2017年10月27日金曜日
「私の方が不幸だ!」という人が、変わるとき。
警察官クビになってからブログ、というブログが人気のようで、たまーに拝読するのですが、
「私の方が不幸だ!」と言う人が多い
http://www.keikubi.com/entry/2017/10/27/%E3%80%8C%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%8C%E4%B8%8D%E5%B9%B8%E3%81%A0%EF%BC%81%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%86%E4%BA%BA%E3%81%8C%E5%A4%9A%E3%81%84
というエントリーが気になったので取り上げみました。
このブログを書いておられる方は、その人生において
「けっこう不幸、と思われる歩み」
を経験しておられるのですが、それに対して
「自分のほうが不幸だ」「あなたはまだマシだ」
と言ってくる人が多いよね、というのが骨子です。
で、彼はそのことについては、そのまま肯定も否定もあまりせず、
「不幸だと思う人は、ブログに書くといいと思う」
とさらっと新しい提案をなさっています。うん、まあいいと思う。
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さて、この話をぼんやり見ながら、「不幸」についていろいろとこれまた気になっている点をちょっとだけまとめてみたいのです。
なぜかと言うと、上のブログの方も少しだけ触れているのですが、
「私のほうが不幸だ」
という比較も、世間では良くあるし
「世の中にはもっと不幸な人もいるんだ」
という外野からの投げかけもよくあります。
でも、それらについて「不幸自慢」「不幸比較」「不幸判定」をするのは不毛だし、おそらくエンドレスで際限がありません。
むしろそもそも、「不幸である度合い」「不幸度数」は主観によるので、客観的に判定することはできないのです。
だから、それを比較したり、不幸であることについて誰かと誰かが議論したりすることは、ほとんど意味がないのですが、武庫川の経験則から考えると、ちょっと気になる事象があるのです。
もちろん、「個人の感想です」レベルですから、万人に当てはまるわけではないかもしれませんが、まあ、お読みください。お暇なら。
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「私の方が不幸だ」と常々感じているAさんという人がいるとしましょう。
その人が、たとえば、他者の不幸なエピソードを見聞きしたり、他者が不幸であることを認識したりしたとします。
その時、外野から(要するに友達や知り合いから)「ほら、あんなに不幸な人がいるんだから、あなたはマシよ」と言われたとしても、Aさんは
「その人も不幸かもしれないが、私は不幸だ」
と思っていたら、このAさんはこれまで通り鬱々とした人生を過ごします。
この時、興味深いことに、仮に比較された他者のほうがはるかに不幸で、Aさんもそのことを自覚して、
「その人のほうが不幸かもしれないが、私も不幸だ」
と感じたら、他者のほうが不幸でも、Aさんはこれまで通り鬱々とした人生を過ごすのです。
ところが、ここから不可思議な現象が起きます。
Aさんが自分より不幸な他者を見聞きした際、
「その人は不幸かもしれないが、私は幸せかもしれない」
と感じたら、Aさんは生き方が大きく変化するのです。なんていうか、そう!前向きに、ポジティブに人生を捉えるように変化します。
もちろん、そう感じただけで周囲の状況は何も変わりませんから、すぐにAさんが幸せになるかどうかは別なのですが、それでも
Aさんは幸せな方向へ向かって歩みはじめる
ことが多いのです。
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以上のような「不幸だ」という人の変化は、あくまでもムコガワの経験則で話していますから、全員がそうとは言いません。
しかし、
「人は自分より下(不幸)な人を見て生きる」
とか
「人は自分より不幸な者を見て安心する」
とか、そういった単純な図式ではなさそうです。
どうも、そっちではなく、確かにそこには「不幸の比較」がきっかけとなって存在し、かつ「自分より下(不幸)な者や現象を認識する」ことがスタートなんだけれど、ポイントはそこではなく、
「人は、自分が幸せであると知った時に、開眼する(変化する)」
とも言える展開がある、ということなのです。
なので、不幸である人に対して、どれだけその人より不幸な他者を見せたり、不幸な事例を示しても、彼が
「自分が幸せである」
と実感できないならば、他者の不幸がどれほどえげつないものでも無意味なんですね。
逆にどんな些細なことでも、
「あ、ボクは幸せかもしれない」
とか
「ああ、あたしは実は幸せなんだ」
と思えた瞬間に、鬱々とした人生から晴れ晴れとした人生へと舵が大きく変化する、ということなのです。
そして、ちょっとこれはゲスいですが、このきっかけというのは
「あ、ボクはあの人よりも幸せかもしれない」
でも
「ああ、あたしはあの人より実は幸せなんだ」
でもOKなんですね。
そういう意味では人は優劣をつけたがり、自分の地位について比較もするし、マウントし合う弱い生き物です。
でも、ポイントは不幸の下争いではなく、「そのことで自分が幸せであることに気付く」ことがミソだったというわけです。
なので、自分が幸せだと認識できない場合は、残念ながら最期までそのまま行きます。
鬱々とした人生
が待っています。
けれど、「あ、ちょっと自分幸せかも」と思える人は、それがどんな些細なことやエピソードであっても、それを感じられれば
人生、意外にいい感じになるかも
しれません。
2017年9月29日金曜日
自分が不幸だと思っている人は、永遠に不幸である。 ~幸せとはなにか~
これまで、公私共にいろんな人たちと接してきたり、あるいは家族や親族を含めて多くの「人生」とやらを見てきましたが、ムコガワの人生そのものが後半にさしかかっていることもあって、ある程度
見えてきた
ことがあります。
それは
「幸せに生きるとはどういうことか」
という問題なのですが、人が標準的なノーマルの状態から「幸せな方向へ進む」ためにはどうしたらいいのか、ということは意外に難しいと思います。
それは、ベタな言い方に変換すれば
「より金銭的に余裕を持つには」
「よりよいポジションになるには」
「よりよき人とめぐり合うには」
などのように、ノーマルの状態から「よい」ものを入手したり、その状態へ近づくことになり、 ぶっちゃけて言えば、
そういう幸せを手に入れる法則やマニュアルは存在しない
ということになってしまうからです。
さて、仏教的な幸せというのは、これまた一般的にもよく理解されるほど言い尽くされていて、その考え方で言うと
標準的なノーマルの状態をそのまま肯定する
という手法をとります。
つまり、仏教や東洋哲学的な幸せは、「ある状態から幸せな状態に推移するのではなく、そのままの状態でよしとする」という認知の問題だということなのですね。
だから、実際には、標準状態から幸せな状態へ移動せず、何も変わっていないのに
「それを幸せと捉える」
ことによって、幸福感を感じるというわけで、これはある種の「信じ込み」とも言えます。
しかし、一方で、どれだけ要素としての「よいもの」を手に入れても、それが幸福感につながるとは限りません。
「お金もある、立場もある、結婚し、子供もいる。なんでも満たされているけれど、不幸だと感じる」
そういう人はたくさんいます。
これらのことから、「幸福とは、状態の遷移なのではなく、単なる捉え方や感じ取り方だ」と考える説もあるわけです。
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そうなると、スピリチュアル系とか、いわゆる人生論的な言い回しで
「自分の置かれている状況を(とりあえず)幸せだと思うことで、すなわち幸せになれる」
という言説を取るものも多く出てきています。
具体的には
「幸せだと鏡に向かって毎日言えば幸せになれる」
みたいな、現状はどうであれ無理やり幸せを唱えるといいのだ的な考え方がそれに当たるでしょう。
ムコガワは、そういう「無理に思い込む系」の幸せは、なんだかな~、あやしいなあ~とつい思ってしまうタチなので、あんまりお勧めはしません。
なぜかと言うと、「口でなんぼ幸せだと言ってても、心がそれを認知認識していなければ、乖離する一方で、メンタルがやられるだけ」だからです。
このブログでも何度か書いている「正しいと思われることがゆらぐ『正義のゆらぎ』を引き起こす」のは、よくない事だと思うのです。
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さて、一方
「自分は不幸である」
と捉えている人は、なかなか幸せにはなれません。
私の周囲の人々の生き方をまとめてみると、総じて
「自分は不幸だと考える人は、永遠に死ぬまで不幸」
なのではないか、とまで言いたくなります。
なぜそうなるのかは簡単で、不幸であるということは、本人は常に「幸せな状態へ移行したい、遷移したい」と思っているからです。
自分の状態は、「標準的なノーマルの状態よりも下である。よって自分は不幸である」とまず考えます。
具体的には
「自分は彼よりも持っていない」
とか
「自分は彼よりも体験していない」
とか
「自分は彼よりも不利益な状態にある」
とか、そういうふうに考えるということです。
すると、不幸を唱える人から見ると、「標準的な状態とはこうであるはずだ」とか「これが私のあるべき位置だ」と考えている基準点は、自分にはなく常に他人の側にあることになるので、もし、あるときそのポジションに到達したとしても、また他人の側にある新しい基準が欲しくなるということになります。
そうならないためには、自分で基準点を定めなくてはなりません。
しかし、その時
「とりあえず人並みの暮らしができていて、普通の生活で、それなりの人間関係で」
というように、自分では普通の基準を持っているつもりでも、実はそれは
「統計などによって、明確に設定されたものではなく、感覚的なもの」
でしかありません。
だから不幸であると捉える人は、
「絶対に叶わない状態」
を常に切望することになりかねません。絶対に叶わないから、永遠に不幸は続くのです。
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たとえば、私の両親は昔某宗教に入っていて、それもあって離婚したり家族がバラバラになったりしましたが、
「自分の人生がうまくいかないのは、家庭に問題があったせいだ」
とか
「自分の人生がダメなのは、宗教のせいだ」
とか、そんなことを私が思ったとしましょう。そして、本当にその通りで、そのためにわたしが
「標準よりも下(不幸サイド)」
に立場が置かれているとしましょう。
はい。いまここで設定された「標準状態」というのは
「両親が揃っていて、宗教などに振り回されない家族像」
ですよね?うちの場合はそれを満たしていないので、私が「ノーマルより下だ」と考えても、全く問題ないでしょう。
しかし、大問題なのはここからです。これらの状態は、取り戻すことができません。永遠に。
だから、もし私が両親のことや過去の宗教のことを不幸だと捉え続けるならば、永遠に幸せにはなれないことになります。
これをもっと具体的に言い換えてみます。
ある時、事故に逢って両足を失った人がいるとします。
あなたはその人のことを「彼は永遠に幸せになれないだろう」と考えるでしょうか?
あるいは、私が彼に
「彼は永遠に幸せになれないだろう」
と言ったら、あなたはどんな風に感じるでしょうか。
おそらくとても反発して、なんという失礼なことを言うやつだと立腹するのではないでしょうか?
足がないことは、幸せと直接関わるわけではない。
足がなくても幸せにはなれるはずだ。
足については残念かもしれないが、幸せに至る道は他にたくさんある!
と誰もが考えるし、実際その通りです。
そう。つまり、両親が離婚していようが、宗教に毒されていようが、足がなかろうが、基本的には
「それらは幸せとはなんの関係もないこと」
なのです。ただ一点、そのマイナス状態であることを自分自身がずっと呪い続けなければ、という条件はつきますが。
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本人がそうすれば、彼は「永遠に不幸のまま」であり、本人がそうしなければ「幸せは他にもたくさんある」ということは、一体どういうことなのでしょう。
もしかすると、
「何かがある、持っている」
ということも
「何かがない、持っていない」
ということも超越した先に幸せはあるのかもしれません。
このことに気付いたものは、真っ先に幸せになれるのです。
その気付きは、人によって異なります。
ブッダは、「今あることに満足すればそれで幸せ」と捉えたし、イエスは「持っていないもののほうが、幸せ」だと捉えました。
もちろん世間には「もっているから自分は幸せ」と捉える人もいます。それも実はOKです。
「自分が不幸である、と思っている人は、実は自分で自分は不幸なのだという呪いをかけている」
のです。 それは自分でかけた呪いなので強力です。
他者にはたちうちできないかもしれません。
その呪いを解くのも自分自身です。
2017年7月19日水曜日
人生で大切なたった一つのルール ~これだけ覚えておけば、幸せに生きていける~
久しぶりの更新ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今年も、これから猛暑を迎えそうですが、大きな災害があったり、無差別の殺人があったり、この世はどうかしてますね。
そんな俗世のあれこれは、とりあえず脇へ置いておいて、解脱者ムコガワは、またひとつ悟ってしまったので、そんなとりとめのないお話を。
もはやムコガワが新たな悟りを開くのは、ルパン三世の石川五右衛門のごとくおなじみのルーチンと化しております。
また、つまらぬことを悟ってしまった・・・・・・。
なーんて。
==========
さて、人生において、人が覚えておくべきたった一つのルールというか、教えというのは、とてもシンプルなものであることに気付きました。
これだけ覚えておけば、人はかならず幸せになれるであろう、という簡単な取り決めです。
私は解脱者なので、本当は世界なんてありゃしないと思っているし、ましてやそこにルールや取り決めなんて不要だと考えているのですが、それでも
この世界ととりあえず折り合いをつけて生きていかなけりゃならない
わけで、そのために一つだけルールを考えたのですね。
さあ、ではその簡単なルールをお伝えしましょう。
『 人は、正しい行いや良いことをするために生きている。
ただし
その正しいことや良いことは、ころころ変わる 』
とても簡単です。人が生きている理由は、「正しいことやよいことを行うため」。めっちゃわかりやすい。
しかし、気をつけてください。その「正しいことやよいことはコロコロ変わる」のです。瞬時にして。
時として、ひどい場合には「正しいこと」が真反対になってしまったりもします。
さっきまでこれが正しいと思っていたのに、真逆になることだってあるのです。
だから、それをそのまま、しっかり覚えておいてくださいね。
==========
何を言っているか全然わからない、という方も多いことでしょう。なのでやさしく説明してみましょう。
「一生懸命働くのはよいこと」ですが、「体が壊れるまで長時間働くのは、よいこと」ではなくなります。
だとすれば、あなたが「よいこと」と思ってしている労働はある瞬間から「よいことではない」ところっと変化します。
「勉強するのはよいこと」ですが、「勉強だけの価値観が育ってしまうとよいことではなくなり」ます。
「誰かを愛する」のはよいことですが、「相手が拒絶すればストーカーになってしまう」ことだってあります。
そう。あなたの生きる目的や進むべき進路は、たしかに「よいことや良い行い、正しいことをするため」であることは間違いないのですが、
その良いことや正しい内容は、ふとした瞬間にころっと変わる
のです。
ですから、「正しいと思うことに固執すると、それは正しくなくなる」のです。
だから、あなたが生きるための指針はとてもシンプルです。「良くあろうとすべし、ただし、その良いという内容は変化する」というわけです。
では、ここで、逆の発想についても書いておきますね。良いことや正しいことがコロコロ変わる、ちょっとあやふやなものなのだとしたら、それなら
「最初から悪いことをしようとしたり、悪事を行ったらどうなるの?」
と思うかもしれません。
実は、良いことや正しいことは、その真の意味がころころ変わるのですが、悪いことのほうは
「それをチョイスする時点で、あなたの人生の価値はそこで終わる」
と言ってもよいくらい、重い出来事になるでしょう。
そう!悪いことをあえてチョイスする場合は、そこであなたの価値が失われるのです。
「働くことを放棄してさぼってやろう」「勉強なんてしないでいいや」「あいつを憎んでやる」
・・・・・・こうした悪事や悪いことを主体的に選択した時、あなたの心は価値を失います。
すごく不思議なことですが、悪いことはいいことには変化しにくいのです。
「働かない、だから結果的に健康だ」ということは、あまり成り立ちません。
「働くけれど、無理せず健康に働こう」は成り立ちます。
「勉強しないぜ」という人は、結果的に賢くはなりません。
「あいつを殺してやる」と思っている人は、結果論として幸せにはなれそうにありませんよね。
これが、善と悪の不思議なところです。善悪や正しいことと間違っていることは、正確な対構造とはなっていないのです。
正しいことが実は間違いになったり、良いことが悪くなったりする。それがこの世界。でも、
悪いことや間違ったことがよくなったりはしない。それがこの世界なのです。
なので、生きることは大変だったり、つらかったりするわけです。
(だって、良い方向へ努力しても、悪くなってしまうことがあり、悪いことは最初から最後まで悪いのだとすれば
人生は悪い方向へいく確率のほうが、基本的には多いというか高いというか、転落率のほうが高いので、人生はしんどい
のですね。
それでも、人は「よくあろうとする、正しいことを求めようとする」ことを追求したがるし、それを求めるほうが幸せです。
ただし、そのことだけに固執すると、またそこに悪への転落が待ち構えているという、難易度の高いゲームなのです。
人生は新幹線ゲームに似ているかもしれません。
先へ進むことはよいことです。ゴールもあったり、見えていたりします。でも、先へ進むと穴へ落ちるようにできているわけです(苦笑)
しかし、最初から穴へ落ちるつもりだと、落ちるしかないという!だから「人生の目的は悪」であってはいけないのです。
新幹線ゲーム、好きでした。↓flashで再現されています。
http://www.dagage.com/flashgame/shinkansen2/shinkansen2.html
2014年3月12日水曜日
<日常>悟りを開くためのヒント
どうも、セカイの片隅でアホが叫んでいる武庫川散歩です。
最近、当ブログに「悟りを開くためのヒント」のキーワードでやって来られる方が増えているようなので、今流行のSEO対策として、いっぱい散りばめてみます。
基本的に「悟りを開くという」ことは、これまで我々が認知していた世界観が大きく変わる、もしくはひっくり返る、ということに他なりません。
平たく言えば、天動説から地動説を発見するようなもので、コペルニクスが気付いたように
「やっべ!天が廻ってるんじゃなくて、俺が廻ってんじゃん!」
ということも、ある種の「悟り」への一歩だと思います。
仏教における「悟り」とは、すでに長い歴史の中で「神秘主義」「神秘体験」のように誤解をされていますが、これまた平たく言えば、ブッダは
「やっべ!人生って常に移り変わってんじゃん!」(無常)
と気付いてしまっただけに他なりません。
それを宗教的に言えば「輪廻転生」「諸行無常」であり、科学的に言えば「質量保存の法則」「エントロピーの法則」でもあるわけです。
ブッダの時代は、この世界や宇宙の成り立ちについて、人類自身が知っていること・発見していることが少なかったので、「結果として、このセカイは移り変わる」ということはわかりましたが、「なぜ、そうなのか」というところはとても説明するに至りませんでした。
そのため、ブッダは、「セカイがなぜ無常なのか」については、バラモン教の神々がいて、その神々たちがそうしている、という旧来の理屈から脱出することができなかったとも言えます。
ところが、21世紀に入った今、人類はこのセカイについて発見したことがたくさんあります。ということは、現代における「悟り」は、発見されたそれらの科学的事実や、現象と合致したものでなくてはなりません。
なので、本当は悟りを開く一番の近道は、「勉強しろ」ということなのかもしれません(苦笑)
==========
ところが、現代において「悟り」を欲しがる人たちは、残念ながら「物理科学について勉強する」ことが「悟りにつながる」なんて思いもしません。
それどころか、「悟り」や「覚醒」は、それらとは正反対の位置にある「なにかズバーンでバキューンな凄いもの」「それだけで、何かとんでもないパワーを得るようなもの」だと勘違いしているのです。
もし、万が一、悟りを開いて覚醒するとサイヤ人みたいになれる、と思っているとすれば、完全にアホです。
もっとも、「悟り」を得ようとする人の中には、もう少しまともで、このセカイのいろいろな「ややこしいこと」「煩わしいこと」から逃れたくてそれを求める人もいるでしょう。
それなら今すぐ着の身着のまま家族も仕事も放り出して、盗んだバイクで走り出せばいいのです。
警察につかまっても、「ちゅどーん!ピュー!パフパフ」と叫んでいればよろしい。
・・・・・・まあ、そこまでアブナイ人にならなくても、嵐寛寿郎のように、「家も財産も全部、前の嫁はんに渡して、新しい女と体一つで駆け落ちする」ぐらいは良いのではないでしょうか。
==========
現代における「真の悟り」というのは、けして宗教的・神秘的な観念であってはなりません。全ての科学事象と、あるいは全てのセカイで起きている現象と、その悟りが合致している必要があります。
そういう意味では、私の言うところの「サイバーパンク解脱」つまり「セカイは存在しないかもしれない症候群」は、この宇宙の成り立ちと合致しているか、と問われれば実はそれを証明できる方法が存在しません。
なので、私自身は「セカイは存在しない」という仮説は、「悟りを得るための、とっかかり」くらいにしか考えていないのです。
そこからスタートして、何がどうなって最終的な「悟り」へ至るのかは、当ブログでぼちぼち書いている途中なのですが、興味がある人だけ引き続きご愛読くださいませ。
==========
で、せっかく「悟りを開くためのヒント」と題したわけなので、ヒントを挙げておきます。
① この世界や宇宙がどうやってできたのかを、自分で考えてください。
② 神様はいるのか、いないのかを自分で考えてください。
③ 生命が生きることと、生命が死ぬことの意味や役割を考えてください。
・・・・・・しっかし、ざっくり言えば悟りを開くなんて、とっても簡単なことです。その本質は、
俺はおまえのことなんてどうでもいい。
俺のことだってどうでもいい。
もー、なんか、全部どうでもいい。
芋食って屁こいて寝る。(涅槃)
ということなんですから(苦笑)
最近、当ブログに「悟りを開くためのヒント」のキーワードでやって来られる方が増えているようなので、今流行のSEO対策として、いっぱい散りばめてみます。
基本的に「悟りを開くという」ことは、これまで我々が認知していた世界観が大きく変わる、もしくはひっくり返る、ということに他なりません。
平たく言えば、天動説から地動説を発見するようなもので、コペルニクスが気付いたように
「やっべ!天が廻ってるんじゃなくて、俺が廻ってんじゃん!」
ということも、ある種の「悟り」への一歩だと思います。
仏教における「悟り」とは、すでに長い歴史の中で「神秘主義」「神秘体験」のように誤解をされていますが、これまた平たく言えば、ブッダは
「やっべ!人生って常に移り変わってんじゃん!」(無常)
と気付いてしまっただけに他なりません。
それを宗教的に言えば「輪廻転生」「諸行無常」であり、科学的に言えば「質量保存の法則」「エントロピーの法則」でもあるわけです。
ブッダの時代は、この世界や宇宙の成り立ちについて、人類自身が知っていること・発見していることが少なかったので、「結果として、このセカイは移り変わる」ということはわかりましたが、「なぜ、そうなのか」というところはとても説明するに至りませんでした。
そのため、ブッダは、「セカイがなぜ無常なのか」については、バラモン教の神々がいて、その神々たちがそうしている、という旧来の理屈から脱出することができなかったとも言えます。
ところが、21世紀に入った今、人類はこのセカイについて発見したことがたくさんあります。ということは、現代における「悟り」は、発見されたそれらの科学的事実や、現象と合致したものでなくてはなりません。
なので、本当は悟りを開く一番の近道は、「勉強しろ」ということなのかもしれません(苦笑)
==========
ところが、現代において「悟り」を欲しがる人たちは、残念ながら「物理科学について勉強する」ことが「悟りにつながる」なんて思いもしません。
それどころか、「悟り」や「覚醒」は、それらとは正反対の位置にある「なにかズバーンでバキューンな凄いもの」「それだけで、何かとんでもないパワーを得るようなもの」だと勘違いしているのです。
もし、万が一、悟りを開いて覚醒するとサイヤ人みたいになれる、と思っているとすれば、完全にアホです。
もっとも、「悟り」を得ようとする人の中には、もう少しまともで、このセカイのいろいろな「ややこしいこと」「煩わしいこと」から逃れたくてそれを求める人もいるでしょう。
それなら今すぐ着の身着のまま家族も仕事も放り出して、盗んだバイクで走り出せばいいのです。
警察につかまっても、「ちゅどーん!ピュー!パフパフ」と叫んでいればよろしい。
・・・・・・まあ、そこまでアブナイ人にならなくても、嵐寛寿郎のように、「家も財産も全部、前の嫁はんに渡して、新しい女と体一つで駆け落ちする」ぐらいは良いのではないでしょうか。
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現代における「真の悟り」というのは、けして宗教的・神秘的な観念であってはなりません。全ての科学事象と、あるいは全てのセカイで起きている現象と、その悟りが合致している必要があります。
そういう意味では、私の言うところの「サイバーパンク解脱」つまり「セカイは存在しないかもしれない症候群」は、この宇宙の成り立ちと合致しているか、と問われれば実はそれを証明できる方法が存在しません。
なので、私自身は「セカイは存在しない」という仮説は、「悟りを得るための、とっかかり」くらいにしか考えていないのです。
そこからスタートして、何がどうなって最終的な「悟り」へ至るのかは、当ブログでぼちぼち書いている途中なのですが、興味がある人だけ引き続きご愛読くださいませ。
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で、せっかく「悟りを開くためのヒント」と題したわけなので、ヒントを挙げておきます。
① この世界や宇宙がどうやってできたのかを、自分で考えてください。
② 神様はいるのか、いないのかを自分で考えてください。
③ 生命が生きることと、生命が死ぬことの意味や役割を考えてください。
・・・・・・しっかし、ざっくり言えば悟りを開くなんて、とっても簡単なことです。その本質は、
俺はおまえのことなんてどうでもいい。
俺のことだってどうでもいい。
もー、なんか、全部どうでもいい。
芋食って屁こいて寝る。(涅槃)
ということなんですから(苦笑)
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