2020年1月8日水曜日
ツイッターやSNSではなぜ議論ができないか その1
新年あけましておめでとうございます。
ビジネス界隈では、今年の年明けは暇です。これは、一部のイケイケ業界を除いて、多くの業界でほぼ共通した認識ではないでしょうか。
ええ、消費税が上がってしまいまして、いろいろ冷え込んでいる、との情報が飛び交っています。
収入があっても所得税で約1割もっていかれて、今度はモノを買ってもまた1割もっていかれるわけですから、あわせて2割です。
モノを右から左へ受け渡すような卸売りなどのビジネスでは、2割も手間賃がありません(利益が2割もない)ことも多いので、せっかくの利益がぶっとんでしまうくらいの衝撃っちゅうことですね。
精進いたします。
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さて、昨年末から今年ぐらいにかけて、ふだんはそんなに書き込むことのないツイッターにいろいろ書き込んでいましたら、たいへん興味深い状況に出くわしました。
細かいことは、無関係な人にとってはどうでもいいことなので、ざっくり説明すると
「ある宗教に属していたが、その宗教はほかの暴力的・金銭収奪的な宗教や団体よりも抜けやすかったり、マシだ」
という意見を提示した際に
■ 「抜けられずに大変な思いをしているのに、抜けやすいなどとは不謹慎だ」
■ 「私はひどい思いをしているのでマシではない」
■ 「そもそも発言者はいつも変なことばかり言っている」
■ 「発言者は女たらしだ」
■ 「発言者は元国語教師なのだったら、話を短くしろ」
みたいなカウンターアタックがわらわらと湧いてきて、
たいへん香ばしい
状況になったわけですね。
(注 発言内容はその通りの引用ではなく、元のニュアンスを保ちながら変えています。そうただし書きを入れておかないと
「わたしはそんなことは書き込んでいない!」
「その発言内容は私に著作権がある!」
「そのことをここに書く許可をとったのか!」
というややこしい人が現れますので。)
そもそもツイッターやSNSが始まってしばらくして、こうしたネット空間は議論には適さないということが判明してきて、過激な言い方をする論客などは
「ネットはバカばかりだから相手にするな」
https://bookmeter.com/books/155226
とか
「ツイッターはアホばかり」
https://dot.asahi.com/dot/2019072300048.html
といった状況分析も生まれています。
悲観的な見方だと、「ネットでは集合知(たくさんの人が意見して、よい方向性が生まれること)はないのではないか」というものまであるようです。
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こうしてここまで書くと、このブログもネットのものですから
「つまり、武庫川はわたしをバカだと言っているのか!」
みたいな被害妄想が生まれるだろうので、そんなことは一切言うつもりはない。と断言しておきます。
ちなみに、宗教体験というのは個人的なものですから、受け止め方は人それぞれです。結局のところは
「私はこうだった。私はこう思う」
に過ぎないのがオチなのかもしれません。
それに対して
「いや、私の場合は違っていた」というのは当然です。わたしとあなたは別人なので。
アドラー心理学で言うところの「それはあなたの問題であって、知らんがな」ということが、 私からあなたに対しても言えるし、あなたから私に対しても言えるのです。
もっとも正確な状況分析は
「宗教から抜けやすいと思うか抜けにくいと思うかは、それぞれの感覚であって、互いのことは知らんがな」
ということなのでしょうね。
解脱に近づくのは、そういう感覚です。ひとつの投げかけられた事象に一喜一憂して、心を乱されたり、感情が爆発したりするのは、俗世の問題点のひとつですから、
「知らんがな」
という気持ちであれば、人は悟りを得られるのかもしれません。知らんけど。
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さて、武庫川の観点は、いつも「この世界はどうなっているのか」というものですから、こうした事態が起きることは大変に面白いのです。
解脱したからには、どっちゃでもいいし、どうでもいいのですが、それでも何が起きているのかを知るのは興味があります。
なぜ、ネット上での意見が噛みあわないか。それについては既にいくつもの先行研究もありますので、引用しながら考えてみましょう。
インターネットは熟議を可能にしたのか
https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2019/01/01/234249
などは良い説明だと思います。
■ ネットでは価値観が同じ人が集まりやすいと思われがちだが、実際はそうではない
→ ツイッターにおなじ宗教に属していた人たちが集まっているので、価値観が共通している部分があると思っていたらそうではない。
→ おなじ宗教に属していた人たちの間でも、議論になると公正なものではなくなる
■ ネットでは議論の前提や目的を壊す問いが次々に生まれる
→ ある集団が暴力団と比べてマシかどうか、という問いを立てても、「暴力団は知らないけれど、自分にとってはとんでもない酷いしうちを受けた憎むべき相手である」といった前提を超えた話がつぎつぎに登場したり、発言者の性格や行動について言及するような話に飛んだりする。
■ ネットでの議論は、独善的な人を生み出すだけで終わってしまう
→ 結果として、「自分で好き放題に言っているだけ」ということが互いに起きてしまい、互いに対して「相手は独善的だ」と感じるのみで終わる。
などなど。
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これらを避けるのに、一番よい方法があって
「個人の感想です」
を全部の記述につけくわえておくのがおすすめ。
だから健康食品のCMには、そもそも「元気で健康である」の感覚が、すべての人に共通しないので、
「すべてはあくまでも個人の感想である。あなたとはたぶん受け止め方が違うかもしれない」
というただし書きをつけて、議論をしないことを宣言してしまうわけですね。
ということで、ツイッターの書き込みや、ブログの書き込みには
※個人の感想です。読者の環境や状況によってはこの記事があてはまらない場合や役に立たない場合があります。
をつけておくとよい、というオチになりそうです(苦笑)
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