まいどおなじみ天下の解脱者、ムコガワ散歩です。
俗世の年号が「令和」と決まったそうで。その意味付けが良いのか悪いのかは、当方解脱しているので、べつにどっちゃでもよいのですが、
「令嬢」
といえば、良い家の娘
となるので、令和が「良い+平和」という意味なのは、理解できなくはありません。
そもそも「令」とは 、かみさまのお告げの意味があります。
◆ 神のお告げなので、良いものに決まっている
そして
◆ 神のお告げなので、絶対服従
となるわけですね。
めずらしく真面目なスタートですが、なんと言っても、ムコガワは、世をしのぶ仮の姿では、ピチピチの女子高生に国語を教えていたこともあり、一応は専門家の切れ端です。
で、国語つながりもあって、今日は「人工知能とセカイ」についてお話します。
やほーで、こんな特集記事がありました。
人工知能は小説家の夢を見るか――AIと「創造力」を考える
https://news.yahoo.co.jp/feature/1073もう、タイトルからSF好きなら誰でもわかる、あの名作です。
「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」
フィリップ・K・ディックのもはや古典的名作、ブレードランナーですな。
武庫川さんも、ご多分に漏れず、この↑ネタを使っています。
サイバーパンク的ゴッドは電気羊の夢をみるか
https://satori-awake.blogspot.com/2014/01/blog-post_30.html
2014年の記事ですから、もう5年も前ですね。
さて、人工知能とAI、そしてこのセカイのお話。元ネタの記事では
◆ 俳句をAIに作らせる話
が出てきます。このことは、国語を教えていた武庫川さんもずいぶん前から考えていて、作らせるだけではなく、
「50の17乗」で、すべての俳句を印刷して出版した場合、これまでに発表された句や川柳以外の著作権をすべて奪える
ということを本気でやろうとしたことがあります。倫理的にはしらんけど。
実はこんなもんは人工知能でもなんでもなく、単なる順列組み合わせですから、
無能でもこのセカイのすべての俳句や川柳は生成できる
ということを意味します。
単なる数列で生成した俳句や川柳に著作権があるか。ということは、そこに人間の創作性があるかどうかで現在は著作物の定義として判定されるわけですが、実際には
創作性なんかなくても俳句は生成できる
わけで、そうなると
「創作性なんて実は存在しないのではないか?」
とか、
「そもそも著作権の概念すら怪しいのではないか?」
とか、あらたな哲学的議論が沸き起こります。ああ、沸き起こしたい!
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さて、解脱者武庫川が最初の解脱に到達したのは、大学生のときでしたが、その解脱に多大なる影響を与えたのが、アラン・チューリング先生でした。もちろん記事にも登場します。
すべてのコンピュータの父であり、そして、すべての人工知能の父と呼べる人ですね。
”チューリングは「知性とは計算の延長線上にある」と考えた”
という点が記事では着目されて、 そこから人工知能の存在へとつながってゆくわけですが、チューリングが考えたのはそんな甘っちょろいことではありません。
哲学的思考におけるアラン・チューリングの視点というのは、知性が計算できるどころか
「このセカイの事象は、すべて一本の紙テープに書き表せるはずだ」
と考えました。(当時はコンピュータの入出力は紙テープだったので)
俳句の50の17乗がものすごい数であるために、実際にはそれを出力するのは難儀するのですが、物理的には不可能ではありません。
とすれば、すなわち無尽蔵なハードディスクや、記録装置さえあれば、このセカイで起こっているすべてをデータとして書き表すことは、不可能ではないわけです。
そしてさらにチューリング先生のすごいところは、その紙テープには、過去だけでなく、現在も、そして未来も計算できる、としたのです。
ほんまかどうかは知りません。少なくとも、私が大学の講義を受けたときは、担当教員が、そういうふうに
「チューリングの意図を拡大説明」
したことは確かです。
ええ、ビビビ!ときたろう。
きちゃいましたね。大学生の武庫川くんは、ビビビときたのです。
そいつはすげえや、てやんでい!と。
元の記事にも少し出てきますが、「チェスは知性か、そこには創造性があるか」という議論が生まれます。
人工知能によって、計算によってチェスが出来るなら、そこに知性や創造性はないことになります。
あるいはすべての俳句を出力するのもそうです。そこに知性や創造性はないことになります。
それと似ている話で、たしかに飛躍はするものの、
「すべての過去・現在・未来が計算できるのであれば、このセカイは唯一無二に存在している何かではなく、もしかすると一本の紙テープに書き込まれた記号と同一かもしれない」
というのが武庫川の解脱なのです。
つまり、セカイは存在しないかもしれない。
チューリングが「人間の思考は有限である」と考えたように、私は、この世界は永遠に開いているのではなく、もしかすると記号の羅列には、はしっこ、最後があるかもしれない、と考えています。
そこがまさしく
SEKAI NO OWARI
なんちゃって。
え?人工知能はどこへいったって?
人工知能も、人間の知能も、そんなに変わらないただの計算可能機械なだけよ。
<参考文献>
この世界は存在しない
https://satori-awake.blogspot.com/2014/02/blog-post_25.html
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