2015年12月2日水曜日

【これからの宗教の話をしよう 1】 混迷の時代に私たちは何を信じて生きてゆけばいいのか。

 入院中にいろいろと考える時間があったこともあって、今回からしばらくは



 21世紀を生きる私たちのための新しい宗教観


についてお話をしようと思います。



 題して「これからの宗教の話をしよう」としましたが、そうですね。思いっきりパクッてます!


 いえいえ、先行の「これからの正義の話をしよう」をリスペクトしての本歌取りでございます。



 タイトルはともかく、まじめに「これからの宗教」について考える所存です。稀代の解脱者、武庫川散歩がどんな話を繰り出してくるのか、ご期待くださいませ。



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【第1章】 宗教を忌避する感覚。 ~オウム、そしてイスラム国とテロを経験して~


 欧米人のように、キリスト教が生活や信条のベースになっている人たちと違い、日本人がいわゆる「無宗教感覚」になって久しいものですから、私たちは基本的に「宗教」に対して忌避する感覚や「なんとなく怪しかったり、うさんくさいもの」という感覚で広く受け止められているのが一般的ではないかと思います。


 特に、イスラム国に象徴されるような、宗教を母体としたテロリズムや、あるいは戦争のニュースを見るにつけ、「恐ろしいもの、狂信的なもの」というイメージも日に日に強まっていると言って過言ではありません。


 戦後の日本社会は、それまでの「天皇=神」そして「神国日本」といった明治以来の宗教的政治機構が敗戦で「全否定」されたものですから、それと同時に宗教的な感覚を一気に排除して、どちらかといえば宗教観念よりも科学技術に対する畏敬を優先させてきたような節があります。


 おまけに、社会的な事件として高度成長期には「悪徳商法」などの宗教をベースにした詐欺や、オウム真理教などのテロに遭遇したので、今回のようなテロリズムに直面する以前から、
「ああ、宗教は怖いものだ」という感覚が一般化していたのは、間違いないように思います。




 ところがその一方で、日常生活の中に「うつ病」や「心の病」「メンヘラ」といった私たちの精神的な弱さは増大し、老後の不安や、貧困による困窮など、社会や生活における問題点が噴出する状況になっています。


 旧来であれば、こうした社会不安や個人の弱さを救ったり、あるいは心の支えになっていたのが宗教でしたが、残念ながら暮らしに問題が山積しているのに、誰にも何ものにも頼ることができず、何かを信じることもできない、という八方塞の現実が、私たちを一層苦しめているのではないでしょうか?


 簡単に言えば、次のようなことがポイントになります。



「私たちは、何を拠り所として生きてゆけばいいのか」


「私たちは何を信じて生きればいいのか」


「私たちは何に救いを見出すことができるのか」


・・・こうした問いが、現代の日本と宗教を取り巻く根源的な課題であると言えるでしょう。




 しかしながら、実はこうした問題は日本人だけのものではなく、やっぱり欧米人にとっても無関係ではいられない、似たような状況が存在していることも、少しだけ注目しておきましょう。


 日本だけでなく、欧米においても旧来の資本主義経済は行き詰まりを見せ、環境破壊や資源の枯渇、先進国の進化の速度低下や、途上国の追い上げなどの中で、産業革命以降走り続けてきた「現代人」は国際的に、世界的に疲弊していると言ってよいでしょう。


 世界中で、若者の失業率が高くなったり、一部の人間に冨が集約して貧富の差が激しくなったり、移民や旧植民地主義における人種の矛盾が噴出したり、とイケイケどんどんだった資本主義経済は、いよいよ世界中できしみはじめているわけです。


 こうなると、やはり世界の人にとっても、「よりどころがなく、何を信じるべきかわからない」状況は変わらず同じである、ということがわかってくるのです。



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 高度に発展した文明の中で、科学技術と進歩をベースにして進み続けてきた結果、そこに問題が現れはじめると、人類はかならずおなじことを思いつきます。


 それは、「私たちは進みすぎて方向を見失っているけれど、原点に帰って考え直したほうがいいのではないか?」という自問です。



 原発で問題が起こると、「原発がない時代へ戻ったほうがいいのではないか?」と考えます。核兵器が蔓延すると「みんなが核兵器を減らしたほうがいいのではないか?」と考えます。

 資源問題が起きれば「資源を取り過ぎないように、自然エネルギーに戻ったほうがよいのではないか?」と考えるし、都会生活に疲れると「田舎暮らしが正しいのではないか?」と思います。


 人間というのは、折に触れことあるごとに、「原点に帰るべきではないか?」ということを真っ先に思いつく生き物なのです。


 この「原点に戻って考えよう」というスタンスは、原理主義という思想と直結します。 たとえば、江戸時代に幕府の政治が行き詰まったときに、天皇を中心とした朝廷に戻ったほうがいいのではないか?と考えたので明治維新が起きました。

 これは、政治における「天皇原理主義」と言ってもよいでしょう。


 宗教の世界では、イスラム国などの運動のベースには「ムハンマドの時代に戻ろう」というイスラム原理主義の考え方があると言われています。



 カトリックという形式主義に陥ったキリスト教においては、マルティン・ルターが「聖書に書いてあるとおりに戻ろうじゃないか!」と主張して聖書原理主義的な発想からプロテスタントが生まれました。



 ただし、ここで21世紀の賢明なるみなさんには、盲目的に原理主義に陥らないように気をつけてほしいと思います。


 もちろん、先進的な方法だと思っていた考えが限界に達したときに、「元来た道を戻ろう」と考えることは間違ってはいません。


 しかし、「その原点に帰ることが、かならず正しい」という保証はどこにもないのです。原理原則から外れてしまっているので元に戻ろう、という発想そのものは良いかもしれませんが、本当に原理原則が正解なのかどうかは、実は誰にもわからないからです。



 こんな例をご紹介しましょう。


 当時、免罪符といって「これを買えば魂の罪がなくなりますよ」というお札を販売していたカトリックのキリスト教教会があり、それに対して、「そんなものを販売して神がお許しになるものか、教会は聖書に書いてある原点に戻るべきだ」と主張したのが、マルティン・ルターですが、現在アメリカのキリスト教思想の大半を占める「プロテスタント系キリスト教」はこのルターの宗教改革が元になって生まれたものです。


 簡単に説明すると、カトリックでは「修道院に入って出家しなければ神に救われない、天国へいけない」という考え方をしています。

 それに対してプロテスタントでは「そんなことはない、神を純粋に信仰して生活に誠実に励んでいれば、出家しなくても救われるはずだ」という考え方をしています。


 なるほど、ルターの言ったことは、形式主義に陥って破綻しかけていた旧来の教会を改革するものであり、原点に戻ることは一見すればすばらしいことのように思えるでしょう。


 しかし、ルター氏はドイツの人でしたが、彼がドイツの農民の大虐殺に加担したことは、プロテスタントの信者たちもあまり知りません。


 ルターが何をやらかしたのかを少し覗いてみましょう。


 「聖書に帰れ、聖書に書いてあることに戻ろう」という運動が激しくなり、宗教的にはルターの意見に賛同する者が多数現れました。すると、こんなことが起きたのです。


 当時、ドイツの地主や領主にこきつかわれていた一般農民(農奴のようなイメージを思い浮かべてみてください)たちは、ルターに共感してこんなことを言い出したのです。


「そうだ!そもそも聖書には、我々のような農民が領主に奴隷のようにこき使われて、搾取されることが良いことだなんてひとつも書いていないじゃないか!だったら、領主と農民の関係も解消されるべきじゃないか!


 簡単に言えば、農民たちが反逆しはじめたわけです。これをドイツ農民戦争といいます。


 ウィキペディアより ドイツ農民戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BE%B2%E6%B0%91%E6%88%A6%E4%BA%89


 こうして、農民の反乱がドイツ中に広がりましたが、ルターは面白いことに農民の側につかなかったのです。それは、彼が本来教会に属した特権階級側の人間だったことに由来するわけですが、結果としてルターは領主たちの側につきました。


 そして、こんなことを抜かしてけつかったのです。


「農民たちが反乱を犯すということは、(権威に逆らうという)ある意味罪である。このまま彼らが蜂起しつづけると彼らは罪を犯して天国へいけなくなってしまう。それは大変にまずいので、できるなら罪を犯す前に魂が純粋な状態で死んでもらいたい。純粋な状態で死ねば、神の前で罪を犯していないので、再び天国で復活させられるだろう」


と。


 そして、ルターは領主側と組んで



農民皆殺し その数13万人


を、開始したわけです。




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 ルターの農民皆殺し作戦については、プロテスタント信者でもきちんとした研究者以外はあまり言及しません。


 
 しかし、私たちはつい近年、彼とまったく同じ思想で大量殺人を行った人物をよく知っていますね。


 そうです。悪行を重ねるものが、これ以上悪行を行わないように救済するぞ、救済するぞ、救済するぞ、でおなじみ


 ポア



は、ルターと全く同じ理論である、というわけです。




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 これらのことは何を意味しているのでしょう。それは原理主義の持つ本質的な誤りや危険性について、私たちは眼を背けてはいけない、という警告です。


 原理主義的な考え方は、「原点に戻ろう」だけではなく



「原点は正しい(はずだ)」



と決め付けるところから始まります。ここに大きなミスリードがあります。何度も言いますが、現在が間違った方向へ進んでいるからと言って、原点が正しいかといえば、その証拠はありません。


 しかし、原理主義者は、「原点は正しいのだ」という仮説の定義を最大限重んじます。


 ということは彼らは「何が正しいかを、決めたがるくせを本質的に有している」ということでもあるわけです。


 原理主義者の思想のベクトルは、「現状は間違っている、原点は正しい」という方向性です。そして、「自分たちは正しい方向をチョイスしている」ということでもあります。


 そこで安易に、容易に「よって自分たちは正しい」という三段論法に到達してしまうのです。



 聖書の中には、異教徒を滅ぼせという神の命令が出てきます。偶像崇拝するものは殺せと聖書の神は言います。


 だとすれば、ユダヤ教原理主義、キリスト教原理主義、イスラム原理主義のいずれもが「神の名の下で殺戮を行う素地がある」ということに他なりません。


 よって、私たちは安易に「原理主義」に染まるべきではありません。


 古代のものがなんでも正しい、というわけではないのです。それは世界の文化文明を否定することですので、原人のように野山で石を持ってうろうろしたい人はそうすればいいですが、少なくとも、


歴史のある一部の経典や考え方を取り出してそれに全面的に意思決定を置く、というのは誤りである!



と解脱者ムコガワは主張するのです。




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 いかがでしょうか?混迷する現代で悩める若人が、つい原理主義に走りそうになったり、それに魅力を覚えてしまうのを押しとどめる明解な理論、さすがは解脱者武庫川散歩さんですね。


 ファンレター、特に可愛い女子からのメール、待ってます。


 ・・・冗談は置いといて、次回につづきます。






 









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