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2016年7月9日土曜日

哲学は人類を幸福にはしてくれない



 東洋経済オンラインさんで、ずっと連載している、あの「中島義道」センセイの


「哲学塾からこんにちは」


が7月になって久しぶりに更新されていました。



 哲学が人類を「幸福にしない」これだけの理由
 http://toyokeizai.net/articles/-/124180




 前回の更新が3月末でしたので、3ヶ月はゆうにほったらかし、という連載。さすがは中島義道先生です(笑)



 そういえば、ジャンプのハンター×ハンターの作者、富樫センセイもまた休載のようですが、 武庫川の友人が、トガシ先生の昔のご学友だったそうで、


「うん、まあ、彼はいろいろと大変なんだよ」


と察して欲しそうでした。察します。




~~~~~~~~~~


 さて、そんなこんなで世間では心に病を抱えた方がたくさんおられますが、武庫川は今日も元気です。

 
  だって、悟ってるから。あははん。



 さて、今回の中島センセイのお話。


 哲学を追求すると、この世界で生きることよりも真理を知ることに重点をおいてしまって、その結果・・・悶死。


という意味のことだったように思います。



 哲学においては、人類が滅びようが真理は真理ですから、人類の幸福と相反しても、それは真実なのだ!とついやらかしてしまうところがある、というわけです。




 そういえば、つい先日も、このブログのファンの方とそんなメールのやりとりをいたしました。


 え?武庫川にメールをしてくるやつがいるのか?って?


 いるんです。それが!



 まかり間違って、武庫川が実は存在しないのにメールを受け取っているような錯覚に陥り、そしてかつ返事を送っているような錯覚に陥っているのでない限り、そういう事実があるように受け止められます。



 哲学も悟りも同じですが、真理の追究に向かっていると、俗世のこととどんどん乖離してゆきます。

 俗世における善悪などというものは、解脱と哲学の前には、ほとんど無意味になってしまいますから、(かといって、悪さをするわけではないけれど)、中島センセイの言うように、


「子供が哲学科へ行きたいと言い出したら、全力で止める」


のはマストです(笑)


 それも、京大の哲学科がいい!とか言い出したら人間として終わりかはじまりかわからないぐらいのすごい状態ですから、 親御さんとしては心中お察しいたします。


 まあ、中島先生が、「哲学などなんの役にもたたないので、税金なんかつかって国立大で教えんでもよろしい」みたいな意見もわからなくないから、苦笑してしまいます。



 あ、でも中島氏はとてもいい提案をなさっているので、それには武庫川も大賛成したいと思います。

 引用

”幕末の私塾のように、志のある哲学者が塾を開けばいいのです。そして、志のある若者(あるいは中年、老年)がそこで学べばいいのです。”



 これですね!これ。



 というわけで、自称哲学者であり解脱者であり、妄想癖の武庫川散歩が、こんなブログを書いているのも



そこに意義がある!


と納得するわけですよ。



 私は志とかはあんまりなく、どちらかというと


 寸志でいいから、くれ!


というタイプですが(笑)



 もし、このセカイについて多いに考えて考えて考え抜きたい人がいれば、誰でも当ブログに集っていただいてかまわない、と思っております。


 武庫川はお金がないので、私塾を開く余裕などありませんが、メールくらいならいつ下さっても大丈夫です。


 ただし、個人的にはメール下さるなら女性がいいです。


 あと、女装癖のある男性でも、まあいいです。


 むっさい男子の場合は、哲学してる暇があったら労働してこい!と怒鳴るかもしれません(笑)













2016年4月1日金曜日

人生の救いはどこにあるのか?! 中島義道の答え

 毎々、哲学塾の「中島義道」さんの文章がおもしろいので、チェックしている武庫川散歩ですが、今月も新ネタがアップされていたので、ご紹介します(^^



 東洋経済オンラインより

哲学に「人生の救い」を求めるのは、筋違いだ

http://toyokeizai.net/articles/-/110624 

 

・・・相変わらず面白いですね〜。今回もツカミは「哲学塾」にやってきては去ってゆく人たちの話なのですが、基本的には

「多くの人々は、哲学というものを自分が思っていたものと違うので、去ってゆく」

 のだそうで。まあ、そうだろうなあ、と思います。


 中島先生いわく、「個人的な悩みを解決するには、哲学は何の役にも立たない」し「悩みを解決したり軽減したりはできない」のです。

 だからこそ、そうした悩みを持つ人に対しては、カウンセラーや宗教や、あるいは精神科の医者がいるのであって、哲学はそもそもそこが対象ではないのです。

 

 仏教やら、ふだん武庫川が言っている「解脱・悟り」もそれに似ていて、「解脱や悟りを得ること」は、

 

 あなたが今抱いている諸問題の解決とは、何の関係もない

 

 ことは明らかです。つまり、悟りはあなたの問題に対して直接の回答にはならないし、あなたを救ってはくれません。

 

 じゃあ、何のために悟ったり、悟りがあったり解脱が存在するのかというと、これまた簡単に言えば

 

 「あなたの問題や人生の救いというものが、実はどっちゃでもいいということに気付く」

 

ために悟ったり、解脱したりするわけです。これはこれで、あなたが今抱いている問題そのものが、実はどうでもいいことだ、とするわけですから、結果としてあなたは自由にはなれますが(笑)

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 ちょっとだけへんてこな例を挙げて説明すると、今「不倫はいけない」ということが超話題になっていますが、「不倫をする」ということと、「側室がいる」ということは実は行為行動としては同じようなものです。

  しかし、一方はいけないことで、もう一方は「時代背景や社会情勢により、べつにOK」なわけで。

 ということは、そこに「問題」や「過ち」が存在するかどうかというのは、それこそ「時代によって問題視されたり、されなかったりする」ということが真実なのです。

 

 人生の悩みも同じで、それを「悩みと捉える」から悩みなのであって「問題と捉える」から問題なのです。

 もとから「そういう時代背景や事情ならOKなんじゃない?」ということだと、それは問題や悩みですらないわけで。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、中島先生の場合は、そうした問題や悩みを解決するために生きているわけではなく、むしろ「どうしてそのような悩みや問題がこの世に存在するのか、その真実を知りたい」くらいのことなわけで(笑)

 

 これについては武庫川も激しく同意します。

 

 さて、中島先生が人生の救いそのものを放棄なさったので、武庫川がその分頑張らなくてはいけません(^^

 

 というわけで、梵天に「衆生を救うよう」励まされたシッダールタのごとく、武庫川散歩は今日も元気に人々の悩みを解決しております。


 まあ、何かあればメールください。

 


2016年2月24日水曜日

中島義道が斬る、ゲス川谷、ベッキー、宮崎議員、桂文枝の不倫騒動

 不倫は文化だ!


と、石田純一さんは実は言ってないのですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?


 まあ、石田氏の場合は「(不倫のような)忍ぶ恋から文化や芸術が生まれたりしますよね」ということを言っただけで、


 それはまったくもってそのとおり!


とこの武庫川散歩も石田純一さんの肩を持ちます。向うは、私のことをいっさい知りもしませんが。




 さて、週刊センテンス・スプリングさんが放った「文春バズーカ」第一弾、ゲスの極み乙女川谷さんと、ベッキーさんの「ゲス不倫」騒動、そして、宮崎元議員による「ゲス育休不倫」騒動の第二弾、そして桂文枝さんの「愛人さんいらっしゃい!不倫」騒動の第三弾に至るまで、まさに



 現代日本の文化として不倫が存在する



ことを見せ付けられた2016年でした。




 さて、そんな不倫に対して、あの哲学者である、われらが中島義道先生が、ひとこと哲学的視点からモノ申しておられることをみなさんは知っていますか?



 というわけで、今回の記事は



「哲学者 中島義道が斬る!不倫は哲学だスペシャル!」



をお届けしようと思います。



~~~~~~~~~~


婚約破棄した男は「不誠実なダメ人間」なのか
http://toyokeizai.net/articles/-/102182

(東洋経済オンラインより)




 詳しいことは、まずは中島センセイの記事を読んでいただければわかりますが、まず、哲学の大前提として


”そもそも、善いとか悪いとかそれはどのような意味なのか”

とか

”悪いという行為を人はなぜ悪いと知っていてやってしまうのか”

とか、そういう本質的な問題が哲学であって、「これは善いとかこれは悪いとか、そういう次元の問題ではない」ということを理解しておく必要はあります。



 そういう意味では、「不倫は悪い」と一般的に思われていて、ゲスとベッキーと宮崎氏といらっしゃい!氏は断罪されるべきだと思われていますが、


そもそも、彼らは悪いのか?


というところから問い直さなければいけないのです。




 ワタクシ、武庫川散歩は、解脱者の立場から


「不倫はいけない」とか「不倫はよい」とかそういうことは言わない


ことにしています。善悪の基準を持ち込むことはせず、ただ


「この世に不倫は存在する」


と考えています。



 ここまでは、中島先生も同じです。不倫はある。それも、よくある。けっこうある。


じゃあ、そんなにある不倫について、「人はなぜそれを悪としているのか」が問題だというわけです。



~~~~~~~~~~


 哲学の答えは、けっこうカンタンで明解です。


 中島先生は、「自分もふくめて、人というのは気分屋で、ころころ気が変わったりその時の気分が前に言ったことと逆だったりする」ということをまず認めます。



 こういう気持ちの変動や変化は、ただ「この世において・わたしの中に・誰にも存在する」ということがまず認められるわけです。



 しかし、その気分によって、前にしていた約束と違うことを実行したり、あるいはお金を払う契約をしたのに払わなかったり、注文したものが届いてからキャンセルしたりすれば、


「相手が損をする・損害を受ける」


から、それは社会をスムーズに進行できなくするので、「悪」とされる、というのです。




 しかし、こうした欲求の変動は、人間として自然なものです。それでも、一貫性や契約やそうしたことが重要視されるのであれば、


「それは人間の本性や本質的な部分から出てきているのか、それとも、後付の単なる取り決めなのか」


を考察したい、それが哲学だ!というのです。




 思えば武庫川散歩も、19歳の時にこのことを悩み続けました。


 最も古い法のひとつとされるハムラビ法典というものがあり、それに


「なんちゃらをしてはいけない」


とか


「なにそれをすると罰する」


とか、そういうことが書いてあるのですが、果たしてそれは



「王がそう決めたから、その命令に従わなくてはいけないから人はそういうことをしないようになったのか、それとも、人はもともとそういうことがマズイと思っていたけど、王はさらにそれを明文化しただけなのか」


をずっと考え続けて夜も寝られませんでした。



 ああ、19歳の私はすでに哲学者だったのです!



~~~~~~~~~~


 本題に戻りましょう。


 不倫をするとなぜいけないのか。中島先生は、もうひとつそこに「情緒」が介在するといいます。


 情緒とは、「情が移って可哀想」とか「申し訳ない気持ちになる」とかそういう感情論です。


 情緒主義を取る哲学者たちは、結婚や約束や契約などは、「守らないとダメだよね」という情緒に支配されているので、たいしたことはない。心変わりも情緒だし、守るつもりも情緒なので、守ろうが破ろうがたいしたことではない、とするというわけです。




 しかし、現実的には、「不倫をすれば責められ、炎上し、CM契約を打ち切られて、議員を辞めなくてはいけない」のです。



 中島先生は、この原因は近代ヨーロッパの「ロゴス中心主義」にあると見ています。


 ロゴス中心主義では、人間は理性的であるとされます。ロゴスというのは言葉であり論理です。


「結婚という約束」=契約という論理です。


「結婚するという意志と意思表示」=首尾一貫する論理的言説なのです。



それに反する不倫は、理性的ではない。野蛮で動物的である、というわけですね。


 道徳的であることは理性的であることだし、理性的で合理的な生活を送ることこそが「善であり理想像」だとするのです。


 そして、そちらのほうが、”人間の本性”だという立場が近代欧米の発想なのです。





 しかし、逆にいえば、


「不倫をしてしまったり、約束を破ったり、仕事をめんどくさいと思ったり、時にはサボったり、感情的で情緒的な言動をとってしまい、薬物に手を出したり、6股をかけたりするのも、人間」


なわけで、それを善いとか悪いとか言うよりも、


それもまた、人間の真実


なのです。


 哲学者はそのせめぎあいの中に真実を探り、解脱者はそのあやふやさの中に無常を見いだすのでありました。



2015年10月30日金曜日

 中島義道が怒鳴る”バカモノ!マヌケ!アホ!シネ!”

 いやあ、今回も中島先生は好き放題言っておられますな。


 私も言ってみたい!



 バカ!アホ!間抜け!死ね!



なーんて。



 ・・・毎度どうも。稀代の解脱者!こと武庫川散歩です。





 稀代の解脱者、なんて言うと、あれですな。


 錠前のついた箱とかに入れられて、空中に吊るされて、火を付けられてどっかーん!

 とか、そんなことになっているのに、あら不思議。あちらをご覧下さい。


と見れば、笑顔で箱から抜け出してポーズを決めているという


・・・ああ、それは解脱じゃなくて、脱出でしたね。


 稀代の大解脱!木下大解脱!こと武庫川散歩です。あれ?さっきこれやったね。




~~~~~~~~~~



 毎回まいかい、わけのわからんツカミに付き合わされる読者もいい加減困惑なさっていると思いますが、そういうブログですので、以後よろしく。



 さて、今回も稀代の哲学者、中島義道センセイが好き放題言っておられるので、レポートです。




 東洋経済オンライン 哲学塾よりこんにちは から
http://toyokeizai.net/articles/-/89938




 今回先生が吼えておられるのは、簡単にいえば



「哲学をみんなが学べば人類は幸せになれるのに」


といった言説はすべて幻想で、



そんなわけあるかヴォケ!


だということです。


 そもそも哲学は生きるために必要な知識ではないし、生活の役には立ちません。哲学を究めても人類は幸福になったり、人生は豊かになったりしないのです。


 まあ、よく思い返してみれば、現代でも


「資本主義哲学と共産主義哲学のどちらが人類が営むべき社会体制として正しいか」


について、まじめに哲学され議論されているのに答えが出ないのと同じで、人類がみな哲学しても「生きるべきか死ぬべきか」「あれは誰だ、オレは誰だ」なんてことには答えがまったく出ないのです。



 しかし、中島センセイによれば、「それでも哲学することで救われる人がいる」から哲学する意味が少しだけあるのであって、そうなるとこれはますます



 哲学は解脱に似たり



と思わずにはいられません。


~~~~~~~~~~

 

 考えてもみてください。もし万人が悟りを開いてしまったら、この世界では経済が一切回らず、世界中の人たちがみな


「人生に悩みなんかないもんね~。空しいよね、涅槃だ涅槃」


と呟きながら横になってしまうわけですから、世界は完全に崩壊し、停滞します。



 誰もが、物欲も性欲も何もかも捨ててしまったら、恐ろしいことにモノは生産されないわ、子供は生まれないわ、一人ずつ絶滅してゆくだけです。



 そこらへんにある雑草を食べながら半裸でヒゲも髪の毛も伸び放題の男女が、のそのそと歩いている姿を想像して御覧なさい。



 まさに地獄絵図ではありませんか!!!!!




 ということはですよ。あなた!!


 人類にみな解脱してもらっちゃあ、困るわけです。世界は。


 解脱した本人は、すべてのものから解放されて満たされているかもしれませんが。あるいは、なんならそのまま即身成仏していただいてもかまいませんが、そんな風潮が蔓延してしまうと人類は滅亡するに決まっています。


 

 ベンガル虎とか、コウノトリとか、絶滅危惧種がですよ。食欲も失ってごはんも食べないわ、子孫も増えないわ、なんだか幸せそうに眠っているだけだとしたら、


 完全に絶滅するに決まってる


わけです。もう、二度とふやせっこありません。ワシントン条約万歳!!!




~~~~~~~~~~

 ということは、お釈迦さまでもブッダでもなんでもいいですが、彼が広めようとしていることは



けして社会体制をそうせよとか、万人受けするものではなかった



ということがわかるのです。


 解脱とか、涅槃とか、悟りとか、そういうのは極めて個人的な主観としてのセカイの捉え方



であって、物理的な実体そのものであっては大変にマズイということです。



 それこそ哲学的にみて、


「このセカイは、諸行無常だよね」


としみじみするのはOKだけれども、



「このセカイは諸行無常ですので、法律も罪も罰もそんなの無意味です」


とマジでやられると困るわけです。




~~~~~~~~~~


 わたくし武庫川なんかは、



「このセカイは存在しないのだ!」



なんて嘯いていますが、



「じゃあ、ほんとに消し去ってやろうか」



とか言い出す独裁者がいたりしたら、これはマズイのです。



 地球上には、地球を何回も消滅させられるくらいの核兵器がまだあるそうですが、諸行無常を実行されてしまうと、それはもう取り返しがつかないくらいの無常なのであります。




~~~~~~~~~~


 ということはですよ。哲学することも、解脱することも、重要なのは



「個人が生きていく上で、悩みや苦しみ、そもそも抱いている未知なるものへの空虚さを解決する極めて個人的な手法」


として成立することなのであって、ポイントはやっぱりそこなのです。



 なあんだ。解脱って結局、個人的なレベルに過ぎないんだ~。



 そう思うと、すっごく解脱がチャラくて軽いものに思えてきませんか?それでいいんです。


 軽いんですよ。軽いの。あなたの存在が交通事故で一瞬に消えて亡くなるように、それくらい生の悩みも、解脱も哲学も



 軽くて儚くて、やっぱり無常なもの



なのです。



 ほら!またひとつ解脱したでしょ?





2015年9月22日火曜日

武庫川散歩が哲学者たる理由 〜中島義道が解く”哲学とは何か”〜

 今世紀最弱の解脱者にして、孤高の哲学者、武庫川散歩が勝手に書きまくる独善的コーナーの時間が今日もやってきました。


 シルバーウイークというよくわからない連休(なんでも、数年もこの連休は訪れないそうですが、では秋の大型連休とは一体なんなのか、どういう存在意義があるのか悩ましくなるものです)



 さて、このブログではいつも誰に認められることもなく、誰に主張することもなく、わたくし武庫川散歩が、卑猥なくらい解脱している状態について一人がたりをしているわけですが、そんなわたくしの観念をかの中島義道氏が、わかりやすく代弁してくださっている記事を見つけたので紹介しておきましょう。



 当ブログのファンであればすでに有名な「東洋経済オンライン」さんで連載されている「哲学塾からこんにちは」のコーナー。

 最新記事では「哲学とは、結局なんなのか」「真理とは、結局なんなのか」について中島氏が語っておられるので、追従してみたいと思うのです。


東洋経済オンラインより 
http://toyokeizai.net/articles/-/82229


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 いつも中島氏が愚痴っているのは、 ようするにこういうことです。


まず

「哲学がやりたいとか、哲学を学びたいとか、そういう感じで哲学塾にやって来る連中の大半が、途中でどこかへ行ってしまう」

ということ。そして彼らはたいてい

「哲学というものに、なんかしらんけど間違ったイメージや期待を抱いていて、実際の中島義道が解説する哲学の話を聞くと、期待はずれで去ってゆく」

のだそうです。


 なぜ、そんなことになってしまうのか。


 中島氏は言います。


「そもそも哲学というのは、ロマンチックでも感動的でもなく、地味でつまらなく、そしてどこまで言っても正解のないものである」


そして、


「だいたいアプローチの仕方から、テーマに至るまで、すべてにおいて明らかになっていないのだから哲学なのであって、明らかになっている部分は科学であるから、つまりはわけのわからないものの大海に放り込まれるようなものなのだ」

と。さらには、


「 そんな意味不明でワケワカメな世界において、それぞれの哲学者はそれぞれの考え方をまとめてきたのだけれど、その誰もがスパッとズバッと解決するような答えを出していないから、あなたが悩みを現在抱えているわけで、結局はあんたの哲学的悩みは、あなた自身が答えを創造しなくてはいけないのだ」


と言うわけです。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 さて、当ブログをチェックしている方は、すぐに「あれ?これって武庫川散歩がいつも言っていることと、いっしょだよな」と気づくことでしょう。


 哲学ということばを解脱に置き換えれば、中島氏の言葉と武庫川の言葉がまったく同一であることは自明です。


 武庫川散歩は言います。


「解脱というのは、何か神秘的な体験をしたり、ズッキューんとなったり、ビビビとなったりする体験ではなく、極めて論理的で科学的なものである」

「解脱に神秘体験を希望するものは、何か薬物でも摂取してできれば合法・適法にラリったほうが早い」

「解脱というのは、この世界が存在しない、ということに気づくことである。この世界のすべての人が今ここに存在しているのに、それを否定するというとんでもない一人ぼっちな概念である」


等々。


 さて、武庫川散歩は結局、キリスト教の神を否定し、仏教の仏を乗り越え、ITとプログラミングの世界にツッコミを入れながら、最終的には、


「サイバーパンク解脱」


に到達したわけですが、 実は中島義道氏も、その領域に到達なさっていることをご自身で述べておられます。


 では、中島氏にとっての「哲学」とは何だったのか。記事の最後にご自分で説明を書いておられるので引用してみましょう。


「死は言葉なのだ!!」


  これですよ!これ。死は言葉。言葉なんです!


 ・・・奇しくも、聖書には「神はロゴスである」という言葉があり、武庫川散歩が、


「この世界は記号だ!!」


と言っているように、この3つは根源的に同一なのです。


『はじめに言葉があり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった』


  これはヨハネによる福音書の一節ですが、キリスト教ではこの言葉(ロゴス)をイエス・キリストのことだと曲解していますが、原典のラテン語では

「ロゴス」は論理・言葉

を指し示します。



 世界はプログラムであり、論理構成であり、文字である。そう説明すれば、武庫川散歩の悟りになります。

 死は文字であり、言葉であり、論理的な概念である。そう説明すれば、 中島義道の哲学になります。

 その論理と言葉と物事の成り立ちそのものを神だととらえれば、それは宗教となるわけです。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 中島氏の場合は、「死は言葉である」という直観に打たれました。武庫川散歩が「この世は記号なんだ!」という意識に打たれたのと、まったく同じです。


 中島氏は、死は言葉である=記号・ラベルであり実体ではないから、それをいかに解釈するかでその中身は変えられるのではないか、と考えました。

 武庫川は、世界は記号である=実体は存在しないプログラムのようなものなので、何も恐れる必要はないし、本来は無常である。と考えました。


 なので、武庫川は、おそらく中島氏が講義する哲学の歴史についてはべつにどうでもいいとして、彼が探している哲学の中身には、たいへんに共感します。


 このブログで、宗教の歴史を列記したり、解説したりしたのは、単なる宗教史学に過ぎませんが、その悟りの中心は、けして孤独なものではないのかもしれません。







2015年8月3日月曜日

帰ってきた勝手に人生相談シリーズ スペシャル その7 「勝手に中島義道と議論する」 ~稀代の哲学者と稀代の解脱者が勝手にバトル!~

 夏真っ盛り。

 今日も熱中症で熱中時代なみなさん、おはこんばんちは。あなたの血圧をそっとアップさせる解脱者武庫川散歩のヨタ話の時間がやってきましたよ。


 わたくしは、いつも 東洋経済オンライン さんに連載されている中島義道センセイのネタをたのしくほがらかに拝読しているのですが、 今日は、


 勝手に人生相談シリーズ、スペシャル!


と称して、勝手に中島センセイとの議論を楽しんでしまおう!という神回をお届けしようと思います。


 この勝手に人生相談シリーズは、ネットに転がるさまざまな人生相談や悩みに対して、頼まれてもいないし、誰もみていないのに勝手に考えて勝手に答える、というどう考えてもまともじゃないコーナーなのですが、それなりに愛読者がいるようなので、わたくしの勝手な判断でだらだらと続いております。


~~~~~~~~~~

 さて、今回の相談者、というか別に相談なさっているわけではないのですが、中島先生が勝手に何かお書きになっているので、わたくしも勝手に回答しようと考えております(笑)


 元ネタはこちら


 東洋経済オンラインより 「哲学者のほとんどが、はなはだしく独善的だ」の巻
   http://toyokeizai.net/articles/-/78531



 中島センセイの愚痴?はカンタンにまとめればこんなことです。


「たとえば、絵画を教えるといったことは、決まったルールがあったり、基礎基本的に体系が作り上げられたものがあるので、具体的に説明したり、修正したり、手助けすることができる」


しかし、


「哲学というのは、 なぜそうなのか、ということを説明しがたく、あるいは、一見論理的に説明できたとしても、それの正誤をきちんと判定したりすることが大変に難しい。」


そして、


「で、結局哲学者の意見の交換は、独善的で自分の感情に寄ったものになってしまい、明確な結論が出たり、答えにたどり着いたりしない。」


のだそうです。


 というわけで、哲学の議論たるものは、結局は感情的なものになり、誰も自分の説を曲げないし、むしろ哲学者が全身全霊をかけてその説について考え抜いているのであれば、いっそうそれに反する結果など求めず突っ走るのである、とのこと。



~~~~~~~~~~~

 とまあ、こういう話を読めば読むほど、わたくしなんぞは、


「なあんだ、哲学者ってやっぱり当初の予想通り、ひねくれモノで頑固な変なおっさんに過ぎないのだ」


ということを確信するわけですが(爆笑)、哲学を知らない者から見たファーストインプレッションと、哲学を究めた中島センセイの結論がおんなじなのだとすれば、こんなに


可笑しい


ことはない!わっはっは。


~~~~~~~~~~

 さて、中島センセイと議論したいことがあるとすれば、わたくしは結局次のようなことしか残されていないのではないか、と考えます。


哲学が、それぞれの哲学者や探求者によって多様な独善的解釈が可能となり、かつそれらの矛盾を突き合わせて、何がしかの真理真実を見つけることは難しい、というのが結論なのだとすれば、


 「いったい全体なぜそんなはめになってしまうのか」ということを考えるのもまた、哲学の哲学なので面白いわけで。(入れ子構造になってますがね)


武庫川散歩的には、これは結局「哲学が生のありようというものをテーマにしている」から生じる問題点なのだと思われます。


 そう!哲学っていうのは、「なぜなにどうしてわたしは生きているの?私の生きていることと、あの子が生きていることはどう違うの?おんなじなのだったらどうしてあの子とわたしは合体してないの?」という生に対する探求なわけなので、


そりゃ、多様な生に対する考え方が生まれても仕方あるまい、ってわけですよ。


~~~~~~~~~~

 だとすれば、万人に共通する共通項を探り出せば、面白いことになるのではないかしら。武庫川散歩は、哲学の新たなる根源は、


「死」


にこそあれ、と思うのです。


 これは奇しくも中島センセイのテーマと結局合致するのだけれど、多様な哲学もクソもねえよ、命あるものはみんな必ず死んじまうんだよ、ちくしょー!ということこそが、すべての哲学に連なる根源に思えて仕方ありません。



 哲学だろうが、なんだろうが、構築されたものは、電源が落ちれば消えるのです。人類が哲学という資産をたくさん持っているように思えるけれど、太陽が寿命尽きれば、全部パーです。



 だとすれば、東洋哲学と仏教が言うところの、「無常」観(実はやっぱり何にもないのよ)こそが、いちばん面白そうだと武庫川散歩はやっぱり思います。



~~~~~~~~~~

 こうなると、感情的もクソもありません。どうせ死ぬんだもの。そっちの説が正しかろうが、こっちの説が正しかろうが、すべてかりそめの


「気分」


みたいなものに過ぎません。


 いいんじゃなーい。別に。どうせ死ぬんだしー。


ということが根底にあればこそ、 自説に固執してそれを戦わせることに意味があるとは思えなくなるのです。






 いいいですか?もし法が存在せず、ここに銃が存在すると想像してみてください。

 あなたの隣には、何がしかの哲学を大いに語っているおっさんか若造かがいるわけです。そして、口の端からつばを飛ばしながら、

「これこれこうだ!こうあるべきだ!」

と語っているとしましょう。

その説が正しいか、その説が正しくないかなんてどうでもよいのです。

あなたが一発の銃弾を彼に打ち込むだけで、そんな哲学は消えうせる。一瞬のうちに。その哲学が存在していたかどうかなんて、どうでもよくなるのです。


彼はもう、その説を考えることなんてできないのだから。

なんなら、あなたが自分に向けてもう一発発射すれば、そこに哲学はありません。

静寂だけが残るのみ。彼が発した哲学の説を、覚えているものすら、存在しないのです。

それで果たして、「とある哲学がたしかに世界に存在した」と誰が言えるでしょう。

そんなものは、あってもなくても、どうでもよいのかもしれません。死の前には無力ですとも!







 

2015年5月30日土曜日

ついに中島義道が本音を語りだした! なかなかに興味深い”哲学塾からこんにちは”最新話!

 東洋経済オンラインでの、われらが中島義道の連載が、面白いことになっているので、またまたまた紹介したのですが、いいでしょうか。

 

 「極東の国民にとって西洋哲学とは何か」
  http://toyokeizai.net/articles/-/70907



 この連載、「哲学塾からこんにちは」という毎度毎度の「中島センセイが好き勝手言うシリーズ」の最新話なのですが、よくよく読んで見ると、


 あえての逆ギレ


状態の中島センセイを見ることができて、大変に楽しいったらありゃしない。


 さあ、中島センセイに何が起こっているのでしょうか?!


 なんと言っても稀代の哲学者ですから、わざとわけがわからないように小難しく書いておられますが、おっしゃりたいことはとってもカンタンなので、解説つきで勝手にお届けしようと思います。


==========

 まず、しょっぱなのところ。東洋経済オンラインの連載を読んで、「哲学塾カント」なる中島センセイの私塾に入塾希望者がやってくるので、彼らに、


 ガツン!


とかましておこうというのが、センセイの意図だと思われます。


 おまいら、哲学をなめんじゃねえぞ、コラ!


と。


 これが一体どういうことかといえば、そもそも「哲学というのは自分の生き方やありようについて考える」行為ですから、




「これがワシじゃあああ!」とか「これが命なんじゃああ!!」とか「これがセカイなんじゃああ!!!」



という発見は、人それぞれ好き勝手千差万別であろう、ということは誰にでもわかりますね。


 ということは、哲学をするということは、すなわち「好き勝手する」ということでもあるので、中島センセイの「哲学塾カント」というところは


中島義道が好き勝手するところ


だということになります。





 しかし、それではあまりに不親切であり、中島義道の好き勝手に対して、何か「あらぬ誤解や期待をしてやってくる人がいたら、それはかわいそうなので」いちおう、中島センセイとしては


ワシの好き勝手なルールは、こんな手法です。


と今回の記事であらかじめ宣言してくれているわけです。


 つまり、「あんたらが勝手に思い描いているようなルールで哲学したり、哲学塾カントに来ることによって、哲学的な何かひらめきやズッキュンな体験が得られるわけでは、まったくない」ということを最初に宣言しているわけですね。


 じゃあ、中島センセイの言うところの「好き勝手なルール」というのはどういうことか。それは、


「ワシの方法論は、言語理性論理のカタマリである、バリバリの西洋哲学をじわじわとネチネチと、それはもうぬったりべったりやるけど、それでもいいやつだけ来い!」


ということで、


「それ以外の淡い期待を抱いているやつは、お前が勝手に好きにすればいい!」


ということをつまりはおっしゃりたいわけです。純粋哲学をなめるな、と。



 そういうわけで、だいたい概ね「神様ってふわふわしていて、どこかお空にいるんだよね」とか、「すべてのものには魂が宿ってるんでしょ」とか、「幸せってなんだろうね」とか、そういういかにも東洋的なお花畑な哲学観念はどうでもいいのじゃ!そうじゃなくて、純粋な


 西洋哲学とは何かについて、そもそもおまいら何にもわかっちゃいねえ!


ということを怒号とともに語っておられる、というわけ(笑)



==========

 じゃあ、中島センセイは何をもって哲学だというのか。

 キリスト教と対峙した武庫川散歩がかみくだいていうなれば、それはもうヨハネ福音書のしょっぱなである

「はじめに言葉があり、言葉は神であった」

というアレですよ、あれ。ロゴスと神と存在の話です。

 その基本中の基本からゴリゴリやるで!ということです。


 中島センセイの話の中で「サルトルは神になりたかったみたい」という部分が出てきますが、あれまあ武庫川散歩少年も、実はそうだったのですよ。


 私は、神と対峙することで、神と同等になろうとした、いや神を乗り越えたかったのです。あのとき(うふふ)


 そのあたりは、私の哲学では、ロゴス=論理であり、ギリシア哲学で言うところの「発せられた言葉」というのはつまりプログラミングされて存在するプログラムそのものであり、言葉と文字の違いは


「プログラムされた論理は、(たとえプログラムされたという受身でないとしても)、ROMに書き込まれようが、電源が入らないままであろうが、論理構成として思い浮かんだ(たとえ人や神の主体によって思い描かず、勝手に生まれたとしても)時点でたしかにそこに存在する」

という話になるわけで。

(ああ、なんのことを言ってるのかさっぱりわからんだろうなあ)


↑まあ、このあたりは一般人は気にしないでください。理解したい人は弟子に立候補すべし。









2014年8月13日水曜日

【勝手に人生相談 その4】 「嫌われる勇気」アドラーとガチンコバトル! その1

 最近、中島義道さんネタと「嫌われる勇気」アドラーネタで当ブログに迷い込む人が多いので、それならその状況を楽しんでしまおうと、常に前向きな武庫川散歩です。


 というわけで、今回から”帰ってきた勝手に人生相談シリーズ”を大展開!

 
 解脱者、武庫川散歩ならではの、歌って踊れる楽しい人生相談を勝手に繰り広げたいと思います。


 うひひひ。ネタは山ほどあるので、しばらく試しにやってみよう。


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 第一回はもちろん、本家大人気企画「アドラー流お悩み相談室」(ダイヤモンドオンラインさん)から、勝手にお悩み相談に加わりたいと思います。



 元ネタはこちら
 http://diamond.jp/articles/-/53715



 Q 店長をしていますが、アルバイトがタメ口で話してきてイライラします。人手が少なく、注意して辞められても困るし、ふて腐れても困ります。どうしたらいいですか?



 A あなたが辞めるか、ふて腐ればいいと思います。




 ズバリ解決してしまったので、ちょっとばかり補足を。


 詳しくは元ネタを読んでから戻ってきてほしいのですが、アドラーさんの解決法は、


「年下のタメ口野郎のことは気にするな。人間はもともと平等なんだ。おまえが上だという設定がそもそもおかしいんだ。タメ口は彼の問題であって、おまえの問題じゃねえ」


ということです。なるほど、一理ある。




 簡単に言えば、アドラー心理学は「相手を変えるんじゃない、お前が変わるべきなんだ」ということですから、なので自己啓発でよく使われるんですね。



 しかし、相談者は本当にアドラーさんのアドバイスで納得できるのでしょうか?


 こんなちっぽけな悩みでいちいちイライラするようなちんけな男ですから、アドラーさんが何を言おうが、結局わかっていないと思います。


 本当に目にもの見せるのは、これからです。



 アドラーを越える男、武庫川散歩がお届けする強烈解決法!




① 辞めたらすべての悩みが解決する。


 上下関係が気になるんだったら、自分が辞めてアルバイトとか初任者に戻ればいいと思います。あなたの身分と状況が合致しますので、迷う必要がありません。

 給料が下がる?そんなの知ったことではありません。それはあなたの問題であって、私の問題ではない、とアドラーさんも言ってます。 





② ふて腐れたらいい。


 イライラする主体を、あなたからそのバイト野郎に一瞬で移動させることができる魔法のテクニック、それがこのワザです。

 それこそアドラーさんの言うところの、「あなたの問題を、相手の問題に切り替える」という超大技です。

 どうせイライラしているのですから、それを顔に出しても全然OKです。


 バイト君に、嫌われる勇気です。



 アドラー師匠は、甘いっ!


 元ネタでは、『バイト君はあなたと親しい関係を築きたいと思っているかもしれないよ?』なんてオブラートに包んだ言い方をしていますが、


 それはキミの問題であって、ボクの問題ではない!のです。



 俺は親しくしたくない!誰とも!そう、孤独でストイックな男なんだ!


と主張してみましょう。





 しかし、思い出してください。この世は存在しないRPGのようなものだというのが武庫川散歩の悟りです。

 すべてはゲームなのです。すべては演技です。このセカイを楽しむことです。



 バイト君に振り回されるのではなく、あなたがセカイを振り回してみてください。




 そして、「ふふ。こうやってふて腐れてみたら、ヤツはどんな反応をするかな?それを判断するのも、上司の務めだぜ」とニヤリと笑う余裕を忘れないように。


 そこまでできてはじめて、あなたは管理職として一歩大人になれるのですから。



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 ちなみに、真面目なアドバイスをするならば、


 毎日店の裏口に出て、携帯電話を片手に


「てめえ、誰に向かってもの言ってんだ。なめてんじゃねえぞ。はあ?お前俺を誰だと思ってるんだばかやろう!」


と口汚く誰かをののしればいいと思います。そして、笑顔で店内に戻りましょう。


 バイト君への愚痴も放出できるし、「裏の顔がある上司」だと思われれば自然に相手は敬語になってゆきます。






 私が勤めている会社に荷物を届けに来るI君というドライバーは、いつもふにゃふにゃしていて、


「どぶもずみばぜん。いづもあぎがとうごだいばず」


というかなり変わった口調のオドオドした男なのですが、実はトラックにのりこむとグラサンを装着し、


「てめえらなめてんじゃねえぞ!そこどけ!ばかやろう!」


と猛スピードで車をぶっ飛ばすという性癖の持ち主です。




 そのあぶないキャラのおかげで、一目置かれています。あいつはヤバイ、と。


 なので、わたしも彼には丁寧に接するようにしています。


 もしかしたら刺されるかもしれないので。