2020年1月17日金曜日
リベラルは常に矛盾する ~男性優位社会は、そうなるように進化したのか~
まいどおなじみ、セカイと人間の在り方について考えに考える武庫川散歩のお時間です。
今日はまあ、「ついにそこに言及するのか!」というおっそろしい記事をネットでみかけたので、それを紹介しながら、このセカイのありようについて考察をめぐらそうと思っています。
その記事とは、こちら
リベラル社会が直面する「少子化」のジレンマ
https://president.jp/articles/-/32248
(プレジデントオンライン)
しかし、本題に入る前に、現在の日本では「リベラル」という言葉の定義が、諸事情であやふやになっているので、いちおうある程度のしばり・くくりを持って、「リベラル」の言葉を規定しておきたいと思います。
■ リベラルとは自由主義を示す。
■ リベラルは、個人の自由や多様性を重視する
■ 他人に危害を加えない限りは、ほぼ何をしてもいい。(なので、外国におけるリベラリストは、麻薬もOKと考える人たちもいる)
■ 個人の自由は侵害されるべきではない。
など
こうした傾向・思想に対して、日本の政治の場で使われる「リベラル」は本来の意味とは外れている場合が多く、注意が必要です。
また、このリベラルに関して、「ポリコレ」という言葉も近年ではよく使われるようになってきました。
ポリティカル・コレクトネス
の略で、 性別・宗教・民族などによる差別や偏見がおきないように、あえて「中立的、公正なことば」を使おうとする行動のことを言います。
私達が古い時代をイメージするような「封建的社会」とか「因習による社会」とか「民族、部族的社会」が旧来の主義・思想だったとするならば、自由主義やリベラルは、そうしたものの反対側に位置する考え方だといえるでしょう。
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さて、基本的に先進国と呼ばれるような社会においては、社会や世界は「リベラル」な方向へ向かうように進化・進歩すると思われてきました。
当然先に先進国となった欧米でもそうだし、後から追いかけている日本でも、基本的にはこの傾向にあります。
■ 人々は仕事の奴隷となるのではなく、家庭生活とのバランスにおいて、もっと自由であるべきだ
とか
■ 男性と女性は、いろいろな面で平等であるべきで、性によって差異があってはならない
とか
■ 自分も自由であるから、他人も自由であるべきである。
といった志向や考え方は、十分日本でも浸透してきています。
ところが、ここ10年ほどの間、西欧社会は急速に「リベラルであるがゆえの矛盾」に、苦しめられるようになってきました。
その一番わかりやすい例が、欧米各国における移民難民問題で、
「人はもちろん当然、それぞれの文化や宗教について、自由であるべきだ」
と口で言っていた西欧社会は、
「実際に文化や宗教や民族が異なる人たちが大量に押し寄せると、多様性に対応できない」
ことがはっきりしてきたわけです。
そうしたことが高じて、イギリスがEUを離脱したり、トランプ大統領が、アメリカ第一主義を打ち出したり、
「自分たちのことが最優先で、他国のことはわが国内において、あるいは国際関係においても、許容しない」
という姿勢が、西欧社会全体で急速に広がることになったわけですね。
なあんだ、結局西欧人も
「鎖国が大好きで、自分たちの国民や民族以外は排除したくなるものなのだ!」
「自分たちに理解できる文化や慣習・宗教は受け止めるけれど、そうでないものは受け入れたくないのだ!」
ということが、バレてきてしまい、リベラルの意味がガラガラと崩れはじめてきた、というのが現在の情勢です。
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とまあ、ここまでなら、異国どうしの問題として、さもありなんといった感じです。日本はもともと鎖国文化を理解できる国ですから、
「鎖国もメリットあったよね」
とさらりとこの話を理解できるというものです。
ところが、この記事の根幹は、こうした「国家間の問題」とは少し内容が違うのです。
それはもっと個人の生き方に関わるもので、
「個人の自由を追求すると、子孫の繁栄よりも、自分の生活の幸せ・自由をもとめて、人はこどもを作らなくなる。結婚もしなくなる」
ということに気付いてしまった!という話です。 そして、この問題を男性・女性の性差問題に絡めて考えると
「女性が社会進出し、自己決定が増え、自由が増えると、次の世代が続かず、生産人口が維持できない」
ということが、見えてきた、というわけです。
この話を書くと、すぐ勘違いする読み手が出てきて、
「こどもは政府のために作っているわけではないし、国のために結婚や出産をするわけではない!」
という反論がたくさん出てくることは、疑いありません。もちろん、その考え方そのものがリベラルです。
しかし、この記事に書いてあるのは、これまでもメディアでさんざん報道された「お国のため問題」ではなく、もっと冷徹なことなのです。
それは
「生物は、環境に適したものが自然淘汰で生き残ってきたが、もしかすると男尊女卑で、社会に女性を出さない(つまり男性に働かせる)群れが、人類の増加に適していたから、今の私達は増えてきたのではないか」
という仮説が飛び出した!ということがミソなのです。
これはさすがに、誰もそれについては触れていなかった禁断の領域と言ってよいでしょう。
以下、記事をすこし引用します。
”女性が高学歴化し、社会進出し、活躍する――だれもが賞賛してやまない「政治的にただしい」メッセージ性を強く放つ、フィンランドの女性首相や女性閣僚をいくら賞賛しようが、しかしそのような「リベラルな社会」は持続しない。
子どもが生まれないからだ。子どもが生まれない社会では、いかに立派な思想や道徳であっても継承できない。”
これは、恐ろしい預言です。もし本当にそうなったとしたら、男性女性限らず、究極的には
「自分の人生の幸福度を最大にするがゆえに、子供などリスクで負債だ」
ということになってしまうからです。そして、こういう考え方はすでに、たくさんの方が実行していますから、一部ではこれは実現しているわけです。
ですから、そのアンチテーゼとして
”「自分たちに豊かで快適で先進的な暮らしを提供してくれたリベラリズムの思想では、人口が再生産できない」ということに、さすがにほとんどの人が気づき始めたのだ。”
ということもまた、今生じ始めています。
実は以前に私も「男性優位社会ができた理由」について考察したのですが
男性優位社会が出来上がった理由 ~レイプは本能なのか~
https://satori-awake.blogspot.com/2019/01/blog-post_23.html
うっすらと「男性優位社会は、進化の結果そうなったのではないか?」と思ったけれど、さすがにそれを書く勇気はありませんでした。
私の上の記事ではそれこそリベラリズムの平等性にもとづいて
「女性に複製権があるとしたら、男性は力で優位に立つことによって平等性を手に入れたのではないか」
くらいにニュアンスを抑えているわけです。
さて、今までみてきたように、リベラルが矛盾をはらんでいて、その限界が近づいているとしたら、このあと世界はどうなるのか。結論はひとつです。
リベラルを捨てて、保守的で封建主義的な思想に回帰するものが現れる
これに尽きます。
イギリスではまっさきにこれが実現し、欧米各国もそうなりつつあります。日本にも実はその潮流が生まれているのではないか、と思われます。
さあ、未来はいったいどうなるのでしょう。
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