2018年8月3日金曜日

日大問題とボクシングの闇 ~組織のトップは、なぜ非常識なのか~




 日大アメフト部の非常識なプレイが問題となり、それが日大という組織そのもののスタンス、姿勢であったことが問題となったと思ったら、今度は、


「アマチュアボクシング界の闇」


が浮き彫りにされて、こちらもリアル・ネット問わず炎上しているようです。



 こうした問題を井戸端的な視点で言えば



「これだからスポーツ界は、脳が筋肉に支配されている」


とか


「体育会系のヤバイ側面だ」


とか、そういう言説が出てくるのでしょうが、 解脱者ムコガワの視点は、ややそれとは違ったところにあります。



 というのも、筋肉界に限らず、つい先日文部科学省で汚職があったように、つまりは



「組織の偉い人、にまつわる問題点」



がたくさん噴出していることがあるので、これは



「偉くなるとはどういうことか」



という目線で考えたほうがよいと思うわけです。




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 さて、「権力を持つ」「偉くなる」とは、いったいどういうことなのでしょうか。


 日大という組織に君臨したり、あるいはアマチュアボクシング界の頂点に至り、はたまたスーパートップではなくても、文部科学省でそれなりの地位・立場に登るとは、どんな利点があると言うのでしょう。



 「偉くなる」ことの利点、意味合いとしては、次のようなものが挙げられます。



■ お金がたくさんもらえる

■ 組織の上で、自分より下の立場のものが増える

■ 地位や肩書きがあり、外部から評価の高いラベルで見てもらえる



 一般庶民から見ると、「偉くなるってどういうこと?」と考えると、まずは上のようなことが思い浮かぶと思います。これは、わかりやすいベタなところです。




 もう少し、重たい部分を見てゆくと


■ お金を動かす権限、人を動かす権限、プロジェクトを動かす権限が増える

■  すでにあるルールを改正する権限が生まれる



といった側面が挙げられることでしょう。



 このあたりから、徐々に「偉くなること」の本質が見えてきます。



 権限があり、ルールをいじることができるということは、すなわち



「俺様がルールだ」


と言うことができる領域が、偉くなるに従って増えるということです。



 たとえば、企業であれば、社員の誰もが反対するどこかの企業と合併する決断を、偉くなったものが「俺様ルール」で実行することだってできます。


 あるいは、「自分がトップに立ったら、この制度を絶対改革してやる」ということだって実行できます。


 つまりは、「偉くなればなるほど、自分の好き勝手にできる領域が増える」ということでもあるのです。






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 逆に言えば、「立場上偉くなっても、権限もルール作りも、ほとんど自分では決められない」ということであれば、多少給料やもらえるお金が多くなったとしても、


「そういう立場には魅力がない」



と言えるでしょう。つまり、人は「好き勝手するために偉くなりたい」と考えているふしがあるのですね。





 さて、日本大学の理事長や、ボクシング協会の会長が、基本的には



「自分は悪くないし、なぜちょっとぐらいルールの逸脱や変更があったくらいでとやかく言われなくてはならないのか」



と心の底から思っている理由は、簡単です。



「そういうことが許される立場、それが理事長や会長職に上り詰めた人間のごほうびである」



と信じているし、むしろ「それを求めて、偉くなったのだ」と考えているからです。




「自分が目をかけてやった人間を取り立てて何が悪いのか」


「自分がこれを優遇しようと考えた施策をなぜ権限がないものにとやかく言われるのか」


「誰に何を任せ、あるいは任せず直接采配するのかを決める権限こそ、トップにあるのだ」



 すべてが万事、「ルールを創る側の人間・俺様がルールだ」のスタンスを取るものと、そのルールに支配されるものの話はかみ合わないわけです。





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 別に頂点に立たなくても、それぞれの立場で「偉くなる」とその立場において「ルールを一部変更する権限」は与えられるようになります。


 学校などでは、「警報が出たから今日は休校・注意報では授業あり」というルールがある場合でも、「局所的にうちの地域だけ天候上の問題が予想されるので、注意報レベルだが休校にする」などのように、校長ならではの「ルールの変更」が可能です。


 そうした判断は、少なくとも他の校長は文句をいいません。それだけの権限があるからです。


 あるいは高等学校などでは、「どの臨時教諭を採用するか」は校長の独断で決めることができるところもあります。


 すると、恣意的に「自分の気に入った人間だけを採用する」ということは可能だし、それが「校長の個人的好意に由来するのか、公平なる選考の結果なのか」は誰にもわからないということが起きます。


(これが表沙汰になったのが、某医大の女子差別ですね。告発や外部調査がなければ、こうしたことは外からは見えないのが普通です)




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 そうすると、「そのルールの変更・あるいはルールの創設が客観的に見て妥当か、あるいは個人的な主観に偏っているか」を判定することは、



 その偉くなった人物の性格や素養



によって決まってしまう、ということがわかるでしょう。




 簡単に言えば、「常識的な人物は俺様ルールで運用しても常識的な新ルールができるだけ」ですが、


「非常識な人物が俺様ルールを運用すると非常識な新ルールが出来上がる」


 ということです。



 そして、そういう人物がトップにならないように、国会や公共団体の政治においては「客観的、公平性がまだあると考えられている選挙など」を用いて、非常識な人物がトップに立たないように調整が効きますが、



「私的企業や、内輪の閉じた組織においては、別に公平な選挙が取り入れられる必要もなく、たいていは力関係で、上位下位が決まってゆく」



ため、結果として「俺様」が大量に生産されてしまうわけです。





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 ところが、こうした「偉くなる」こと像は、田中角栄が失脚したあたりから、現代にかけて実はかなり変容し始めています。


 それはやはり情報社会になって「俺様」たちが社会通念上の「常識」に照らし合わせて、



「さすがにこれは逸脱するとおかしいぞ」



ということで、内外から寝首をかかれるようになってきたからです。




 現代に向かえば向かうほど、「偉くなることは、相応の社会的責任を伴う」ようになってきたわけですね。




 これは、ある意味では良い傾向でもありますが、別の意味では



「偉くなることに、美味しさ・役得部分が少なくなる社会」


に変わってきたということでもあります。



 となると、偉い人は「俺さまルールで好き勝手もできず、美味しい思いも少なくなり、何かあったら責任だけ取らされる立場」ということが増えます。


 だとしたら、「多少の給料アップでは割りに合わない」ということが起き、こうしたことが若い人が管理職を希望しないことへと繋がっているわけです。



 つまり、偉くなることの魅力は、今も昔も「おいしい思いができる」ということにあったわけで、「おいしい思いができないなら、魅力は無い」ということだったのです。



 こうした事情で、日本社会は急速に「組織というものが崩壊」してゆくでしょう。



 「偉い」という概念が、急速に不確かで怪しいものへと変化してゆくのです。



 その証拠に「末は博士か大臣か」という言葉が昔はありましたが、現在では「博士号をとっても食べていけないし、大臣になってもどうせ失言でやめるんでしょ」というイメージになってしまっているわけで、まさに何もおいしいところはないということなんですね。




 鎌倉時代から室町時代にかけて「ご恩と奉公」(おいしい思いをさせてくれるなら、組織人として全うしてやるよ)が崩壊していったように、これから日本は戦国時代を迎えると思われます。



 弱きものやかつての部下たちが反旗を翻すのは、まさに下克上のはじまりかもしれません。








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