2017年2月13日月曜日
【勝手に人生相談シリーズ 18】 清水富美加さんの出家についてどう思いますか?
今年は例年になく雪深く、北の国からの再放送を見ながら、テンションが下がっている武庫川散歩です。
巨匠、倉本某さんには大変申し訳ないのだけれど、北海道に住んでいた武庫川としては、
あのドラマの何がよいのかさっぱりわかりません
田舎かぶれの離婚したおっさんのこども二人が、次々に異性をとっかえひっかえしては、孕ませたり殴られたりするドラマのどこが感動的なのか、いまいちピンとこないのです。
田舎でグレたら、ああなるよ、という戒めなら意味があるのですが。
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さて、その北海道時代から慣れ親しんできた武庫川のマイカーをいよいよ買い換えることになりました。
雪の大地を走破してきた愛車で、もう20年近く乗っているので、これはもう潮時です。手放すことになったわけですが、
愛欲と因縁渦巻く、通称「イタ車」
であります。
この車のどこがイタいかというと、不肖なる武庫川がこれまでにお付き合いしてきた女子が、全員この車の助手席に乗ったことがあるという
なにかしらの怨念のエキスが染み込んだ車
だったので、愛染明王もびっくり!という因縁あるマイカーだったわけです。
結婚した前の嫁はん、不倫相手、元カノ、肉体関係はないけれど武庫川に関わった女子、新しい嫁はん、そしてわが娘!
数え上げるのも恐ろしい女子たちの生霊が乗り移った牛車のようなものですから、盛大なる供養が必要かもしれません。
さらば、わが愛欲の日々よ!!!
(個人の感想です)
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さて、そんな武庫川の助手席に座ったことがある、○み○ちゃんによく似た清水富美加さんが、どうも出家騒動を起こしているようで、タイムリーなんだか。
○み○ちゃんも、すでに私とは別れ、3回位結婚したり離婚したりを繰り返していますが、幸せですか?
はじめてテレビで清水富美加さんを見たときに、嫁と二人で、「○み○ちゃんに似てるね」と盛り上がったら、にらまれて瞬時に盛り下がった記憶があります。
ええ、清水さん、嫌いじゃないです。
というわけで、毎度おなじみ「勝手に人生相談シリーズ」で取り上げることにしましょう。
Q「解脱者さんは、清水富美加さんをどう思いますか?」
A「元カノに似てるなあ、と思っていました」
Q「解脱者さんは、清水富美加さんの出家について、どう思いますか?」
A「家出なら、泊めてあげるのにと思います」
・・・。
・・・・。
・・・・・・。
はい。真面目にやります。
解脱者武庫川は、幸福の科学の信者や関係者でもないし、ましては清水富美加さんの知り合いでも、元カレでもないので、今回の事態についてとやかく言う権利はないのですが、基本スタンスとしては
「好きにしはったらええんとちゃいますか」
と思っています。
大川隆法さんがどうとか、幸福の科学がどうとかは、諸行無常のワタクシからすればどうでもよいことであり、ましてや清水さんが自分の意思でその宗教へ入信し出家する、というのであれば誰にも止めることはできますまい。
ああ、もしたった一人だけその権利を有する人物がいるとすれば、それは富美加の彼氏だけでありましょう!
「富美加!行かないでくれ!俺の元へとどまってくれ!」
と言えるのは、かつ言っていいのは、どう考えても彼氏だけです。
さて、世間では、女優という仕事をしていた彼女に対して、
「責任があるのにほったらかしにしていいのだろうか」
とか
「違約金はどうなるの」
とか
「事務所とのことは?」
とか、いろんな疑問が渦巻いていますが、私から言わせてもらうならば、それらをすべて全否定しながら
「それでも私はすべてを捨てて出家します!」
というのがある意味宗教そのものの姿であるなあ、と思うのであります。
文字通り、すべてをかなぐり捨てられる気概や気合というものは、原理主義的な宗教に身を置いたものでなくては理解できないかもしれません。
私はエホバの証人時代も、原理主義者だったので、この傾向は肌でわかります。そもそも、すべてを捨てるところへ気持ちは行ってしまってるので、この世界に残してきた責任やらしがらみやらは、もはやどうでもよいのです。
それが、原理主義的な宗教への依拠の恐ろしいところでもあります。
ちなみに、清水さんの芸能事務所も、あの揉めに揉めている能年さんとおなじ事務所らしいので、そっちの事務所のほうが、真の
出家メーカー
なのではないか?という説も(苦笑)
宗教にハマる人の責任論で言えば、
騙すヤツが悪いとか、騙されるヤツが悪いとか、ガチャガチャ言うな。本人の責任である!
と武庫川は喝破します。親が信者で、本人は2世だから責任は親にあるとか、真実を騙して入信させるほうが悪いとか、いろんな意見がありそうですが、武庫川からズバッと言わせてもらうならば、
よしんばその宗教が本物であるというのであれば、本人が”神によって選ばれる”という最大限の幸福を受益し、それは「他者には分けてやらんもんね」という種類の独占性を帯びているのであるから、もし騙されているとしてもそれを見抜かなかった本人の責任である!
と断言できる類のものでありましょう。
もっと簡単に言えば、宗教を「自分だけが信じる」ということは、自分だけが助かろうという意識が根底にあるのだから、その結果騙されたとしても自業自得であるということなのです。
その意味では、宗教とは
「自分は救われるのか、救われないのか」
を賭けた一世一代の大博打以外の何ものでもありません。
武庫川はそのバクチを打ったのです。その昔、確かに。そして、賭けに負けたのではなく、
「こいつはトバクだな。じゃあ、俺は降りるわ」
と勝手に黙って賭場を去ったのです。
幸いなことに、宗教には「降りる」というチャンスもあります。清水さんにだって、まだまだ色々なチャンスが残っています。それを伝達するのは、周囲に出来る限られた手助けなのかもしれません。
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