2020年1月30日木曜日
リベラル自由主義と新型コロナウイルスは敵対するか
日本を含む世界の国境があやふやになり、グローバル化してゆくことと、そして、自己責任と自由主義が跋扈する「リベラル」社会に移行しつつあることは、ある意味では、すでに自明のことと捉えられています。
しかし、「世界がリベラル化してゆく」 という潮流は、ひとつにはそれは真実の側面があるものの、反面ではそれにブレーキをかけるような
「対立する保守=反リベラル」
の動向もおなじくらいに大きくなってきています。
先日もこの問題について論考をアップして、
リベラルは常に矛盾する
https://satori-awake.blogspot.com/2020/01/blog-post.html
という形で書いたところですが、ここに来ておなじようなリベラルの矛盾を考えさせるような出来事が起こりました。
それが、「新型コロナウイルス」の大流行です。
ふた昔前であれば、仮にこうした新しい病気の発現があったとしても、それが急激に短期間で世界中で広がることは、少なかったように思います。
ところが、グローバル化が進み、誰でも自由に国境を越えられる(国の人たちが増えた)ようになった結果、ウイルスは一箇所で留まることを知らずに
パンデミックを起こす
ようになったわけです。
一般にもよく言われるように、2003年にSARSが流行した時とは、中国人を代表とする
「アジア人の世界を飛び回る物理的量、人数」
が爆裂的に異なる2020年の現在、中国武漢をスタートとして、SARSの時とおなじ規模で収束できるのかは、
もはや誰にもわからない
状況になっているわけです。
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リベラル、自由主義の観点では、本来世界は自由に移動できる社会となり、基本的には
「ある国民、ある人種、ある属性の人たちから自由を奪い、どこかに押し込める」
行動は望ましくありません。
もちろん、しかし、今回のような命に関わる事態が起きれば、
「そんなことは言ってないで、中国政府がやったように、封鎖だ!閉鎖だ!押し込めろ!」
ということが、リベラル主義に反して、結果的には善をもたらすことでしょう。
そして、この時点で、リベラルお得意の「自己矛盾」が噴出すことになるわけです。
コロナウイルスさえ出なければ
「野生動物を食べようが、それは個人や民俗習慣の自由」
ですが、コロナウイルスが出たことによって、
「民俗習慣の自由は制限されるべきだ、それも他国からの要請によって」
といことが生じます。(話はすこしズレますが、日本への捕鯨の非難も似ていますね)
そして、これはすでに生じていますが
「自国民は救われるべきで、日本に連れ戻し、中国人は自分の国にいてこちらへ来ないでもらいたい」
ということが日本人誰もの脳裏に浮かぶようになります。これは反リベラルですが、そう思っても当然という自然な観念だと思われます。
今回は、ウイルスという特殊事情、大変な事態だからそう思ってよい、ということではありません。
きっともし中国で起きたのが内乱で、明日から大量の中国人が「難民として日本にやってくる」のだとしても、日本人の多くは
「日本人は救い出し、中国人は難民としてやって来ないでもらいたい」
と思うことでしょう。これも自然なことで、特段ヘイトな感情ではありません。
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もし、今回の大流行が、中国政府の「封鎖の遅れ」が原因だったと仮定すると、
「すぐさま、何をおいても、疑わしきものも閉じ込めてしまうべきだ」
ということが善で正しかったのか、ということが起きます。
これは、民主主義社会とリベラルな考え方においては、たいへんに恐ろしい矛盾です。
もし、これが正しい行為だとなると
「他者に危害を加える恐れがあるものは、ただちに閉じ込めろ」
ということが善になってしまう優生思想だからです。
各国の政府は、そのギリギリのところで、できる限りの対策をせめぎあっているわけですが、もしこの夏までコロナウイルスが流行する状況がつづくのなら
「オリンピックを強行開催することが善か」
それとも
「オリンピックを自主中止することが善か」
みたいな問題まで起きてくることになるでしょう。
完全に正しい善や正義はありませんが、目の前にそんな大矛盾や大問題が迫ってきた時、日本人はどうなってしまうのでしょうね。
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