2015年12月4日金曜日

【これからの宗教の話をしよう 3】 一見、宗教に見えない”空気感”と心のブーム

 前回は、これまでの歴史を振り返って、私たちの苦しみや悩みにどんな宗教が生まれることで
「手当てしてきたか」「対応してきたか」を考えてみました。


 しかし、それらは過去のことであって、現在の21世紀の国際社会や、あるいは先進国として熟成してしまった日本人の心の拠り所としてふさわしいかは、少し疑問符がつく状況になってしまっています。


 そこで、いよいよ、新時代の「心のよりどころ」「何を信じれば救われるのか」に焦点を近づけながら、お話を進めていこうと思います。



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【第3章】 新しいスタイルの「宗教」と「空気感」 ~エコとロハスとマイルドヤンキーと~


 宗教や宗教っぽいもの、というのは実は宗教そのものではなくとも、類似した存在はたくさんあって、私たちはふだんの生活の中でもそれらについて


「まるで宗教やな」

とか

「宗教みたいやな」


と感じることが多々あると思います。


 宗教、というものは明確な教祖・開祖や教義があったり、それがいのちの由来や精神的な部分に深く関わってくるのでわかりやすいのですが、もうすこし宗教観の薄い

「主義・主張」

のようなものも、時に宗教とおなじような動きや働きをすることがあるわけです。



 団塊の世代にとっては、「共産主義」という思想・主義・信条はかなり宗教的に心に響くものとなっていました。


 現実は別にして、人々が平等に暮らせる社会、というのはある種の現世利益の理想型であり、いのちとこころの奥底に触れないけれども、表面的にはかなり宗教的要素を持っています。


 それに魅了され、左翼に傾いていった人は数多く、若者は「安保闘争」に走り、もう少し大人になっていた人は「労働組合活動」などにのめりこんで行きました。


 国鉄が解体され、分割民営化された原因のひとつに、国鉄内部の労働組合が力を持ちすぎて、管理統制が行き届かなくなったから、というのがあります。


 これに似た事例としては、現在でも教員の間で日教組の組合員が一定数おり、国旗国歌問題などで国と反発しあっていることが問題視されていることを挙げてもいいでしょう。


 ともかく、戦後の日本社会では「神国日本」「天皇崇拝」が否定されたので、いわゆる右翼よりから、社会全体が「左翼寄り」に大きくブレていたことは間違いありません。


 それらは社会全体の「空気感」とも言うべき風潮、世相、雰囲気でありました。



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 ところが、中国が経済的に台頭してきたり、韓国が従軍慰安婦問題で敵対心を見せたりするうちに、日本全体がサヨク傾向から徐々に、右傾化するようになっているのが、現時点での社会の空気感です。


「中国と戦争になるのではないか」


とか


「在日韓国・朝鮮人は出て行け」


といった不安や主張が、表に出てくるようになったのは近年の特徴です。



 こうして右傾化した人たちの心のよりどころは、簡単に言えば「古い時代の保守思想」に戻るという「原点回帰」の考え方です。


 日本の国家の在り方、家族のあり方、社会のあり方を、サヨク寄りから本来の保守へ戻そう、という動きや雰囲気は、一定の広がりを見せています。



 そうした人たちの宗教観は、当然旧来の宗教をベースにしたものとなるので、ここに新しい潮流が見えてくるとはあまりいえません。



 むしろこれらの人たちのベクトルは、前にお話したような「原理主義」運動に近いものとなっています。

(原理主義の問題点は、すでにお話しましたね。なので、このブログでは、単に原理主義に戻ることを良しとしていません。)



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 さて。今お話したのは、どちらかといえば政治的スタンスの中における宗教に似た空気感の話でした。


 次に着目するのは、政治よりもふだんの生活に密着した「生活に近い」領域での空気感についてです。


 右肩上がりの高度成長が終わり、成長が止まったり、あるいは右肩下がりになるというデフレの時代を経て、日本人の生活はバブルの崩壊以降、どんどんと慎ましいものになりつつあります。


 まず、モノの値段が上がらない。給料も上がらない。資産も増えない。そして、世界中で資源を取り合っているのでこれまでのように日本だけが優位な社会が終わってしまう。


 そういう閉塞感やあきらめムードが蔓延していることも合わせて、生活レベルでは「モノに支配される時代は終わった」という空気感が生まれています。



 ブランドものが欲しいとか、かっこいいファッションを身につけたいとか、そうした単純欲望が無くなり、どちらかといえば、心の充足が求められたり、中身が重視されるようになったのはここ10年くらいの変化でしょうか?


 自動車で言えば、エコ(燃費)や、環境にやさしいことが大きなテーマになっており、住宅においても太陽光発電がブームになるなど、消費や浪費とは逆のベクトルでものごとが進むようになってきています。



 しかし、70万円でそこそこの燃費の軽自動車が売れていた80~90年代に対して、140万円で低燃費の軽自動車が売れている現在は、本質的な意味で


「ほんとうに経済的か?ほんとうにそれはエコなのか?それはほんとうに消費や浪費ではないのか?」


といった問いかけには、疑問符がつきます。


 まじめに損益分岐点をはじき出せば、おそらく「エコっぽいもの」は結局高いお金や資源を使っています。

 一般的に、プリウスのハイブリッド分の高くなっている値段は、燃費で安くなっている分を充当しても元が取れないと言われていますが、まさにそれと同じで、


「エコっぽい、は空気感であって、ほんとうにエコかどうかは別問題」


ということも、賢明な読者諸君は忘れてはいけません。



 それでもエコでロハス(健康や環境を意識すること)な暮らしは、人々のある種の理想形として、たしかに現代の先進国の、特に富裕層に蔓延しているのです。
 


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 今度は富裕層ではなく、庶民に眼を向けてみましょう。


 2014~2015年頃には、「マイルドヤンキー」ということばが、社会学系のメディアでブームになりました。


 この語は、本来の不良少年を意味する「ヤンキー」とは少しずれていて、言葉の作り方に違和感を感じる部分もありますが、現在ではある程度定義が定着しているので、ここでもこの語を用いたいと思います。


 マイルドヤンキーというのは、


”地方から都会に出ないで、こども時代からの仲間集団との繋がりを大切にして、比較的早く地元で結婚し、あまり裕福ではないけれど、お金をかけずに生活を楽しんでいる層”


を指します。


 象徴的なのは、彼らの終末は地方の大規模イオンモールに遊びに行き、適度に消費したり、適度に余暇を過ごしたりしていることで、高額な買い物もせず、しかし、仲間やコミュニティを大事にするので、家族や友だち同士で集合したりする、とされています。




 この層が取り上げられるということは、「都会に出て、いい企業に入って偉くなってマンションを買ってこどもをいい学校にお受験させる」という富裕層のこれまでのスタンスに対して、はっきりとその価値観を否定する庶民がいる、ということでもあります。



「お金をたくさん持つこと、ものをたくさん所有すること」を否定する空気感


がここにほんのり見え隠れしており、実は富裕層の間にもこの空気感はちょっとした魅力を持って受け止められているのです。



 たとえば、「断捨離」という言葉が流行しました。これは、富裕層や中間層にも流行しています。


 「いらないものを持たない」「シンプルな生き方をする」ということや、「不要なしがらみを排除してゆく」方向は、お金を持っている持っていないに関わらず、実は全体に広がっている空気感なのです。


 あるいは、葬儀における「直葬」なんかもそうです。



 
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 こうして見ると、先進国において「資本主義・モノ主義・消費主義」に染まった時代は終わった、と明確なトレンドを見つけることができる、ということがわかると思います。


 物質主義に嫌気がさしてイスラム教に改宗する若い欧米の若者がいるのと同じように、宗教とはちょっとジャンルが違うけれど、同じように物質主義は徐々に否定されるようになっているのが現代の傾向である、と言えるのです。



 しかし、そうやって物質文明やバリバリの資本主義に疑問符を投げかけても、残念ながらまだ心の領域が満たされているとは言えません。


 そこに本来の宗教が果たすべき役割がまだ残っているのですが、現時点ではその空虚さを満たす宗教は現れていないと言ってよいでしょう。



 長い歴史と経済発展の中で、さすがに日本人はいまさら「キリスト教の神やイスラム教の神」を信じるわけにはいきません。

 あるいは葬式ですら簡略化しようというのに、いまさら「仏教」に帰依するのもどうなの、という時代です。


 宗教的には、日本人はかなりドライです。初詣に行き、クリスマスを祝い、お盆に実家に帰り、そして近年ではハロウィンまで楽しむ始末なのですから、何か一つの宗教を心から信じるというのは、まったくもって日本人には不向きだと言わざるを得ません。



 しかし、一方では何万人もの人々がうつ病に苦しみ、貧困に喘いだり、この世界に生まれた理由を悩みながら生きていることも事実なのです。


 宗教も中途半端、空気感だけでは救いにはならない、このあやふやさが一層現代の日本を不安定なものにしているわけです。






 実は、わたくし武庫川散歩は、「日本人が心の平穏を得られるような、新時代の新しい宗教観」をきちんと持っているのですが、それを説明するのは、またのちほどにしたいと思います。



(つづく) 

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