東洋経済オンラインでの、われらが中島義道の連載が、面白いことになっているので、またまたまた紹介したのですが、いいでしょうか。
「極東の国民にとって西洋哲学とは何か」
http://toyokeizai.net/articles/-/70907
この連載、「哲学塾からこんにちは」という毎度毎度の「中島センセイが好き勝手言うシリーズ」の最新話なのですが、よくよく読んで見ると、
あえての逆ギレ
状態の中島センセイを見ることができて、大変に楽しいったらありゃしない。
さあ、中島センセイに何が起こっているのでしょうか?!
なんと言っても稀代の哲学者ですから、わざとわけがわからないように小難しく書いておられますが、おっしゃりたいことはとってもカンタンなので、解説つきで勝手にお届けしようと思います。
==========
まず、しょっぱなのところ。東洋経済オンラインの連載を読んで、「哲学塾カント」なる中島センセイの私塾に入塾希望者がやってくるので、彼らに、
ガツン!
とかましておこうというのが、センセイの意図だと思われます。
おまいら、哲学をなめんじゃねえぞ、コラ!
と。
これが一体どういうことかといえば、そもそも「哲学というのは自分の生き方やありようについて考える」行為ですから、
「これがワシじゃあああ!」とか「これが命なんじゃああ!!」とか「これがセカイなんじゃああ!!!」
という発見は、人それぞれ好き勝手千差万別であろう、ということは誰にでもわかりますね。
ということは、哲学をするということは、すなわち「好き勝手する」ということでもあるので、中島センセイの「哲学塾カント」というところは
中島義道が好き勝手するところ
だということになります。
しかし、それではあまりに不親切であり、中島義道の好き勝手に対して、何か「あらぬ誤解や期待をしてやってくる人がいたら、それはかわいそうなので」いちおう、中島センセイとしては
ワシの好き勝手なルールは、こんな手法です。
と今回の記事であらかじめ宣言してくれているわけです。
つまり、「あんたらが勝手に思い描いているようなルールで哲学したり、哲学塾カントに来ることによって、哲学的な何かひらめきやズッキュンな体験が得られるわけでは、まったくない」ということを最初に宣言しているわけですね。
じゃあ、中島センセイの言うところの「好き勝手なルール」というのはどういうことか。それは、
「ワシの方法論は、言語理性論理のカタマリである、バリバリの西洋哲学をじわじわとネチネチと、それはもうぬったりべったりやるけど、それでもいいやつだけ来い!」
ということで、
「それ以外の淡い期待を抱いているやつは、お前が勝手に好きにすればいい!」
ということをつまりはおっしゃりたいわけです。純粋哲学をなめるな、と。
そういうわけで、だいたい概ね「神様ってふわふわしていて、どこかお空にいるんだよね」とか、「すべてのものには魂が宿ってるんでしょ」とか、「幸せってなんだろうね」とか、そういういかにも東洋的なお花畑な哲学観念はどうでもいいのじゃ!そうじゃなくて、純粋な
西洋哲学とは何かについて、そもそもおまいら何にもわかっちゃいねえ!
ということを怒号とともに語っておられる、というわけ(笑)
==========
じゃあ、中島センセイは何をもって哲学だというのか。
キリスト教と対峙した武庫川散歩がかみくだいていうなれば、それはもうヨハネ福音書のしょっぱなである
「はじめに言葉があり、言葉は神であった」
というアレですよ、あれ。ロゴスと神と存在の話です。
その基本中の基本からゴリゴリやるで!ということです。
中島センセイの話の中で「サルトルは神になりたかったみたい」という部分が出てきますが、あれまあ武庫川散歩少年も、実はそうだったのですよ。
私は、神と対峙することで、神と同等になろうとした、いや神を乗り越えたかったのです。あのとき(うふふ)
そのあたりは、私の哲学では、ロゴス=論理であり、ギリシア哲学で言うところの「発せられた言葉」というのはつまりプログラミングされて存在するプログラムそのものであり、言葉と文字の違いは
「プログラムされた論理は、(たとえプログラムされたという受身でないとしても)、ROMに書き込まれようが、電源が入らないままであろうが、論理構成として思い浮かんだ(たとえ人や神の主体によって思い描かず、勝手に生まれたとしても)時点でたしかにそこに存在する」
という話になるわけで。
(ああ、なんのことを言ってるのかさっぱりわからんだろうなあ)
↑まあ、このあたりは一般人は気にしないでください。理解したい人は弟子に立候補すべし。
0 件のコメント:
コメントを投稿