2018年7月26日木曜日

相模原障害者殺人事件を解脱者が読み解くとどうなるのか




 日本の言論、思想界に毎度毎度強烈な問いかけを投げかける「創」出版から、相模原障害者殺人事件の植松聖被告の手記を含んだ書物が刊行されたことが話題になっています。


 いつもながら雑誌「創」の篠田博之編集長は、ある種のこの社会への使命感を持って切れ味の鋭い取り組みをしておられると思いますが、一般的には


「犯罪者の言い分を出版する人」


としか思われていないかもしれません。




 まあ、解脱者はことの良し悪し、正義不正義については評価しないので、いろんな事件に対する世論もあれば、またアンチテーゼとしての「創」や篠田さんのスタンスも、あってもよいのではないか、とは思っています。



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 さて、今回「開けられたパンドラの箱」というタイトルで、植松被告の文章が載った書籍が出てきたわけですが、それについていろいろ思うところを書いておきましょう。



 テーマがテーマだけに、今日もギャグはありません。




相模原障害者殺人事件 植松聖被告の手記とマンガを出版した編集者が語る“オウム真理教との共通点”(AERA.dot)
https://dot.asahi.com/dot/2018072600003.html 


 
 の記事が、篠田氏のことばなども載っていて、興味深いです。





 ちなみに、解脱者ムコガワの相模原障害者殺人事件へのスタンスは、すでに当ブログで2回ほど表明していますので、あわせてお読みください。



 
相模原大量障害者施設殺人事件について 〜解脱者が考える正義とは何か〜
https://satori-awake.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html 




障害者はなぜ生きている”べき”か。
https://satori-awake.blogspot.com/2016/09/blog-post.html 





 さて、AERAさんの記事に戻ります。


 
  解脱者が注目するのは、篠田さんの言うところの、次の観点です。



”植松被告の犯罪は、印象としてはオウム事件に似ています。犯罪を犯した当事者の意識は、主観的には社会改造なんですね。



 この、「本人は正義の執行を行っており、社会改造、社会変革を促そうとしている」という視点は、もはや多くの人たちが




わからない、わかりたくないから見てみぬふり




をしていることが多い、現代人の弱さそのものを現しているような気がします。



 最近起きている事件には、ストーカーしかり、Hagex事件しかり、あるいはオウムも相模原も、あるいは宇都宮で起きた元自衛官の爆破事件なんかもそうですが、



「ある種の、Aという人物の中で確固たる正義があって、その正義の執行のために外部から見ると犯罪である殺傷が生じる」



という典型的パターンが生まれているわけです。



 ところが、そのAの正義の内容は、その他大勢には理解しにくかったり、あるいは「理解するのが怖かったりして」拒絶を起こしてしまい、結果として




Aが死刑になったらいいんだ



という言論だけで終了させてしまうことになっているのが、現代なんですね。



 しかし、それで一般人は、「ああ、Aが死刑になって排除された」と安心しますが、社会構造やAが生まれる背景がまったく検証されてないものだから、つぎつぎにポストAが生まれてきては、同じことを繰り返すのです。



 このあたりの現代の「マズさ・取り回しの下手さ」を篠田さんも、ある意味見抜いていて、



■ 日本だけでなく世界で蔓延している排除の思想が、植松被告にも影響を与えている


■ 被告本人を極刑にするだけで解決する問題ではない



と述べておられますが、まさにその通りなのですね。

 


 解脱者の個人的考えでは、正義を疑わないこと、正義に固執することこそ悪だ、と思っているので、ムコガワはなんぼ教祖になっても、



世界改造・社会改造



なんてするつもりは全くありませんが、できることであればブッダがこの世界は無常であって、形があってないようなものだと説いたように、




「正義など、あってないようなものだ」「正義の本質は無常だ」




ということを、常にこうしてブログで書きまくる以外にはありません。



 世の中の人の中で、むくむくと入道雲のように膨らみつつある



「独善的な正義」「自分の目線からだけの正義」



の広がりには、悲しみを覚えるほどです。それでは第二第三のAや植松被告が、今日午後からでも日本のどこかに登場するだけなのですから。





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 そうした独善的な正義や自我が蔓延する理由は、基本的には現代人が

 
「自分は何者か」

 
「自分はどこから来てどこへ行くのか」

 
という、根源的なアイデンティティを見失っているからに他なりません。


 
 たとえば、封建社会の頃は、「身分」や「家柄」から生じるアイデンティティの上に、自分の生き様が乗っていました。


 明治大正から戦前は、それに「国家」「天皇」を中心とした「大日本帝国民」としてのアイデンティティも加味されました。


 昭和に入ると、「会社」に属するもの、あるいは「経済的豊かさ」をベースにした「豊かな生活」が心の基盤をも支えました。



 そして、現代。金銭的にも、思想的にも、今の現代人を支える基盤が、見当たらないので、それぞれは苦悩しながら



「己の正義をゆがんだ形で見つけ出してゆく」



ことになるわけです。



 お国のため、と言っていれば正義だった時代。


 がむしゃらに働くことが正義だった時代。


 マイホームやマイカーで満たされることが正義だった時代。


 ラブ&ピースが正義だった時代。




 そうしたわかりやすい正義を見失うと、私達は「どのように生きるのが正しいのか」を模索せねばならなくなったわけです。




 そこへ、ある種の「バランスを欠いた言説」が入り込むと、人は簡単に自分だけの正義を構築してしまうのかもしれません。(ヘイトスピーチなどもそうですね)






 武庫川は正義なんかはないのだ!と説きますが、その変わりに、




「この世界がどうなっているのか」


「どうして自分が存在しているのか」


「自分はどこへ行くのか」



などは、すべて明快に教えることができます。それを知りたい人がいれば、誰にでも分け隔てなくお伝えするでしょう。



 

 



 


 




1 件のコメント:

  1. ヒトラーユーゲントは被害者であり、国民突撃隊は無罪であり事実上被害者。

    「ナチスのやつらはみんな悪いんだ」というのはヒトラーユーゲントなどの少年兵も敵視することで、つまり虐待を受け傷つき死んでいった子どもを犯罪者扱いし敵視することだ。

    少年兵は猛獣でも凶器でも大量破壊兵器でもない。

    ヒトラーユーゲントだった人がローマ法王や国連事務総長になったり、その任期中に暗殺されなかったから今のようなおかしな世界になったんじゃない。
    もし今日までそういうことがなかったら、人類は1999年以前に滅亡していた。

    ナチスドイツの国防軍の2等兵と1等兵は無罪だ。

    ナチスドイツの国防軍の下士官は犯罪者ではあったがヒトラーでも暴君でもない。

    ムッソリーニは独裁者ではあったが暴君ではない。

    ファシストイタリア軍も降伏した日に5千人もナチスドイツ軍に虐殺された。

    ファシストイタリア軍は無罪だ。

    特攻隊と鉄血勤皇隊は被害者だ。

    「ナチスのもの」と「ナチスっぽいもの」は違うし「ファシストイタリアのもの」とも違う。もちろん「それっぽいもの」とも違う。

    「大事なのは差別をしないこと」ではあるが「差別大国のものや、それっぽいものを根絶することではない」

    「ナチスアレルギー」は病気ではありませんが「右翼アレルギー」や「保守アレルギー」は病気だ。

    「自分のせいじゃない」というこが一番危険なのではなく「弱い者のせいにすること」が一番危険なのだ。

    相模原市障害者施設殺傷事件のような事件が二度と起きて欲しくないのなら、風化して欲しくないなら、もっとひどい事件が起きて欲しくないのなら、この事実を伝えてください。

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