迷いや苦しみの多いこの社会で生きてゆくためには、現代はあまりに救いがない、と誰もが感じていることと思います。
これまでの3回の連載で、世界史をひもときながら宗教史を考え、今度は日本史にも目を向けて、「日本人のための救済と宗教」について考えてきました。
そして、前回の最後に
「日本人が心の平穏を得られるような、新時代の新しい宗教観」
というものが必要であり、かつ私、武庫川散歩には、それに対しての明確なビジョンがある、ということをお話したところです。
というわけで、第4回では、「現代人のための、真の宗教」についてお伝えしようと考えています。
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その前に、少しだけ、これまで世界で広く信じられてきた宗教について、ある「別の観点」で分類してみたいと思います。
それは
「その宗教は、現世利益を追求するものですか?それとも来世利益を追求するものですか?」
という観点です。
ユダヤ教は、本来は現世利益を追求する宗教です。もともとは砂漠の民の宗教ですから、「君たちが正しい信仰を持っていれば、神が約束する地を与えよう」というのが、ユダヤ教の本質です。
この言葉を信じて、ユダヤ人たちは時にはエジプトに征服されて連れていかれたり、バビロニアにやられて連れていかれたり、ローマに支配されて属州になったり、あるいはナチスに迫害されて散り散りバラバラになったりしても、
「カナンの地という約束の土地に再びイスラエル王国を再建できる」
という希望を信じて数千年生きてきています。だから世界中のユダヤ資本家たちが結束して、イスラエルという国をあの場所に建国し、そして維持することに命をかけるわけです。
アラブ諸国と紛争を繰り返しても、これだけは譲れない神との約束だからです。
キリスト教・イスラム教、そして仏教は、そうした現世利益ではなく、究極的には「来世の利益」を追求する宗教だということになります。
キリスト教やイスラム教は、簡単に言えば、
「神に従った生活を守っていれば、審判の時に神に認められて、あちらの世界で永遠に生きることができる」
というものです。あちらの世界、というものが具体的にどういうものなのかは、各宗派の解釈によって異なります。
地球上に死んだ人類が皆再び蘇る、と考えるキリスト教の一派もあるし、肉体を伴わない天国のようなものと考えるキリスト教やイスラム教もあります。
仏教は、現世に対して、いわゆる天国のような「解脱の境地に到達した何ものにも惑わされることのない来世」をイメージしています。そこに到達できない者は、何度でも現在のこの世界に戻されて人間だったり動物だったり草木だったりいろんな人生をやり直しさせられる、という考えですね。
(本来は仏教そのものよりも、ヒンズー教やバラモン教に関わりのある考え方です)
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ということは、「人類が求める救い」とは、
まず
「この世界で幸せに生きることなのか」
それとも
「あっちの世界を信じて、そちらに希望を託すのか」
の2つの大きな分類がある、ということになりますね。
この2つのどちらが正しくて、世界の真実か、ということは一旦保留にしておいて、
「どちらの宗教が流行するか、ウケるか」
は簡単に説明できます。
戦争や動乱が起きている国や地域では、ぶっちゃけ「あちらの世界な宗教」が信仰されます。現世利益どころか、そもそもそこらへんで人が死んだり、財産がぶっとんだり、家族がバラバラになったりするからです。
こんな時代や地域において「この神を信じれば、健康で健やかに過ごせますよ」と言っても、誰も信仰しません。
当たり前の話です。
逆に、経済が発展していて、治安が安定している国や地域では「現世利益宗教」が信仰されます。
「より満たされる生き方ができますよ」
とか
「ガンが治りますよ」
とか、そういうのがウケるのです。
なんだかんだ言って、現代の日本はそこそこに生きていけますので、「来世は幸せに」とかではなく、「今現在幸せになりたい」人が多いのが実状です。
そこはホレ、前にもお話したとおり「市場」(マーケティング)のオハナシなのです。
なので、「あなたはずっと派遣社員で、最後は老後破産で死にますが、来世ではきっとよいことがありますよ」という宗教を提示しても、「派遣をなめとんのか」と思われるだけで、けして受け入れられることはありません。
・・・すみません。つい毒舌になるのはわたくし武庫川の悪い癖ですね。
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というわけで、一応先進国のはしくれとしてまだ生き残っている日本人が心から救われるためには、まず「現世利益についてきちんと提案できる」宗教が大事である、ということになります。
そして、それが「ガンが治ります。お金持ちになれますよ」的な胡散臭いもの、悪徳臭のただようものではなく、
現代人が、そして日本人が生きる上で、きちんと納得のいく、心から腑に落ちる生き方のあり方
を提示できるものでなければならないものだ、ということになるのです。
そして、もっと言えば、それが個人的に「Aさんは信仰があって幸せだったね。ちゃんちゃん」で終わるものでなく、
「きちんと未来にも、将来にも通じるもので、かつ個人だけでなく社会体制にもきちんとコミットするもの」
が、より真実で正しい宗教であろう、と考えられることになるわけです。
それを「宗教」というのがおこがましければ、「哲学」でも「思想」でも「主義」でも、好きなように捉えていただければよいのですが、そういうものが、果たしてこの日本に存在するのか?
とみなさんも思われることでしょう。
あります!STAP細胞じゃないですが、あるのです。(←いやいや、それは無いやんけ、というツッコミはなしで)
この考えをどのように提示すればいいのか、私もいろんなことを試している最中で、ひとつの試みとしては、
「学問・主義主張」の分野で、これからの日本人の軸足になる思想を定義する活動
を別の形で行っています。
もし、それを一般の方にわかりやすいように「宗教」に似た形で行おうとすることも、できると考えています。
その宗旨宗論をざっとまとめるなら以下のようなものとなるでしょう。
(例のごとく勝手に決め、勝手にはじめるのであるwww)
これまで、”エンターテイメント解脱”と称して笑いを取りに走っていた、この解脱を総じて
「存在宗」
と立宗することにいたしました。
まるで仏教の宗派のようですが、わざとそうしています。元々解脱の概念は、西欧宗教よりも仏教的であるので、東洋思想を基にしたという点において、仏教には一定の敬意を払って
「存在宗」
といたします。(けして、宗旨は仏教ではありませんが、教養としての仏教は尊重します)
理念は、この世界について、ありのままを見ることができるようになり、ありのままの存在を理解することができるようになる、という意味において
「澄眼解脱」
を目的とする宗教としましょう。
澄眼(せいがん)とは、晴眼であり、正眼でもあります。ありのままを曇りなき眼で見る、理解する
受け止めるということです。
しかし、晴眼ということばは、目の不自由な方に対しての健常者という意味で使われるので、この字は避けます。
また正眼は、存在宗では「何が正しいかを絶対的に定義することはできない」という無常観に立脚するため、「正」の字を避けて、”澄眼”を説くこととします。
どんな人であっても、澄眼解脱に到達することは可能です。そこに至るには、苦しい修行などは全く必要ありませんし、そのようなものは間違っています。
そのための方法、そのための考え方のヒントが、このブログの記事であったりするわけですが、誰もが丁寧な方法で学び、自分の頭で考えれば、かならず澄眼解脱に到達できるのです。
その最大のヒントが、宗名である「存在」を曇りなき眼でしっかりと見ることです。
この世界が実際にどうなっているのか。どんなものがこの世界に存在しているのか。
あなたが存在しているということはどういうことか。なぜあなたが存在しているのか。
あなたが死んだあとには、何が存在するのか。
・・・すべては、「ありのままに、存在している」ということが中心にあります。
もし、あなたが人生に開眼したければ、
武庫川散歩
mukogawa_sanpo@yahoo.co.jp
まで、お話をお寄せください。
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