2015年9月22日火曜日

武庫川散歩が哲学者たる理由 〜中島義道が解く”哲学とは何か”〜

 今世紀最弱の解脱者にして、孤高の哲学者、武庫川散歩が勝手に書きまくる独善的コーナーの時間が今日もやってきました。


 シルバーウイークというよくわからない連休(なんでも、数年もこの連休は訪れないそうですが、では秋の大型連休とは一体なんなのか、どういう存在意義があるのか悩ましくなるものです)



 さて、このブログではいつも誰に認められることもなく、誰に主張することもなく、わたくし武庫川散歩が、卑猥なくらい解脱している状態について一人がたりをしているわけですが、そんなわたくしの観念をかの中島義道氏が、わかりやすく代弁してくださっている記事を見つけたので紹介しておきましょう。



 当ブログのファンであればすでに有名な「東洋経済オンライン」さんで連載されている「哲学塾からこんにちは」のコーナー。

 最新記事では「哲学とは、結局なんなのか」「真理とは、結局なんなのか」について中島氏が語っておられるので、追従してみたいと思うのです。


東洋経済オンラインより 
http://toyokeizai.net/articles/-/82229


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 いつも中島氏が愚痴っているのは、 ようするにこういうことです。


まず

「哲学がやりたいとか、哲学を学びたいとか、そういう感じで哲学塾にやって来る連中の大半が、途中でどこかへ行ってしまう」

ということ。そして彼らはたいてい

「哲学というものに、なんかしらんけど間違ったイメージや期待を抱いていて、実際の中島義道が解説する哲学の話を聞くと、期待はずれで去ってゆく」

のだそうです。


 なぜ、そんなことになってしまうのか。


 中島氏は言います。


「そもそも哲学というのは、ロマンチックでも感動的でもなく、地味でつまらなく、そしてどこまで言っても正解のないものである」


そして、


「だいたいアプローチの仕方から、テーマに至るまで、すべてにおいて明らかになっていないのだから哲学なのであって、明らかになっている部分は科学であるから、つまりはわけのわからないものの大海に放り込まれるようなものなのだ」

と。さらには、


「 そんな意味不明でワケワカメな世界において、それぞれの哲学者はそれぞれの考え方をまとめてきたのだけれど、その誰もがスパッとズバッと解決するような答えを出していないから、あなたが悩みを現在抱えているわけで、結局はあんたの哲学的悩みは、あなた自身が答えを創造しなくてはいけないのだ」


と言うわけです。


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 さて、当ブログをチェックしている方は、すぐに「あれ?これって武庫川散歩がいつも言っていることと、いっしょだよな」と気づくことでしょう。


 哲学ということばを解脱に置き換えれば、中島氏の言葉と武庫川の言葉がまったく同一であることは自明です。


 武庫川散歩は言います。


「解脱というのは、何か神秘的な体験をしたり、ズッキューんとなったり、ビビビとなったりする体験ではなく、極めて論理的で科学的なものである」

「解脱に神秘体験を希望するものは、何か薬物でも摂取してできれば合法・適法にラリったほうが早い」

「解脱というのは、この世界が存在しない、ということに気づくことである。この世界のすべての人が今ここに存在しているのに、それを否定するというとんでもない一人ぼっちな概念である」


等々。


 さて、武庫川散歩は結局、キリスト教の神を否定し、仏教の仏を乗り越え、ITとプログラミングの世界にツッコミを入れながら、最終的には、


「サイバーパンク解脱」


に到達したわけですが、 実は中島義道氏も、その領域に到達なさっていることをご自身で述べておられます。


 では、中島氏にとっての「哲学」とは何だったのか。記事の最後にご自分で説明を書いておられるので引用してみましょう。


「死は言葉なのだ!!」


  これですよ!これ。死は言葉。言葉なんです!


 ・・・奇しくも、聖書には「神はロゴスである」という言葉があり、武庫川散歩が、


「この世界は記号だ!!」


と言っているように、この3つは根源的に同一なのです。


『はじめに言葉があり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった』


  これはヨハネによる福音書の一節ですが、キリスト教ではこの言葉(ロゴス)をイエス・キリストのことだと曲解していますが、原典のラテン語では

「ロゴス」は論理・言葉

を指し示します。



 世界はプログラムであり、論理構成であり、文字である。そう説明すれば、武庫川散歩の悟りになります。

 死は文字であり、言葉であり、論理的な概念である。そう説明すれば、 中島義道の哲学になります。

 その論理と言葉と物事の成り立ちそのものを神だととらえれば、それは宗教となるわけです。



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 中島氏の場合は、「死は言葉である」という直観に打たれました。武庫川散歩が「この世は記号なんだ!」という意識に打たれたのと、まったく同じです。


 中島氏は、死は言葉である=記号・ラベルであり実体ではないから、それをいかに解釈するかでその中身は変えられるのではないか、と考えました。

 武庫川は、世界は記号である=実体は存在しないプログラムのようなものなので、何も恐れる必要はないし、本来は無常である。と考えました。


 なので、武庫川は、おそらく中島氏が講義する哲学の歴史についてはべつにどうでもいいとして、彼が探している哲学の中身には、たいへんに共感します。


 このブログで、宗教の歴史を列記したり、解説したりしたのは、単なる宗教史学に過ぎませんが、その悟りの中心は、けして孤独なものではないのかもしれません。







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