2014年2月3日月曜日

<日常>承認欲求なることば

 みなさん、おはこんばんちは。

 誰からも愛されない孤高の聖人、武庫川散歩です。


 今日も、日常的なお話を少々。巷では「承認欲求」なることばが流行しているらしく、


『いいね、を求める現代の若者の病理』

とか

『承認欲求が満たされないメンヘラちゃん』

とか

『承認欲求の発現こそ中二病』


みたいな話がさんざん、あちこちで噂されています。あなたも好きね。


 まあ、このネタを叩いている人もいるし、このネタで盛り上がっている人もいるので、好きにすればいいのですが、一応、武庫川散歩的にも「承認欲求について」まとめておきましょう。


 そもそも、「おまえだってこんなブログを書いているのは、誰かに認められたいからだろ?」なんて言いがかりをつけてくる人がいそうなものですが、私の場合はセカイの片隅でひっそりと絶滅危惧種的にこれを書いていますので、あんまり気にしていません。

 別に認められる必要はないのです。そんなことを求めていては悟りは開けません。ま○こくらいは、がっつり開きますよ。まなこ(眼)です。くわっ!


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 さて、人間は自分を認めるときに、自然勝手に自己を認めることはかなり難しいものです。そこで、手っ取り早いのは、他者から認められることで、自分を認知するという方法がどうしても先行してしまうのでしょう。


 俺はすごい!


とある日突然認識するヤツがいたら、かなり危ないか、友達になりたくないタイプですが、足が速くて、「誰それちゃんはすごいねえ」と褒めてもらったので「ああ、僕はすごいんだ」と思うくらいは全然OKじゃないでしょうか。


 なので、他者に対する承認欲求くらいは生物的にけっこう当たり前に備わっています。


 そもそも赤ちゃんの段階で、


「泣きわめく」 → 「俺に気付け!気付いてくれ!」 → 「乳をすわせてくれ!」 → 「母親が授乳してくれて満足」
 

 というプロセスが必須なんですから、生まれたばかりなのに、くねくねと母親をよじ登ってにこやかな顔で乳房に吸い付く赤ちゃんがいたら、それは妖怪だと思って打ち殺したほうがいいです。

 というわけで、人は基本的に、他者に対して「承認欲求」を持つものなのです。ここにいることを気付いてくれないなら、ごはんが食べられないわけですから、そこはガツガツいきます。



 私も、もちろん承認欲求がありました。で、たぶん中二病的な部分もあっただろうし、特に異性によく思われたいと思ったこともあっただろうし、学業や仕事をする上で、「他者からあいつはすごいな」と思われたくて努力をしたこともあったでしょう。

 まあ、それはそれでそれなりの結果を残したので、モチベーションがあり、努力があり、そして結果につながることは、このセカイにおいては、「まあ、基本的に良きこと」なのではないでしょうか。


 でもまあ、「悟りを開いた」後については、取り立てて誰かに承認してほしいから何かをする、ということがなくなりました。それよりも、生きることや何かをすることは「面白そうだからする」という感覚のほうが近いと思います。

 なので、他者からどう思われようが、最近はあまり気にしません。

 ちょっと加齢臭がしていようが、鼻毛が出ていようが、後頭部がうすら寂しかろうが、全然気にしません!

 解脱は、頭皮から!という言葉もあるくらいです。(さっき、作った)


 冗談はさておき、その物事の本質に直接向き合うことは「楽しい」のです。


 たとえば、仕事上で誰かに理不尽なことで怒鳴られたりしても、「なんでこのおっさん怒ってるんやろ」というところに目が向くと実に面白い。彼がふだん、元請のおっさんにどんな風に怒鳴られているかがわかって同情の余地があります。

 仮に、本当に私が誤っている場合は、純粋に申し訳なく思うだけです。こころより哀悼の意を述べさせていただきます。

 このセカイがそもそも間違っていてロクでもないのですから、少々のことではビクともしませんよ。


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 話をすこし元に戻します。「悟りをひらく」と、他者との関わりではなく、自己とセカイとの関わりにおいてこの世界を認知するようになるので、「承認」そのものにはあまり関心がなくなります。

「みんな!俺をみてくれ!俺ってかっこいいだろう!」

というのが承認欲求だとしたら、

「俺、今何億円も貯金が出来たんだ。うひひ。誰にも言わないけどね、うへへへ」

というのがサトリです。

 自分だけが納得していて、自分だけが楽しくて、性的な意味じゃなくいやらしい世界。それが悟りなのです。

 ああ、そうそう。宝くじが当たった人が、仕事でどんな嫌なことがあっても、「まあ、気にならないわ」と心豊かににこやかになってしまうのと同じです(笑)
 たとえ、どんなに人に認められなくても、自分で笑いが止まらないのと似ています。


 その基準が「お金」なのではなく、「このセカイに対する認識」を持って心がおおらかになっているだけなのです。

 宝くじの場合は、使ってしまえば貧しく元にもどりますが、「悟り」は減りませんので、いつまでも幸せです。

 まあ、わかりやすく下世話な例で説明しましたが、これはブッダもおなじことを体験しているので、そっとしておいてください。


 悟りを開いたブッダは、7日間×3=合計21日間、自分ひとりで「悟りを開いた楽しみを味わい」ます。そう仏典に書いてあるのだから間違いない。

 21日間、自分だけ心の通帳を見ながら「ウヒウヒ」喜んでいたのですから、かなりの変態です。

 
 ブッダの場合、それから「これは誰にも教えてあげないもんね」と最初思うのですが、神様が現れて「いやいや、みんなに教えてやれ」と言うので、仏教を広めることにした、といいます。


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 さて、しょーもない話が長くなったので、現在「承認欲求」に苦しんでいる人に向けて、メッセージを発しておきましょう。

 まず、承認欲求を満たす、満たさないの議論は、たいていの場合「今。この時。この瞬間。今でしょ!」という時間的な狭さを伴います。



 いいね!の数が、1年後に増えていることに、誰も関心を示しません。

 youtubeの再生回数が、3年後に10万回を超えることよりも、今1万回いくことのほうが嬉しいです。

 「可愛いね」と、明日学校で言われるかどうかが問題で、「おばあちゃん美人だったね」と孫に言われても無意味なのです。



 つまり、問題を引き起こす承認欲求とは、「今、認められたい」ということに他なりません。


 健全な承認欲求は、長い時間と相関します。つまり、「認められたいから頑張る」「頑張って後で結果がついてくる」というプロセスです。


 このことから、「健全な承認欲求」は時間がかかってもOK。短期に成立しないと気にくわないのは、「問題のある承認欲求」だと分類できます。

 まずは、自分で、この分類を仕分けしてみてください。


 そして、問題のある承認欲求を持つ妙齢の女子の場合は、もう私が今すぐ認めてあげますから、当ブログのコメント欄にでも何かメッセージをください。

「とっても可愛いよ。今晩、いやもう今からすぐにでもご飯食べにいこう!」

とメールを返信してあげます。承認するったら承認する!間違いなし!


 問題のある承認欲求を持つ、加齢の男子の場合は、facebookのアドレスでも晒してくれたら、なるべく早いうちに「いいね」押しといてあげます。


 なーんて。


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