たいへんご無沙汰しております。みなさんの武庫川散歩です。
もうずーっと長年bloggerさんで、宗教やら哲学やら人生やら、なんやかんやのお話を書き連ねてきたわけですが、特に2022年今年は
「宗教2世」
という存在が社会的にも大きくクローズアップされたこともあって、基本的にはnoteのほうで、宗教2世がらみの話をすることが増えました。
解脱者 武庫川散歩のnote
noteも最初のほうは話題を公平に振り分けておりましたが、今や宗教2世一色になっておりますので、しばらくはお許しください。
なんせ私、エホバの証人2世だったもので(てへぺろ)
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さて、今回は奇跡について、お話。
おいおいいきなりオカルトでスピリチュアルかよ!と思われるかもしれませんが、ここ1ヶ月くらいで
ズキューン!ドキューン!
と奇跡的なことを体験することがありまして、 「ああ、奇跡というのはこういうことなのだな」とひとつの納得をしたので、記憶のメモがわりにおいておこう、というわけです。
奇跡というのは、一般的に「物理的にありえないようなことが神や心霊を交えて起こる」というニュアンスで語られますが、たぶんそんなものではありません。
昔いたサイババみたいに、手から金の粉を取り出すような、そういうトリックじみたことを奇跡と思うのは、おそらく間違っています。
奇跡とは何か?
そういうことをまじめに定義すると、究極的には
「愛」
という言葉を貼り付ける以外にありません。
この言葉、実はベタすぎて使いたくないのですが、使わざるを得ないところが本当にもどかしい。
手垢がつきすぎて、すでに上滑っている言葉なので、なんでもかんでも「愛してる」でごまかされているような節がありますが、まあ、それは横に置いておいて。
もう少しわかりやすく書いてみますね。
キリスト教においては、イエスが起こした奇跡というのは、主に「物理的にありえないこと」をメインに記述されています。
魚を増やすとか、水の上を歩くとか。
ただ、まあこうした奇跡は、実は奇術のトリックでも充分再現可能なわけで、物理的にへんてこなことが起きることが「奇跡」だというのは、ことばのアヤみたいな部分もあるでしょう。
だって、みなさん、手品を見たからといって、あなたが幸せに生きる未来が訪れます?
たぶん関係ないでしょう?
イエスの奇跡のうち、ほんとうに聖書の記述者が言いたい部分はたぶんそこではなく
「多くの傷ついた人たちが癒された」
というところだと思います。
これにも、実は言葉のアヤが紛れ込ませてあって、その時イエスは「病を治療した」のかもしれません。
そうして病が治った。
これは、実は奇跡に頼らずとも、「医療」に頼ればある程度は再現性があります。
けれど、医療は奇跡ではなく、ドライな科学ですよね?
医療はあなたの傷を治癒しますが、あなたを幸せな未来に連れて行ってくれるわけではなく、マイナスからゼロに戻すだけです。
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では、人が信仰をもつような、自分の人生の希望をもてるような「奇跡」とはなんなのか?
それは、おそらく
「自分は愛されている。自分の中身から外側までまるごと愛されている」
という感覚や実感なのだと思います。これはあなたの人生をゼロからプラスに転じます。そういう力を持っている実感です。
愛されている・あるいは同時に愛しているという実感が、「心の傷」をそっくり消してしまうわけ。
それこそ「癒す・癒される」という言葉が合うかもしれません。
イエスキリストが言いたかったことは、本当はこれなのだ、「人と人は心から愛し合える」ということなんだ、と推測いたします。
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で、武庫川さんに何があったのか?ということですが、ごく平たく言えば、まるごとそのままで心の奥底から外側まで、共有できるような人と出会えた、ということです。
つまり、奇跡は人と人の出会いが起こすものでもある、ということでしょう。
かのイエスですら、人々のところに出かけて行って、触れ合うことで奇跡を起こしたのですから。
ちょっとだけ中間まとめです。
◆ 奇跡とは出会いであり、人と人が起こすもの
◆ その出会いが、「愛」を実感できるものであり、未来の希望になること
◆ その愛が、まるごと互いの心の奥底から、外側まで癒すことができること
という感じ。
さて、武庫川さん。人生においてそんな人物と出会えるとはまったく思っていなかったので、とても驚いております。
このブログでもおなじみの通り、いろいろな弟子たちがいて、彼らと哲学的な交流はたくさん死ぬほどしてきましたが、それはこちらからの一方的な方向性であり、武庫川さんのことを理解しているか?と言えば謎です(笑)
ところが、その人は、いきなり出会って「こちらの中を覗き込んできた」わけです。
ああ、おそろしい。
覗き込んできて、「みつけた!あたしと同じだ!」と言うわけです。めちゃくちゃ変わってますよね?そもそも武庫川がかなり変わっているのに。
そこから後は、「何が同じなのか?」「それは本当に同じなのか?」「口先だけでそう言っているのではないのか?」といった検証作業がお互いに行われるわけですが、どうも嘘はないらしい。
むこうも向こうで、当初は自分と同じと思ったけれど、そこに差異はあるのかなど、おのずと検証しますから、手探りです。
その手探り状態が、たぶん2日くらい?けれど、その後は、
「あ、我々には検証作業は不要だ。それくらい同じだ。もしくは共有してる」
ということが判明してしまい。二人して「なんじゃこりゃ!わはは」と笑い転げる始末。
その後も、心のいろいろな部分を共有していることを、互いに理解しはじめると、どちらも何十年もそういう相手が現れなかったのに、『今、この場で出会えた!』ということがわかってきたのですね。
ええ、それはまさしく奇跡的であり、もう二度とそうした人は互いに得られないでしょう。
だから奇跡なのです。一期一会どころか、唯一無二。
「この相手を互いに手放してはいけない」
というのが、恋だとすれば、
「いやもう、すでに中身は同じなので。離れようがない。離れていてもやってることは結局同じ」
ということになり、それをこのセカイの言語で説明するのに難儀しました。
友情・同志・理解者・共通・相互・似てるね・同じ・・・・
どんな言葉を重ねても、どれもしっくりこない。全部言葉がたりない。
そこで二人の間では、
「これは愛だ」
ということで決着がついたのです。
手垢がついた言葉過ぎて、ぜんぜん説明になっていないのだけれど、まあ「愛」だと言えば、そうしか言いようがないのです。
なぜか?
「自分と相手が同一のこころであるなら、喜びや痛みもすべて共有しているから、互いに対してもの言わずとも、それはいつもやっぱり同じである」
のだとしましょう。その時に相手に対して行ったり抱いたりする気持ちや行動は、もはや「愛」としか言いようがない、ということだったのです。
もちろん違う部分だってある。たぶんめっちゃある(笑)しかしながら、その部分もふくめてまるごと
「あ、それでいい。そこを含めても総合体としては同一だ」
と互いに同時に言ってしまうので、もはや説明はつきません。言語の領域を超えています。
だから「奇跡」というしかないわけで・・・。
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たぶん、これを見ている人は、
「 なにこれ?めちゃんこすごいノロケを読まさせられてる?」
と思うでしょうが、そちらにとってはそうかもしれません。
こちらは大真面目に、「いったい何が起きているんだ」というこの壮大な謎に、二人して驚いているわけですね。
正直、ビビっており、ヤバいと思っています。二人とも。同時に。
そしてまた「愛」らしきものなので、二人して同時に深い安堵に満たされてるという感じ。
というわけで、「奇跡はある」「それは愛だ」というお話ですが、結局それは奇跡に直面したものにしかわからない、ということだと思います。
それが読者である「あなた」とってに、
やってくる日はあるのか?
いつやってくるのか?
ということはまったく不明なのですが、そうした奇跡が
この世に存在するらしい
ということは、 セカイにとっての希望なのではないか?というオチでした。
この話、実はそこで終わりません。たぶん、このヤバい二人が出会ってしまった結果、次々にそれ以上の奇跡を何か起こしそうな予感です。
それはセカイに激震をもたらすかもしれませんが・・・、こう御期待(笑)
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