2015年12月3日木曜日

【これからの宗教の話をしよう 2】 苦難の時代に宗教は生まれる ~私たちはいかに苦しみから逃れられるか~

 前回は、苦しい時代や混迷の時代につい走りがちになってしまう「原理主義」について警告することで、安易な極論に走ってしまわないように、というお話をしました。


 しかし、原理主義に向かうのをやめたところで、苦しみから解放されるわけではありません。


 やっぱり、「私たちは何を拠り所にして生きればいいのか」ということは全く解決していないわけです。


 そこで、今回は「苦しみの時代に、どのように救いの思想が生まれてきたか」を読み解くことで、そのヒントへ一歩でも近づきたいと思います。




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【第2章 苦難の時代に、宗教は生まれ続ける ~新宗教の作り方~ 】



 前回は世界の宗教の様相に触れましたので、今回はちょっと目線を変えて、日本の宗教史について考えてみたいと思います。


 日本史の知識であれば、高校でざっくり教わったと思うので、「日本がいかに激動の時代を乗り越えてきたか」ということと「日本でどんな宗教が生まれてきたか」ということはリンクしやすいと考えます。



 それでは、日本の古代史から振り返ってみることにしましょう。



 日本の歴史において、文書としての記録に残っているのは、ぶっちゃけ聖徳太子の時代くらいからだと思ってください。いわゆる奈良・飛鳥時代と呼ばれる時代です。


 もちろん、それより以前には「古墳時代」とか「弥生時代」「縄文時代」などがあるわけですが、さすがに縄文時代の宗教観については、わかっていることはあまり多くありません。



 古墳時代についても、同時代の文書記録はほとんどないので、わかっていることは少ないものの、埴輪が置いてあったり、石室に絵が描いてあったり、あるいは装飾品を一緒に埋葬していることなどから、


「古墳時代には、すくなくともあの世的な、死後の世界観のようなものはあった」


ということはわかると思います。


 さて、古事記や日本書紀に描かれている古代の大王や天皇がいるとして、それらの方々のお墓が「ほにゃらら古墳だよ」なんてことが一般的に言われています。ニュースにもそんな風に出てくるので、私たちはそんなもんかと思っているのですが、ここでちょっと考えてみてください。


「仁徳天皇陵は世界最大の広さを誇るお墓で、仁徳天皇の時代のお話は古事記や日本書紀に書いてありそうだ」


ということは、みなさんも同感なさることでしょう。そして、ついでに言えば、


「古事記や日本書紀は、いわゆる神道の話、アマテラスやイザナギやイザナミにはじまる神話のことが書いてある」


ということも同感なさることと思います。



 じゃあ、ここで問題です。いいですか?


 ほにゃらら天皇のお墓は古墳で、そのほにゃらら天皇の話が古事記や日本書紀に出ていて、古事記や日本書紀の話は神道の神話の話なのだから、


ほにゃらら天皇は神道を信じていたはずだ


という推論ができそうなものですが、これは正しいか間違っているか答えなさい。



 ・・・意外にむずかしいでしょ?


 実はこれ、あんまり関係なさそうなのです。



 つまり、古事記や日本書紀は後からはるか昔のことを書いていて、イザナギやイザナミからはじまる神話と天皇家を結び付けてはいるものの、それは(真実かどうかはともかくとして)後から創作した部分もあるので、当時の本当の天皇は神道を信じていたとはどうにも思えない。


ということなのです。わかりますか?



 証拠をひとつ挙げましょう。天皇のお墓である古墳の中に「朱雀・玄武・青龍・白虎」が描かれているものがあることはみなさん知っていますね。(高松塚古墳とかキトラ古墳とか)


 ここで気付きます。古事記や日本書紀、あるいは日本神話や神道に「四神」は出てきません。これらの霊獣は、


 中国の神話、二十八宿と四像


に登場するものですから、少なくともこの埋葬者は、


「神道ではなく、中国の神話」


を信仰していたことがわかる、というわけです。



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 それでは、なぜこんな話をするのでしょうか?古代の天皇が、日本神話ではなく、中国の神話を信じていたことが何を意味するのかを考えれば、そのヒントが見えてきます。


 そうです。日本の神話、神道は、「古墳の時代には存在せず、もっと後になって必要性にせまられて生み出されてきたのではないか」ということが重要なのです。



 その理由は簡単です。本来、中国大陸から文化文明がもたらされ、その影響下にあった古代日本ですが、いよいよ古事記や日本書紀が編纂される前後に、


「国家が統一され、日本という国のスタイルや基盤を確立しなくてはならない」


という大問題にぶちあたっていたわけです。そこで、すべてのベースになる基本路線を書きまとめてゆかなくてはならなかった。それが現在残る神話のスタイルだった、というわけです。



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 各地の大君たちが権力をめぐって争い、それがヤマト王権に集約され、いよいよ成長した国家へと発展を遂げる際に、朝廷が書いたのは「古代の神の物語」でした。


 ところが、面白いことに、その後の奈良飛鳥時代には、外国から入ってきたばかりのハイカラな宗教である


「仏教」


がいきなり地位を確立するのです。日本における仏教の扱いは「鎮護仏教」というものでした。


 仏教というのは、本来「個人が悟りが開いて、悩みから開放される」というものです。ところが、おかしなことに、何をどう間違えたか、日本に入ってきた最初の仏教は


「ホトケのパワーとエネルギーで、国家が安泰になり、外敵からも守られる」


という思想でした。


 そのため、日本の中心に東大寺を置き、全国に国分寺と国分尼寺を置いて


「日本中総バリアー状態で万全だもんね!!」


という状態にしたわけです。完全にレーダーとミサイル基地かなんかと誤解していますが、当時は本気だったのです。



(☆補足 ここまではざっとまとめましたが、本当のことを言えば神道と神話の世界は古代から祭祀を司っていた中臣氏(のちの藤原鎌足など)系列が推進したシステムで、仏教は新興勢力の蘇我氏(馬子とか入鹿とか)が輸入してきたシステムでした。中臣氏は、政治的には大化の改新で蘇我氏を滅ぼし、実権を取り戻しますが、仏教を放り出すことまではしなかったようです)



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 というわけで、日本の初期仏教は「ミサイルレーダーパワー」とほぼ同じですから、仏教僧には「念力パワー」が求められていました。何度も言いますが、個人の悟りとかどうでもよく、権力者のために


「外敵をやっつける力」「病気を治す力」「雨を降らせたり豊作にする力」「国を豊かにする力」


などが求められたのです。なので、平安時代にはすぐに「密教」系仏教という


オカルト(失礼!)パワー系仏教


が流行するようになったのでした。密教ではバラモン教やヒンズー教の呪術的要素が取り込まれたり、その名の通り「秘密仏教」として、「覚醒者はその身のままで仏となり、パワーを持つ」というイメージが強くなってゆきました。



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 と、ここまで見てきてわかるとおり、平安時代までの仏教は、ぶっちゃけ「国家と貴族のための仏教」に他なりませんでした。仏教者はもちろん、厳しい修行と戒律に励み、出家して秘密の技法を身につけ、その霊力で貴族や支配者をバックアップする、という側面がどうしても強かったので、この段階までは


 庶民のための宗教


ではなかったことになります。



 ところが、平安時代の末期、「平家物語」で有名な源平の合戦や、次の鎌倉時代が「源頼朝」という武士が幕府をはじめて作ったことからもわかる通り、


 日本は戦乱が身近にある状態


に変貌します。


 ここに、「死が隣あわせの苦難の時代」がはじまることになるわけです。



 武士というのは、簡単に言えば「食い扶持がなくなった貴族の末裔」です。源頼朝は「源氏」ですが、天皇の子と孫のうち、家臣の身分に下げられた時に「源」の苗字を貰います。「平」のほうは、天皇から見て3世のひ孫に与えられた苗字です。

 なぜ天皇の子孫を家臣にしなければならなかったか、といえば、「ようするにお金が足りない」からです。

 天皇の子孫を全員抱えきれるほど、朝廷にお金が無尽蔵にあるわけではないので、そうそうに皇位継承権を失わせて、食い扶持を自分で稼がせる必要があるわけで、そうしたところから、貴族ではない地位、武士が生まれてきました。

 こうして、それまで貴族が国司・郡司などの公務員的役職についていたけれども、実際の地方の監督は地元の豪族に委任していたのが、地方の役職に直接武士が赴任するようになり、本来の地元の権力者とのいざこざも含めて争いごとが多くなることにも、武士という身分が密接に関わるようになってゆきました。


 争いと実力行使の戦乱があり、それに武士も庶民も巻き込まれる時代。この新時代に、新しい宗教が求められ、生まれてくることになります。


  そもそも仏教は、「戒律を守り、殺生をせず、俗世を捨てる」ことで救いを得ることが本質です。しかし、武士が殺生をしないわけにはいかず、貴族と違って庶民には戒律を守って暮らすような余裕はありません。

 ましてや町や村が荒らされ、戦争に借り出される中で、どのように救われるというのでしょう。


 そこに登場するのが「鎌倉新仏教」というジャンルです。この時代、いくつも新しい信仰スタイルの仏教(宗派)が創出されました。

 鎌倉新仏教を大きく分けると、3つの流れがあります。


 ひとつは「浄土系宗派」。浄土宗や浄土真宗のように仏に完全にすがることで救いを得るというものです。浄土系は「南無阿弥陀仏」(念仏)を唱えれば、教義も修行も関係なく、どんな立場でも救われるという庶民への救いを提示しました。


 二つ目は「法華系宗派」。日蓮宗に代表されるように、おなじく「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで救われる、というものです。

 三つ目は、「禅宗系宗派」。曹洞宗や臨在宗に代表されるように、「座禅」を中心に精神面から仏教をとらえるものです。


 浄土系と法華系の本質は似ています。これらは、救済を完全に仏に頼りきるものです。禅宗はそれに対するアンチテーゼとして発展し、こちらは「自らの修行で仏性を得る」というところが前者と間逆の路線になっていました。


 そういう意味では、禅宗は旧来の出家主義・修行主義の仏教の流れを汲んでいますが、数々の経典をマスターして、複雑な理論をすべて身につけながら修業に励んだこれまでの国家仏教に対して、「座禅によって、仏教の本質部分に直接体感してゆく」スタイルを重視したところが斬新だといえるでしょう。


 いずれにせよ、仏教の救いの中心部分にダイレクトに切り込んでいこうとするところは、肥大化して複雑化、権威と絡んで組織化してしまった旧来の仏教とは一線を画すものとなったのです。


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 興味深いことに、日本の仏教の発展は、ここで止まります。実は鎌倉時代にここまで広がった仏教の諸流派は、その後の室町時代、戦国時代にさらなる発展を遂げることはありませんでした。


 その代わりに、特に戦国時代には「キリシタン」という外国から入ってきたキリスト教が一大ブームとなります。しかし、これは秀吉の弾圧によって、次の江戸時代には完全に消滅してしまいました。


 戦国時代に、もっとも隆盛を極めたのは浄土真宗(一向宗)です。信長に本願寺が敵対したことからもわかるように、この時代は宗教と武装が一体となり、真宗系集団はほぼ戦国大名・戦国武将とおなじ行動をとっていました。


 しかし、これも、石山本願寺が本山を明け渡して権力者に恭順した時点で、武装宗教団体としては弱体化してゆきます。石山本願寺は、誰も攻略できない難攻不落の城で、秀吉はその砦をそのまま大阪城に作り変えます。

 かの家康ですら、大阪城は「堀を埋めていいか」という講和条件なしでは落すことができない要塞でした。このあたりに、当時の本願寺勢力がいかに強大だったかを想像することができるでしょう。


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 江戸時代は、キリシタン追放のために幕府が各寺院に民衆の戸籍を管理させたことから、宗教は政治の手先として組み込まれることになりました。

 そのため、260年も安定が続いた江戸時代には新しい宗教は生まれていません。


 ところが、幕末から明治になり、幕府軍と官軍が争う内戦状態と、新しい政府によって大改革がなされるという混乱期に、新宗教が山ほど生まれはじめたのです。



  特徴的なブームを取り上げてみましょう。


 天理教や黒住経、大本教、金光教、円応教、といった比較的新しい宗教の名前をみなさんも知っているかもしれません。


 これらは幕末から明治期にかけて生まれた新宗教で、大きなポイントとしてこれまでの仏教ではなく「神道」を基盤にして生まれてきた宗教だということです。


  これらの宗教の考え方は、「古事記や日本書紀に出てこないホニャララノミコトという神が、巫女である教祖に現れて、新しいお告げをくださった」という形になっています。

 なので、ベースは神道にあるのだけれど、教義はオリジナルということになるわけです。


 なぜ、明治になって神道系にこんなにスポットが当たったのか、ということにはちゃんと理由があります。


 実は平安時代から江戸時代まで、仏教が流行しすぎて下火になっていた神道は、ずっと長い間「神仏習合」という形で合体して生き残っていました。


 これは面白い発想で、神や仏を宗教で切り分けるのではなく、たとえばオオクニヌシという神道の神様は、神道からみればそういう名前の神だけれど、仏教から見ると「大黒様」という仏教的な存在なんだよ、と解釈したのです。


 おなじように、八幡神社の八幡神は、仏教サイドからみれば「八幡大菩薩」と呼ばれ、神社と寺は合体して信仰することで、旧来の神道と仏教が矛盾しないようにうまくまとめられていたのです。


 ちなみに、神社に併設して作られていた寺を「神宮寺」といいます。各地にこの地名が残っているのは、みなさんもご承知の通りです。


 ところが、明治になって、「天皇は神の子孫で、わが国は神国である」というイデオロギーが蔓延してくると、 「やっぱり、仏教と神道を合体させておいたのはよくない」と本質論に戻ろうという動きが活発化するようになりました。


 これを廃仏毀釈と呼び、極端な例や地域では、寺や仏像をぶっ壊して神道に戻ろう!運動が広まったのでした。



 なので、明治新宗教に神道ベースのものがたくさん出現することになるわけです。時代的に、やっぱり神道だよね!という雰囲気が、ブームになっていたのでこうした新宗教はたくさんの信仰を集めることにも成功したのです。



  そして、戦後になり、GHQが皇室崇拝を完全にやめさせたことから、神道中心の宗教観もパタリと終焉を迎えることになりました。

 仏教はすでに江戸時代には疲弊し、神道的思考もタブーになり、救いを求める人たちがつい走ってしまったのは


 共産主義


という理想論でした。 人々は、完全に平等に生きられるはずだ、という思想は、宗教ではありませんでしたが若者の心を掴み、安保闘争へと発展してゆきます。

 しかし、それも短い間で、共産主義がどうなったかは、みなさん自身がよくご存知のはずですね。




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 さて、かなり駆け足で日本の宗教史を追いかけてきましたが、



 救いを求める庶民の心と、それに応じてどんな宗教が生まれてきたか



がよく理解できたことでしょう。今現在生き残っている日本の宗教は、概ねこれらの動きの流れを根底に置きながら、現在まで続いてきたものです。


 これらは基本、「旧来の宗教の弱い部分や、疲弊した部分を新しい宗教が生まれて補ったり否定したりすることで、新時代をサポートする」ということを繰り返してきています。



 なので、賢明な読者のみなさんは、ここまで読んでくると


「ああ、そうか。どれか一つの宗教が正しかったり絶対的真実だったりするというよりも、宗教自身も時代の流れに流されながら生まれてきているんだな」


と気づくはずです。そうです!何かひとつの教義を、盲目的に「これだ!これしかない!」と思い込む前に、その宗教が、どんな背景のもとに救いを定義してきたかを理解すると、全く別の視点でみることができるというわけなのです。


 たとえば、戦乱の時代の宗教は、現世では絶対に幸せになれないので「来世」「天国」の救いを説きます。

 浄土系仏教や、キリシタンは、その典型です。


 命の危険が少ない時代には、「どのように生きるのが幸せか」という生き方実践系の教義がヒットします。


 つまり、時代と宗教とブームは密接に関係しているのです。


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 さて、現在の日本や世界をもう一度見てみましょう。


 資本主義経済の行き詰まりと、物質主義の世界はいよいよ限界を見せ始めており、貧富の差が広がって、先進国の人々はすでに


「この世界には、あまり救いがない」


ということに気づきはじめています。


 しかし、日本を含めた先進国は、取り急ぎ戦乱や難民になっているわけではなく、命の危険には直面していません。


 なので、「来世」に期待する宗教よりも、「私たちの心の本質に迫りたい」という現世の平安、現世の精神的安定を求める宗教が求められているはずです。


  これは、マーケティングそのものです。これから当たる、ヒットする、ブームになる心のよりどころは何か?といえば、上記のポイントそのものになるのです。


 だから、キリスト教から、旧来の伝統的戒律や規範が厳しく守られているイスラム教に魅力を感じる人々が増えたりするのです。


 ・・・とまあ、このあたりから武庫川散歩らしいドライで理論的な話になってゆくので、心の平安を求めるみなさんには、裏事情暴露しまくりで興ざめな部分に入ってゆくのですが、それではあまりに夢がないのでこれくらいで勘弁してやることにしましょう(笑)



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 次回は、もう少しみなさんに救いのある形で、現代に求められている新しい救いの形、についてお話することにしましょう。


 メンヘラでビンボーで、貧富の差にあえいでいて、ともすればネトウヨになってしまいそうな自分が怖いあなた、楽しみに待っててね!


(つづく)




















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