なぜ人を殺してはいけないのですか?
今回は、そこから一歩進んで考えると「おっそろしい事実」が発見されたので、その衝撃のお話をしておこうと思います。
まずは、みなさんにもびっくり仰天していただくために、人類の中で暗黙の了解になっている恐ろしい真実を先にお知らせしておきましょう。
それは以下のような事です。人類はなんと、
別に、命(いのち)を殺すことは全然かまわない
と考えているというのです!!! なんということでしょう!
・・・と、これだけ書くと、ほとんどの人は
「そんなことはない!人類は、命を殺すことについて大変厳しく臨んでいるし、そういうことを許してはいない」
と反論なさることでしょう。
・・・あまい!あまっちょろい!そんなことをいうのはどの口だ!!!
と、思わず武庫川散歩も大声を上げそうになりますが、よくよく考えてみましょう。
「人は命を殺すことをなんとも思っていない」という事実と、では「一体何を殺してはいけないと考えているのか」というもうひとつの事実を。
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まず、人類が命を奪っている事実を、しっかりと認識したいと思います。
「命」というのはなんでしょう。
それは、ただモノがモノとしてそこにあるのではなく、何がしかの生命活動をしていることを「いのち」と呼ぶわけです。
その意味では、私達は肉や魚を食べるし、草木植物を活動停止させて食にしていますから、基本的には
「いのちをいただいている」「いのちを奪って食としている」
ということは疑いがない事実であるということになります。
動物の中に命が宿っているという事実、またそれを奪って私達が生活していることを「重く受け止めている」人たちの中には
ベジタリアン
というライフスタイルを通して、なるべく命を奪わないように気をつけておられる方もいるでしょう。
しかし、ベジタリアンだからといって「命を奪っていない」ということにはなりません。確かに彼らは動物の命を奪ってはいないけれども、植物の命は奪っているからです。
ベジタリアンの中には、動物と植物の間には一定の線引きがあるようです。これは、命を考えるときに大きなヒントになるかもしれません。
動物にあって、植物にないであろうもの。「それを奪う」ことは、どうやらベジタリアンには許されざることなのでしょうから。
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話の見方を少し変えてみましょう。
もし、神が「いのちをむやみに奪うこと」を許さないのであれば、おそらく人類のすべては、その命令に背き、神から滅ぼされることになるでしょう。
なぜか?
それは、人はかならず、自分自身のいのちの分身を奪っているからです。
人が、次の世代にいのちをつなぐ方法はたった一つしかありません。
男性は精子を作り、女性の作った卵子と結合させて子供を作ることです。
ということは、精子はいのちの一部であり、卵子はいのちの一部であるわけですが、残念ながら人類は、すべてのいのちを助けることは不可能なのです。
どういうことか?
たとえば男性であれば、1回の射精において数億ものいのちを生み出しておきながら、そのいのちを継続させられるのはたった1いのちであり、その他はすべて死滅させることになります。
女性は人生で500個ほどの卵子を妊娠可能卵子として放出しますが、これまた残念ながら500個すべてを受精させることは不可能です。
ということは、男性女性とも「いのちの一部」を残忍ながら見殺しにしており、人生でわずか数個のいのちを人として育て上げることしかできていない、ということに気付かされるわけです。
(あくまでも「いのちを奪ってをならない」と考えるならば、そうなってしまいますね)
ですので、現実的には、捕食のためにも人は命を奪っているし、生殖においても多数の命を破棄していると考えるのであれば、
人は命を殺しつづけている
と定義できることになるのです。
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しかし、大半の人は、人が命を奪いつづけている事実からは目を背け、「自分たちは殺してはいない」と思い込んでいます。
これは、別の考え方を持ち込めば、たしかに成立するかもしれません。
そうです。人は「命は殺しているけれど、その他の何かを殺してはいけない」と考えているっぽいのです。
ベジタリアンが動物を殺さない理由、それは
「いのちを奪わない」
ためではありません。
でも、「いのちではない何かを奪わない」ということは、どうやら守ろうとしているようです。
その「いのちではない何か」とはなんでしょう。
それは、とてもわかりやすい言葉で説明するならば「意識」です。
以下のような言葉の例を考えてみてください。
■ 動物には意識があり、考えているからその意識を奪うのは殺すことになりいけないことだ。
■ 植物には意識がないが、動物には意識がある。なので植物は食べてもよい。
■ イルカには高度な意識があり、人間に近いので食べてはいけない。
■ 受精卵には意識がない。なので堕胎してもよい。しかし生まれた赤ん坊には意識がある。
こうした具体例を上げてゆくと、人類が守ろうとしている何かがはっきりしてきます。そうです、人は
「いのちを殺すことはやぶさかではないが、意識を殺すのはいけないことだ」
と考えているらしいのです。
こうして考えると、なぜ人が人を殺してはいけないとされているのか、その理由がわかってきます。
誰かが、誰かを殺すとその人の意識が失われます。いけないこととされているのは、意識を失わせることです。
ではなぜ、意識を失わせ、意識を奪うのはいけないのでしょうか?
それが許されるのだとすれば、今世界を知覚している自分の意識がもろく危ういものになるからに他なりません。
そうです。人は「自分の意識が失われることは、自分と自分をとりまくセカイそのものが瞬間にして消え去ることだ」とわかっているのです。
なので、「自分の意識が失われるようなことがあってはならない。なので(そこから想像するに)、相手の意識を奪ってはいけない」と考えているのです。
こうして「命は奪ってもいいのに、人を殺してはいけない理由」というものが出来上がりました。
人は自分の意識に近そうな動物をも殺してはいけないと考えるようです。興味深いですね。
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