21世紀になって、「人間・イエスキリスト」の実像にスポットが当たることが特に多くなってきたように思います。
”人間・イエスキリスト”という視点は、文字通り、これまでのカトリック的な
「神とイエスと精霊は三位一体である」
という価値観でもなく、あるいはキリスト教原理主義者的な
「イエスは神によって使わされた預言者であり、救世主である」
という価値観でもない、
「1人の宗教者、人間として生きたキリストの思想と行動」
という人間的なイエスの側面に注目するものです。
もちろん、イエスキリストの真の姿を追い求める姿勢は、聖職者の中にも歴史的にあったし、聖書学者や歴史学者たちも、純粋に研究を進めてきました。
ところが、長いヨーロッパの歴史観・宗教観の中で歴史的事実としてのイエス像と信仰的なイエス像をどう折り合いをつけて解釈するかは、実際にはなかなかすんなりとは解決してこなかったわけです。
聖職者がイエスについて真面目に考えると、それは時に「異端として排除」されたり、聖書学者は聖書がベースであるがゆえに「とってつけたような解釈」をせざるを得なかったり、歴史学者が発表したデータは教会や信者からの批判に晒されたりするのが、これまでの常でした。
従って、
”イエスキリストは、一介の人間であった”
という視点は、その仮説を抱くことすら、不敬な罪なのではないかという観念が、少なくとも20世紀まではまだまだ一般的なイメージであったように思います。
しかし、厳密な歴史学者はともかく、いわゆる一般の人たちにも「人間イエス」について考えさせるきっかけとなったのは、やはり
ダヴィンチ・コード
という小説と映画によるものが大きいと言えるでしょう。
この物語では、イエスキリストに妻と子がいて、いかにも人間的に子孫をつないでいる。またその事実を宗教的にはカソリックが異端として隠そうとし、またその事実をひっそりと守ろうとするものがいる、という展開でミステリーが進行しました。
ダヴィンチコードが、単なるフィクションであるのか。あるいは事実を踏まえた物語であるのかは、さまざまな書評が出ているので繰り返しませんが、少なくともこの物語を通じて
「人間らしいイエスの姿」
をもう一度追求したい、という人類の興味が再燃したことだけは間違いではないと思います。
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人間的なイエスの姿の概略を知りたい人は、
橘玲さんの書評
http://diamond.jp/articles/-/63202
がわかりやすいのでお勧めします。
似たような話はどこにでも転がっていますので、ここでもざっくりと人間イエス像の概略をまとめておきましょう。
以下に書くのは、神の化身ではない、宗教家としてのイエスの人間的あゆみです。
「イエスという人は、何か理由があってマリアの私生児のような形で生まれ、父親の子ではないということが知られていました。
彼は約30歳になる頃まであまり記録に残るような活動をしていませんでしたが、当時腐敗した神殿系のユダヤ教をよしとせず、野に出てより神に近い(と彼らが考えている)宗教活動を行っていたユダヤ教原理主義者のヨハネに弟子入りし、洗礼を受けます。
ヨハネたちは「律法を守ることが目的になってしまっている」その時代のユダヤ教を批判し、「神への純粋な信仰を取り戻す」ことをテーマに活動していましたが、やがてイエスはその思想を一歩推し進め、腐敗した現在のユダヤ教と直接対決する「行動的」なアクションを起こすようになりました。ヨハネ派からイエス派を創設したともいえます。
イエスの教えというのは、簡単に言えば「神に帰り、神の王国を待て」というものでしたが、イエスのファンたちからすれば、イエス自身が神の預言者であるかのような期待感を持って迎え入れられたため、当時の主流派ユダヤ教徒からは嫌悪されることになりました。
そこで、旧来のユダヤ派は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国に「あいつは、クーデターを考えている新しい王となろうとしている危険人物だ」と訴えることでイエスを排除しようとします。
結果、イエスは政治犯として十字架刑になり、彼の死後、「イエスは復活した、だからやっぱり彼は神の子だったんだ」という伝説が生じることで宗教化がいっそう進んでゆき、現在に至ります」
上記のような人間イエス像は、キリスト教信仰者にはやや拒絶的な話ではありますが、イスラム教信者にとっては、
「その後、より新しい預言者としてムハンマドが使わされた」
という意味においては、イエスは神そのものでなくても全然OKということになるわけです。
実際にイスラム教においては、預言者モーセのような存在として、預言者イエスが人として位置づけられているからです。
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しかしながら、政治的・経済的に混迷を極める国際社会において、こうした形で「イエスの神聖」を否定したり疑問視することで、私たちはより一層
「では我々は何を信仰して生きるべきか」
という疑問を突きつけられることになっています。
イエスにこだわらないのであれば、ヤハウェといった「ユダヤ・キリスト・イスラム共通のそもそもの神」への信仰に再度目覚めることになり、それは現在のイスラム社会の注目に繋がっているわけです。
たとえば、欧米の若者にとって、キリスト教的信仰観に疑義が生じることがあれば、あるいはより原理的な宗教へと気持ちが向かうことはなんら不思議ではないと思われます。
しかし、武庫川散歩個人のことを言えば、私がキリスト教への疑問を感じたのはそもそもの
「聖書に登場する神そのものの姿勢」
についてでしたので、キリストの否定をすなわちヤハウェ神への回帰とつなげることは、大変問題があると考えたのでした。
これまた簡単に言えば、旧約聖書の神・アブラハムの神は
「ユダヤ民族に約束の地を与える。その地にはびこる異教徒や異民族はことごとく焼き払いなさい」
という姿勢を持つ神であり、これを日本人である武庫川散歩が心から信奉するにはかなり無理があると言わざるを得なかったのです。
これまで、当ブログにおいて「神はいったいどんな存在なんだ?」ということを自問してきたのは、こうした難問を解決するためのプロセスだったわけです。
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というわけで、21世紀の世界においては、人間イエスキリスト像を軸にしながら、
「新しい・究極の宗教観」
というものがどうしても求められる時代だと考えます。
また簡単に言いますが、
「それなら、じゃあ本当に正しいこのセカイの姿はどうなってるんだ!」
という純粋な人々の気持ちを納得させる「答え」が必要なのではないでしょうか。
というわけで、次回は「究極の宗教とは」というお話をしたいと思います。
・・・あ、今回全然ボケなかった。(^^;;
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