今日は、この冬一番の寒さに震えそうですが、心はホットな武庫川散歩です。
さて、今日は、エンターテイメント解脱に達した私がお届けする、「なぜ人を殺してはいけないのか」という壮大なテーマについてのお話です。
この人類最大の問いに対して、あのお笑い芸人東野幸治の答えが秀逸!ということで話題になっていました。
TOCANA「なぜ人を殺してはいけないのか?東野幸治の答えが秀逸!」
http://tocana.jp/2014/02/post_3598.html?utm_source=rss20&utm_medium=rss
東野さんの答えは、単純です。
「そら、人間が滅びるからやろ」
私もそう思います。
人間を殺すことが善であれば、人類が滅びることを肯定することになります。
滅びたくなければ、殺してはならない。
というのは、明快ですね。
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さて、実は、私は18歳ぐらいの時に、この問題について、真面目に考えました。東野さんのアプローチとは少し異なりますが、
『人を殺してはいけない、あるいは傷つけてはいけない』という戒律は、本当に人間に最初から絶対的な規範として備わっているのか?」
という着想を持ったのです。
人を殺すな、という不文律は、今では明確すぎて、この発想の意味がよくわからないかもしれません。それほど、他者を傷つけないことは、「当然」のこととなっています。
しかし、私が考えたのは、次のようなことでした。
「たとえば、ハムラビ法典などで、王や支配者から『戒律』が下のものに与えられたとして、その時、王が言った内容は『その当時の人にとっても当たり前』のことだったから戒律になったのか、それとも『その当時の人にとっては、当たり前じゃなかった』から戒律にして制止したのか、どちらなのか」
という疑問です。
まだ、わかりにくいですね。
前者は、「みんな殺してはいけないとわかっていたけど、あえて王様が「殺すな」という命令を出した」という観点です。
後者は、「あまりにも、人々が平然と殺しまくっていたので、「それはやめろ」と禁止した」という観点です。
さあ、一体どちらなのでしょう。
(ちなみに、ハムラビ法典には「人を殺してはいけない」とは書いていません。むしろ、「いろんな悪事を働いたり、ルールを守らなければ殺す」と書いています。)
西洋の世界で、「殺してはならない」が当然だと受け止められている背景は、もう少し複雑です。聖書において、アブラハムの民が(つまりユダヤ人が)一番最初に神から与えられた戒律が「モーセの十戒」と呼ばれるもので、この中に
「殺してはならない」
という条項があります。
ということは、神が命じていることなのだから、人類は「当然」守らなければならない、という解釈になり、「神の命令なので当たり前」ということになります。
つまり、神の子である私たちには、その命令が、どちらかと言うと最初から備わっているに近いわけです。
そうなると、西洋文明がはびこってしまった現代では、その価値観が広まって、「人を殺してはいけないのは当然」という感覚が現代人には刷り込まれてしまうのですが、ハムラビ法典などでは、
「盗むな」
「嘘つくな」
などはガンガン書いてあるのに、逆に、それを守らない者は「殺されなくてはならない」と書いてあるので、
殺すことはOK
だと考えていることがわかるのです。
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さて、ユダヤ教・キリスト教の神が「殺すな」と命令してしまったので、「殺してはならない」が当たり前に感じられてしまう昨今ですが、現実の世界においては、人間は人間を殺しまくっています。
地域、宗教・歴史・時代のどの場面においても、事実としての人は人を殺します。
そんな状況において、「なぜ、人は人を殺してはいけない」とヒトが考えるのかは、とても単純明快です。
それは、東野幸治さんの答えと本質的には同じですが、
「人は殺されたくないから、殺してはいけないと感じる」
のです。
(人が殺していいとすれば、最後には人はいなくなります。人を殺していけないのであれば、人は増え続けられます)
ここで、もう一つの明解なルールがあります。これも単純なルールです。
「殺されそうになったら、相手を殺すのは良い」
この2つの命題は、実はセットです。「なぜ人を殺していけないのですか?」 という問いには、実はこの2つをセットにして答えるとわかりやすいのです。
Q「戦争では、人を殺すことが良しとされます。それなのに、なぜ人を殺してはいけないのですか?」
A「人を殺すのはいけません。しかし、相手が私たちを殺そうとしているときに、相手を殺すのはOKです(だから戦争で人を殺してもOKなのです)」
Q「テロリストを殺すのは、罪ですか?」
A「相手が危害を加えようとしている人であれば、それを止めるために殺すことはかまいません」
Q「暴走車両が、次々に人をはねながらこちらへ向かってきます。銃を持った男が降りてきました」
A「アメリカでは、警察に包囲された彼は、射殺されます」
(日本国内にも、正当防衛という考え方があります)
ね?現実の世界では、この2つのルールに基づいて善悪が運用されているわけです。
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エンターテイメント解脱的には、
「殺すに良いも悪いもない。ただ、人は現象としてかなり殺す存在だ」
と捉えます。
そう、このヒトという生き物は、かなり殺します。毎日、世界中で、山ほどのヒト同士が、殺しあう生態を持っています。
それは、
「カッコウの雛が、他の鳥の子供に紛れて他の雛の卵を巣の外に突き落として殺すのは、なぜ悪いのですか?」
と尋ねているのと同じで、
「いいとか、悪いとか以前に、カッコウはそういう習性を持っている」
と答えざるを得ないのと同じです。
そして、カッコウはそのことをあまり気にしていないかもしれませんが、ヒトは、できるならばそうした習性をコントロールしたいなあ、と思う傾向にあるようです。
もしかしたら、カッコウだって悩みながら突き落としているかもしれません。
いやいや、カッコウも実は人とおなじルールに従って殺していると思うのですが、どうでしょう。
つまり、カッコウは、自分が生き残る確率を最大にするために、他の鳥の卵を落としているのです。そう、あの二つ目のルールです。他の鳥にエサが行くことで、自分の生の確率が減るのならば、相手を叩き落としていいと考えているとしたら!
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さて、このお話。今回は「殺してはいけない」の部分だけ着目しましたが、もう少し奥が深いです。
ただ、説明が多少難しくなりますので、次の記事で補足だけしておきます。
難しい話が嫌な人は、飛ばしてくださっても大丈夫です。
次の話では、カッコウが生き残る確率を最大にする、というところを掘り下げます。つまり、自己が残ることを最大化する、という観点ですね。
人類が滅びるからというけど、人類の事を考えている人が日本にどれだけいるかなぁ・・・多いといいなぁ・・
返信削除コメントありがとうございます。
返信削除このルールは2つセットで運用されているので、「自分が危険になったら相手を傷つけてもよい」の方ばかり肥大化すると、相手のことを考えないで自分の利益ばかり求める人が増えるのも、仕方ないかもしれません。
義務を果たさず権利を主張する人が多いように。