や親族を含めて多くの「人生」とやらを見てきましたが、ムコガワの人生そのものが後半にさしかかっていることもあって、ある程度


見えてきた


ことがあります。


 それは


「幸せに生きるとはどういうことか」


という問題なのですが、人が標準的なノーマルの状態から「幸せな方向へ進む」ためにはどうしたらいいのか、ということは意外に難しいと思います。


 それは、ベタな言い方に変換すれば


「より金銭的に余裕を持つには」

「よりよいポジションになるには」

「よりよき人とめぐり合うには」


などのように、ノーマルの状態から「よい」ものを入手したり、その状態へ近づくことになり、 ぶっちゃけて言えば、


そういう幸せを手に入れる法則やマニュアルは存在しない


ということになってしまうからです。




 さて、仏教的な幸せというのは、これまた一般的にもよく理解されるほど言い尽くされていて、その考え方で言うと


標準的なノーマルの状態をそのまま肯定する


という手法をとります。



 つまり、仏教や東洋哲学的な幸せは、「ある状態から幸せな状態に推移するのではなく、そのままの状態でよしとする」という認知の問題だということなのですね。


 だから、実際には、標準状態から幸せな状態へ移動せず、何も変わっていないのに


「それを幸せと捉える」


ことによって、幸福感を感じるというわけで、これはある種の「信じ込み」とも言えます。




 しかし、一方で、どれだけ要素としての「よいもの」を手に入れても、それが幸福感につながるとは限りません。


「お金もある、立場もある、結婚し、子供もいる。なんでも満たされているけれど、不幸だと感じる」


そういう人はたくさんいます。


 これらのことから、「幸福とは、状態の遷移なのではなく、単なる捉え方や感じ取り方だ」と考える説もあるわけです。




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 そうなると、スピリチュアル系とか、いわゆる人生論的な言い回しで


「自分の置かれている状況を(とりあえず)幸せだと思うことで、すなわち幸せになれる」


という言説を取るものも多く出てきています。



 具体的には


「幸せだと鏡に向かって毎日言えば幸せになれる」


みたいな、現状はどうであれ無理やり幸せを唱えるといいのだ的な考え方がそれに当たるでしょう。



 ムコガワは、そういう「無理に思い込む系」の幸せは、なんだかな~、あやしいなあ~とつい思ってしまうタチなので、あんまりお勧めはしません。


 なぜかと言うと、「口でなんぼ幸せだと言ってても、心がそれを認知認識していなければ、乖離する一方で、メンタルがやられるだけ」だからです。

 
 このブログでも何度か書いている「正しいと思われることがゆらぐ『正義のゆらぎ』を引き起こす」のは、よくない事だと思うのです。




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 さて、一方


「自分は不幸である」


と捉えている人は、なかなか幸せにはなれません。


 私の周囲の人々の生き方をまとめてみると、総じて


「自分は不幸だと考える人は、永遠に死ぬまで不幸」


なのではないか、とまで言いたくなります。



 なぜそうなるのかは簡単で、不幸であるということは、本人は常に「幸せな状態へ移行したい、遷移したい」と思っているからです。



  自分の状態は、「標準的なノーマルの状態よりも下である。よって自分は不幸である」とまず考えます。


 具体的には


「自分は彼よりも持っていない」


とか


「自分は彼よりも体験していない」


とか


「自分は彼よりも不利益な状態にある」
 

とか、そういうふうに考えるということです。


 すると、不幸を唱える人から見ると、「標準的な状態とはこうであるはずだ」とか「これが私のあるべき位置だ」と考えている基準点は、自分にはなく常に他人の側にあることになるので、もし、あるときそのポジションに到達したとしても、また他人の側にある新しい基準が欲しくなるということになります。



  そうならないためには、自分で基準点を定めなくてはなりません。



 しかし、その時


「とりあえず人並みの暮らしができていて、普通の生活で、それなりの人間関係で」


というように、自分では普通の基準を持っているつもりでも、実はそれは


「統計などによって、明確に設定されたものではなく、感覚的なもの」


でしかありません。


 だから不幸であると捉える人は、


「絶対に叶わない状態」


を常に切望することになりかねません。絶対に叶わないから、永遠に不幸は続くのです。




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 たとえば、私の両親は昔某宗教に入っていて、それもあって離婚したり家族がバラバラになったりしましたが、



「自分の人生がうまくいかないのは、家庭に問題があったせいだ」


とか


「自分の人生がダメなのは、宗教のせいだ」



とか、そんなことを私が思ったとしましょう。そして、本当にその通りで、そのためにわたしが



「標準よりも下(不幸サイド)」


に立場が置かれているとしましょう。


 はい。いまここで設定された「標準状態」というのは


「両親が揃っていて、宗教などに振り回されない家族像」


ですよね?うちの場合はそれを満たしていないので、私が「ノーマルより下だ」と考えても、全く問題ないでしょう。





 しかし、大問題なのはここからです。これらの状態は、取り戻すことができません。永遠に。



  だから、もし私が両親のことや過去の宗教のことを不幸だと捉え続けるならば、永遠に幸せにはなれないことになります。




 これをもっと具体的に言い換えてみます。




 ある時、事故に逢って両足を失った人がいるとします。


 あなたはその人のことを「彼は永遠に幸せになれないだろう」と考えるでしょうか?



 あるいは、私が彼に


「彼は永遠に幸せになれないだろう」


と言ったら、あなたはどんな風に感じるでしょうか。


 おそらくとても反発して、なんという失礼なことを言うやつだと立腹するのではないでしょうか?



 足がないことは、幸せと直接関わるわけではない。


 足がなくても幸せにはなれるはずだ。


 足については残念かもしれないが、幸せに至る道は他にたくさんある!



 と誰もが考えるし、実際その通りです。




 そう。つまり、両親が離婚していようが、宗教に毒されていようが、足がなかろうが、基本的には


「それらは幸せとはなんの関係もないこと」


なのです。ただ一点、そのマイナス状態であることを自分自身がずっと呪い続けなければ、という条件はつきますが。




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 本人がそうすれば、彼は「永遠に不幸のまま」であり、本人がそうしなければ「幸せは他にもたくさんある」ということは、一体どういうことなのでしょう。


 もしかすると、


「何かがある、持っている」


ということも

 
「何かがない、持っていない」


ということも超越した先に幸せはあるのかもしれません。



 このことに気付いたものは、真っ先に幸せになれるのです。



 その気付きは、人によって異なります。




 ブッダは、「今あることに満足すればそれで幸せ」と捉えたし、イエスは「持っていないもののほうが、幸せ」だと捉えました。

 もちろん世間には「もっているから自分は幸せ」と捉える人もいます。それも実はOKです。



「自分が不幸である、と思っている人は、実は自分で自分は不幸なのだという呪いをかけている」


のです。 それは自分でかけた呪いなので強力です。


 他者にはたちうちできないかもしれません。


 その呪いを解くのも自分自身です。


 


























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