前回の記事の補足です。
基本的に、「殺されたくないから殺してはならない」という観点が全てのベースだと前回お話しましたが、もう少し一般的に言えば
「自己が保たれることは、基本的に良い状態」
だと考えてもらってOKです。
この「自己がよい状態に保たれること」を「自己保全」と勝手に名づけたとしましょう。
自己保全が成立しているときは、人は良い状態にあります。
平たく言えば、生きてます。
あるいは、食べ物や、必要なものを所有していたり、どこかに住んでいたりします。衣食住の環境が整っていることも、もちろん「自己保全状態にある」と捉えることができますよね。
この自己保全が成立していることは、善悪の観点で言えば「善」です。なぜなら、それによって人が生きていられるからです。
ところが、時と場合によってはこの自己保全が脅かされることがあります。
衣食住がなくなるとか、極端には命が脅かされるとか、「自己が保たれない状況」がやってくることがあります。
これを、人は「悪」と考えます。
そして、自己保全を脅かす行為も、悪で、それを実行すると「罪がある」と考えるのです。
それをされることで「自己保全ができなくなる行為」はすべて「いけない=罪」だということです。
例を挙げます。
盗む行為は、盗まれた側の保全されていた物品が失われますから、自己保全状態からマイナスになるので「悪」です。
不倫や不貞は、成立していた夫婦や家族という「自己保全状態」を破壊しかねないので、「悪」です。
もちろん、殺すことは最大の「自己保全の喪失」ですから、「めちゃくちゃ悪」です。
嘘をつくことで、「自己保全状態を維持するのに必要な情報があやうくなる」場合は、「悪」です。
(なので、言っていい嘘とか悪い嘘、という発想が生まれます。「自己保全に関係ない嘘は、悪ではない場合もありますね)
このように、基本的に善悪は「自己保全」の考え方で説明できるのですが、ここでややこしいことが生じます。
「自己保全」の理論は、個人個人その人にとっての問題です。つまり「私一人」の問題なのです。
世界が一人だけであれば、全ての理論は「自己保全」で説明できるのですが、残念ながら二人いたら、早速その話が怪しくなります。
例) 食べ物が一つしかないのに、「自己保全の考え方」では、どちらがその食べ物をとるのが「善」か成立しなくなる。
そうです。人は自分の自己保全を最大にしようとすると、他人の自己保全領域に損害を与えてしまうことがあるのです。
そうすると、それは相手から見れば「自己保全を侵害」するもの、ですから当然悪です。
この矛盾をどうやって解決するかが、古代から続く「法・法律」の精神ということになります。
自己保全同士はすぐにぶつかりあう事態が起きるので、それをうまく采配しなくてはなりません。なので、「法」が、人の歴史の中ではどんどん進化していったのです。
そのため、「法」つまり、「していいことと悪いこと」の善悪の判断基準は、自己保全の最大化をめざすのではなく、時に自己保全の最大化を制限する「リミッター」として働くようになりました。
リミッターとは制限装置です。自己保全を推進する加速装置ではなく、自分で自分を縛る鎖です。
なので、法はすべて
「ほにゃらら、してはいけない」
という制限の書き方、制限の言い回しになっているのです。
近代文明とは、この制限装置の使い方をどれだけ高度化させたか、ということに他なりません。
より厳密に言えば、「個々の自己保全の最大化をコントロールして、全体の自己保全を最大化しよう」という試みこそが、文明であると言えます。
わかりにくい言い回しを簡単に言い換えます。
それぞれの個人や企業が儲けることを制限してまで、公害を減らしてみんなで幸せをめざす
とか
電車に我先に乗り込まず、整然と並ぶことによって、みんなが安全に移動できる
とか
交通ルールによって、個々の行動を制限することで、みんなの安全を得ようとする
とか、とにかく全ての文明行動は、この原則に則っているのです。
こういうことを念頭に置くと、なぜ「民度が低いと揶揄される国の人々の言動に対して、私たちがもやもやするのか」がすっきり理解できると思います。
つまり、個々の自己保全は、文明が発達するほど制限がかかりますから、「自分勝手なことが通っている国」に対しては、文明国はなんとも言えない陰鬱な気持ちになるわけです。それは、その国の人たちの「文明の発達度」に対して、
昔の自分の中二病時代を思い出す
ような気分になる、と言えば、わかりやすいかな?(苦笑)
余談ですが、この「自己保全を脅かすもの」は基本的に罪なのですが、「その行為をしたほうが、自己保全されるもの」は、罪であっても良しと判定されます。
例えば、殺すのは罪ですが、相手を殺したほうが自分が生き残れる場合は「良い」とされます。
戦争の場合。正当防衛の場合など。
安楽死問題が、ぎゃーぎゃー問題になるのも、「安楽死を選択したほうが、その人の心が保全される」場合があるからです。
これらは、とにかく「自己保全こそが、本質的な人の善」と関わっていることの証拠ですね。
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