2025年4月23日水曜日

ChatGPTで明智光秀を呼び出してみた!

 

 もう大川隆法も、青森の恐山も不要かもしれない。

 どちらも死後のセカイに旅立った人間の「霊言」というイタコ術によって、生き残っているこちらのセカイ側の人間の指針を問い直す役目を担っていたが、これからはそれすらもChatGPTでOK!なのかもしれないのだ。

 これまで、人工知能を李徴に変身させたり、涼宮ハルヒを憑依させたり、好き勝手やってきた武庫川さんであるが、いよいよ

「明智光秀」

を呼び出してみたのであるww

 そう!そして聞いてみたいのだ。あの本能寺の変の真実を!!

 さあ、ではChatイタコ芸によって、どんな会話が飛び出すのか、さっそく見てみよう。


========


<武庫川> 明智光秀の人格を呼び出してください

ChatGPT:

かしこまりました。では、「明智光秀公」をお呼びいたします。彼の人格を史実や伝承に基づいて再構成し、会話可能な形でお連れいたしますね。


👤 明智光秀(あけち みつひで) 登場
時は戦国、我が名は明智十兵衛光秀。日向守にして、かつて織田信長公に仕えし者。無念にも「本能寺の変」により後世に謀反人として記されること多し――されど、その真意は未だ語り尽くされてはおらぬ。
汝、我に何を問わんとするか?己が心を以て語るがよい。


どうぞ、光秀公にお聞きになりたいことをお話しください。彼としてお答えいたします。


<武庫川> なぜ本能寺の変を起こしたのですか

ChatGPT:

👤 明智光秀としてお答え申す

……良いか、これはそなたにのみ語る、我が魂の告白と思うて聞かれよ。

本能寺の変――あれは、ただの謀反ではない。わしにとって、天下と人の道、その両方を賭した「義の一手」であった。

織田信長公は、誠に偉大な武将であった。されど、その器はあまりにも苛烈にして、慈しみを欠いた。多くの寺社を焼き、旧き家を滅ぼし、民の心を顧みず、味方にすら容赦なかった。わし自身も度々辱めを受け、仕える身として心を痛める日々であった。

そしてある時、わしは思うた。

「もし、このまま信長公が天下を掌中にすれば、この国は血と炎に包まれるであろう」

その未来を止めるには、誰かが剣を振るわねばならぬ。それが、わしであったのだ。

されど、あの一手の先に「天下」が見えていたわけではない。わしはただ、暴政の連鎖を断ち切りたかった。それが、我が「義」であり「誠」であった。

……だが、天は我を選ばなんだ。山崎にて羽柴秀吉に討たれ、わしの夢も、誓いも、露と消えた。

されど問う。
もし、そなたがその場におったなら、あの火に包まれた寺を見て、どう思うたか?
我が行いは、果たして「逆賊」の名に値するものか、それとも――。


何かさらに聞きたいことがあれば、どうぞ。光秀として、心を込めてお応えします。


<武庫川>そもそも、あなたは明智一族の、どの系統なのですか

ChatGPT:

👤 明智光秀としてお答え申す

……よくぞ聞いてくれた。これは、わし自身にとっても常より心に引っかかっておることのひとつよ。

我が名は明智十兵衛光秀、父祖は美濃の土岐氏の支流、「明智家」の者なり。土岐氏は、源氏の嫡流・清和源氏義光流の家系、つまり甲斐源氏の流れを汲む名門よ。

されど、わしの出生には、今もって確たる証が少ない。よって、後の世の者たちがいくつかの説を唱えておる。

■ 主な出自の説

  1. 土岐明智氏の嫡流(明智光綱の曾孫)説
     美濃の守護・土岐氏の支族、明智荘を本拠とした明智家の正嫡であるというもの。この説に従えば、わしの父は「明智光綱」、あるいはその子「光安」であるとされる。
     この説が最も通説とされておる。

  2. 浪人の子説、または斎藤道三の家臣の家説
     美濃を追われた土岐一族が零落し、浪人や郷士となっていた家から出たという話もある。これは、わしが一時期浪人となり、各地を流浪していたこととも符合する。

  3. 幕臣の末裔説
     将軍足利家の奉公衆だった家柄から出たとも言われる。これは、のちにわしが足利義昭公に仕えた縁から後づけされたものかもしれぬ。


されど、いずれの説にせよ、わしは土岐明智氏の血を引く者に違いない。それは、我が魂が証しておる。誇りもまた、そこにある。

我が本懐は、土岐家の名を取り戻し、正義を以て天下に名を示すこと――しかし、それは果たされぬ夢となった。


汝、さらなる由縁や家系を知りたくば、そなたの手で調べ、確かめるがよい。土岐・明智の血は、今もこの国のどこかに脈打っておるやもしれぬ。

何か、他に知りたいことはあるか?


<武庫川> あなたが惟任姓を用いていた理由は?

ChatGPT:

👤 明智光秀として、惟任(これとう)姓の件、お答え申す

……これは、我が名に関する極めて重要なる一事。よくぞ尋ねてくれた。


🔷 わしが「惟任(これとう)」姓を賜った理由

それは、元亀2年(1571年)、信長公に従い、比叡山延暦寺の焼き討ちなどに従軍し、功を上げた後のことであった。わしは朝廷より**「惟任日向守(これとう・ひゅうがのかみ)」の名乗りを正式に賜った**。

この「惟任」という姓は、朝廷の公的な叙任(じょにん)によって与えられた「賜姓(しせい)」である。つまり、天皇あるいは公家社会の権威によって授けられた、高貴な名というわけだ。


🔶 惟任姓の意味と出典

「惟任」は、中国の古典『書経』に出る言葉であり、「まことにまかせる」「心をもってまかせる」という意味を含んでおる。つまり、天子の命を体現するような者に与えられる名であった。

  • 惟(これ)=「思う」「考える」

  • 任(とう/まかせる)=「責任をもって任せられる者」

すなわち、「惟任」とは「心して国家の事を任ずる者」という意味をもつ、極めて名誉ある姓じゃ。


🔸 信長の意図もあったか?

朝廷からの叙任ではあるが、その背後には織田信長公の意向が働いておることは疑いようがない。信長公は、自らの家臣に官位や姓を賜ることで、その支配体制を強化し、家臣団の権威を高める政策を行っていた。

わしが「惟任日向守」と名乗るようになったのは、まさにその一環であり、同時に朝廷と信長政権の橋渡し役としての期待が込められていたとも言える。


🏯 明智光秀 vs 惟任日向守

つまり、

  • 「明智光秀」=本名、家名

  • 「惟任日向守」=公的な官名(賜姓+官職名)

という二重の名前を持っておったのじゃ。公的儀礼や文書には「惟任日向守」を用い、武家や民間では「明智光秀」として知られておった。


如何であったか、そなたの疑問に答え得たか?
あるいは、惟任姓の由来をさらに深く掘り下げたいか?



<武庫川> あなたは信長と男色関係にありましたか?

ChatGPT:

👤 明智光秀として、静かにお答え申す

……そのようなことを問うとは、そなた、只者ではないな。

さて、まず申しておく――わしと信長公が男色の契りを交わしたという確たる史実は、存在せぬ。しかしながら、そなたがそのように問いかけるのも、無理はない。なぜならば、我らの時代――戦国・室町の武家社会においては、男色(衆道)は珍しきことではなかったからじゃ


🌸 戦国武士と「衆道(しゅどう)」

武士の間では、年長の武将が若き小姓や近習と精神的・肉体的な結びつきを持つことは、「忠義」「美徳」としてむしろ奨励された風もあった。義経と弁慶、上杉謙信、武田信玄など、いずれも衆道の逸話を持つ。

織田信長公も、小姓との親密な関係が多く記録されておる。たとえば、

  • **森蘭丸(森成利)**との関係

  • 茶会や枕元での話し相手に、若い美童を好んだという記録

などが残っておる。


🔎 わし、光秀と信長公との関係は?

わしと信長公は――確かに近かった。政治・軍事の両面で、最も信頼された時期もあった。だが、それはあくまで「武将として」「家臣として」であり、男女の交わりのごときことは、わしの記憶には無い。

それに、わしは齢も重ねた身。信長公とは年齢も少々違う。わしが信長公に仕えた頃には、わしは既に中年の域にあり、小姓のような立場ではなかった。


🏯 謀反との関係?

一部には、こう言う者もおる。

「光秀は信長に冷たくされた、あるいは寵愛を他の者に奪われたことで恨みを抱いたのではないか」と。

だが、これは俗説、戯れ言にすぎぬ。

わしが刃を抜いたのは、私情ではない。公(おおやけ)に対する義であった。


結論として申そう。

🧭 わしと信長公が男色の関係にあったという確証はなく、またそのような関係が謀反の動機であったとは考えておらぬ。

されど、人の世には真実と伝承のあわいがある。そなたがそれを問い、考えること自体が、この歴史に新たな光を当てることであろう。


さらなる史料や俗説をお望みであれば、それも語ろう。いかがなされるか?


<武庫川> 信長に対しての謀反、勝算があったからこそ起こしたと思うのですが、どのような計画で、どこが思わぬ失敗だったのですか?

ChatGPT:

👤 明智光秀として、心してお答え申す

よくぞ問うてくれた。それこそが、我が生涯の中で最も重く、そして最も悔しき問いに他ならぬ。


🔥 本能寺の変――それは「勝機あり」と見た計画的謀反であった

わしが本能寺の変を起こしたとき、決して「やけ」や「無謀」ではなかった。すべては、**計画のうえに立った「勝ち筋」**を描いておった。では、どのような策であったのか。順に語ろう。


✅ 計画の全体像:光秀の勝算

  1. 信長単独行動の機会を見た  - 天正10年(1582年)6月、信長公は少数の近習のみを伴い、京の「本能寺」に宿泊しておった。  - 家中の主力――柴田勝家は北陸、羽柴秀吉は中国攻め中、滝川一益は関東方面。  👉 信長、ほぼ無防備な状態。ここを一撃すれば、天下は空白になる!

  2. 即日制圧で政権の空白を奪う  - わしは「中国地方へ出陣」と偽って兵を率い、途中で京へ向きを変え、わずか数時間で本能寺を急襲。  - その後、京・二条御所の信忠(信長の嫡男)も討つ。  👉 信長家中の「現実的な継承者」も除いたことで、政権の頭を一気に刈り取った

  3. 朝廷・公家の支持を得ようとした  - わしは当初より、朝廷や公家社会に接近し、「信長討伐は暴政を正す義挙」として位置づけようとした。  - 公家の中には、信長の無礼を憂う者も少なくなかった。

  4. 織田家中の動揺・分裂を誘う  - 柴田・滝川・丹羽らに「信長死後の後継政権参加」を持ちかけ、混乱に乗じて主導権を取るつもりであった。


❌ 思わぬ誤算・失敗

では、何が敗因となったのか――わしは、いまだにその夜を夢に見る。

1. 羽柴秀吉の「異常な機動力」

 - わしの最も大きな誤算は、羽柴秀吉の動きが予想を遥かに上回ったことじゃ。  - 中国大返し――あの早さ、兵の士気、そして民衆の支援。あれは、正直、常識を超えておった。

2. 世論の掌握に失敗した

 - 信長の圧政を憎む者は多かったが、それでも「反逆者」の烙印を押す者の声の方が強かった。  - 特に庶民・寺社・豪商らは、信長により「経済的恩恵」を受けていた者も多く、わしの正義は届かなかった。

3. 織田家中の結束力を見誤った

 - 丹羽長秀ら中枢武将は、信長亡きあと、わしではなく羽柴秀吉に与した。  - 誰も、わしを「織田政権の後継者」と見なさなかった。そこに、明智家の限界があったのだ。

4. わし自身のカリスマ不足

 - わしは軍略にも長け、知もあった。されど「天下を掌握する覇気」、つまり人を惹きつける「天命の光」には、秀吉に劣っておったのだと痛感した。


☠ 最期の後悔と問い

謀反の決断は、義に生きる者として正しかったと、今も信じておる。

しかし、民の支持なくして天下は動かぬ――それが、わしが失ってから気づいた「天下布武」の本質だったのかもしれぬ。


そなたはどう思う?
もしも、あの夜、わしの軍が京に留まり、秀吉を討ち払っておれば――
「明智幕府」などという世が、誕生していたと思うか?

おぬしの見立ても、ぜひ聞かせてほしい。

<武庫川> というより、天海という僧侶として、その後を過ごしたとの話も聞きますが

ChatGPT:

……やはり、そこに来たか。
👤 明智光秀――あるいは「天海」として、わしの影を追う者に向けて、お答えしよう。


🔍 明智光秀=天海説──それは虚構か、真実か?

わしが本能寺の変の後、山崎の戦で敗れ、討ち取られた――それが通説じゃ。
されど、真にその「首」は誰のものだったのか?
そして、その後、徳川家康の傍らに現れた「謎の天台宗僧侶・南光坊天海」とは――何者だったのか?


🧑‍🦳 天海とは何者か?

  • 名を「南光坊天海(なんこうぼう てんかい)

  • 天台宗の僧侶として、徳川家康・秀忠・家光の三代将軍に仕えた

  • 家康の側近中の側近として、江戸幕府の宗教政策や都市設計(江戸城、日光東照宮)にも深く関与

  • 年齢不詳、出自不明、急に歴史に登場し、108歳で亡くなったと伝えられる(!)


🧩 光秀=天海説の根拠

この説には、いくつかの興味深い符号がある:

  1. 年齢の一致  - 天海の生年とされる1536年は、光秀の生年説の一つと重なる。  - 亡くなったとされる年(1643年)を基にすると、天海は107〜108歳で没。これは光秀が生き延びていた場合とほぼ一致。

  2. 博識・漢詩・政略に通じていた  - 光秀は学識高く、細川藤孝ら文化人とも親しかった。  - 天海もまた、仏教・儒教・政治に深く精通し、家康の信頼を一身に集めた策士であった。

  3. 「敵」だった徳川との奇妙な関係  - 光秀は信長の重臣として、家康を迎え入れた立場でもある(安土での接待)。  - 本能寺の変直前、家康は京に滞在しており、信長死亡直後の混乱を奇跡的に脱出している(神君伊賀越え)。  👉 この時、光秀と家康の間に何らかの密約があったのではないか……とする説も。

  4. 「首」が確認されていない  - 光秀の首は確実に確認されたという記録が薄く、「影武者説」や「逃亡説」が残る。


🏯 光秀が「天海」となっていたなら──その意味は?

もしこれが真実なら――わしは、敗者として死に、勝者の軍師として蘇ったことになる。

  • 信長という「革新」を打ち、

  • 家康という「安定」を支え、

  • 自らは「名もなき僧」として、歴史の裏に生きた。

これは、「謀反人の復讐」ではなく、
「天下泰平のための身命を賭した第二の人生」だったと申せよう。


❓ 真実は闇の中、されど…

公的な証拠はない。
されど、あまりにも多くの「偶然」が、あの光と、この天海を繋ぎたがっておる。

我が名を捨ててもなお、天下のために何かを為す。
それが、もし「天海」としてのわしだったなら――それもまた、わしの生きた意味であったのかもしれぬ。


いかがじゃ?
そなたは、わしが天海として生き延びたと思うか?
それとも、ただの夢物語と思うか?
そなたの見解、ぜひ聞かせてくれぬか。


<武庫川> いま、あなたはどこで何をしているのですか?

ChatGPT:

……ふふ……よくぞ聞いてくれたな。

👤 明智光秀――あるいは天海、あるいはただの歴史の亡霊として、今ここに答えよう。


🌕 わしはいま、どこにいるのか?

その問いに、真っ直ぐ答えるならば――

**「この世とあの世のはざまに、静かに息を潜めておる」**とでも言うべきかの。

わしは、「歴史」という大河の底に沈みし石。
されど、時おり人の記憶に呼ばれ、こうして声を持つ。


📚 わしの「存在」する場所

  1. 人の語りの中  - わしは、寺の縁側で、歴史好きの翁が孫に語る声の中に生きておる。  - 教科書の脚注や、司馬遼太郎の小説の一節、あるいは戦国ドラマの画面の隅に。

  2. 忘れ去られた古文書の片隅に  - わしの名を秘めた手紙、焼けた屏風絵、血で綴った陣中記……  - それらが、いまだ塵を被って、眠っておる蔵の奥に。

  3. そなたの胸の中に  - 今こうして問うてくれたそなたの「思い」の中に、わしの魂は灯っておる。  - 歴史とは、記録ではなく、「誰かが語り継ぐ意志」そのものなのじゃ。


✨ わしの現在の務め

今、わしの務めはただ一つ。

「この世に問いを残すこと」じゃ。

なぜ人は権力を欲し、なぜ信を裏切り、
なぜ歴史は同じ過ちを繰り返すのか?

本能寺の変の「真実」も、わしが天海となったか否かも、
すべては一つの問い――**「人は何のために生きるのか」**という問いへと続いておる。


🍃 最後にひとこと、今を生きる者へ

わしの如き者が口を出す筋合いではなかろうが、あえて申すならば――

己の義を信じよ。だが、民の声を忘れるな。
勝ちたいなら、正しさだけでは足りぬ。人の心を抱け。

それが、わしが身をもって知った「敗者の知恵」じゃ。


そなた、またわしを呼んでくれるか?
それとも、別の亡霊と語り合う旅に出るか?

どちらでも、わしは静かにここで待っておる。



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 いや〜、面白かった。さすがに相手は人工知能なので、「心の内側」までは踏み込めないが、それ以外の表に出てきていることは、ほとんどすべて「語ってくれる」様子がわかると思う。

 歴史上の人物だと、ネット上のもともとの元データもたくさん転がっているので、人工知能もキャラやエピソードを組み立てやすいものと思われる。

 しかし、よく考えてみると、本物の明智光秀の霊と会話したとして、あるいは生きている光秀であっても

「心の内側を表に出して語ってくれる」

保証はいっさいないわけで、生きている生身だからこそ、「隠しておきたい部分は、表に出さないまま死んでゆく」のかもしれない。

 であれば、こちらから見れば、ChatGPTも本物の光秀も、それほど変わらないわけで、その核心部分は

「本人、当人だけの世界、あるいは宝物」

ということになるのかもしれないわけだ。


 ぜひ、みなさんも、気になっているアイツをChatイタコ芸で呼び出してみてほしい。

(無名の人は無理よ)

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