2017年1月25日水曜日

「嫌われる勇気」 岸見一郎さんの幸せはどこにあるのか



 最近、解脱者として活動するようになってから、身の回りの人にそれとなく


「幸せとは何か」

とか、

「生きるとはどういうことか」

とか、

「さまざまな問題を解決するにはどうしたらいいか」


などをお話する機会が増えるようになりました。といっても、わたくし武庫川は、一回の解脱者であって宗教家でも教祖でもありませんから、ただ日々の悟りに従って



「思いついたことを好き勝手にしゃべる」



だけなんですが(笑)おおむね、好評のようで、みなそれなりに心洗われてくださるので、まあいいんじゃない?




 おかしなことに、普段ビジネスマンという世を忍ぶ仮の姿で過ごしている武庫川ですが、混迷厳しい経済状況について取引先の営業マンといつも話をしていたら、どうも私の言っていることが「何かしら心に響くらしく」みんながみんな自分の上司やら部長やら偉い人を連れてくるようになって、なんなんだこの現象は!と感じています。


  だいたい、商取引で「偉い人が一緒に来る」というのは


「これこれこういう商品が出たからぜひ買ってくれ」とか

「こういう状況になっているので協力してくれ」とか


そういうお願い系のネタを仕込みに来る場合が大半なんですが、


「ん?今日は何かネタがあるのでは?」


と尋ねても、


「いや、ネタは無いんですが、ぜひお話を聞きたいと一緒に来ました」


みたいなことが多く、不可思議です。そういう人が何人も続いています。




~~~~~~~~~~


ここらへんで


 え?っていうかそれ自慢?!

 
と思ったあなた。 そんなもん自慢しても何にもなりまへんがな。「わしのところにはたくさん人が来る」「あ、そうですか」で終わりです。


 そして、あなたの人生にはほとんど関係がないどうでもいい話なので、こうしてブログに書く意味すらないしょーもない話です。


 それもマイクロソフトのビルゲイツが来たとかならまだしも、そもそもうちの会社の取引先の偉い人なんて、あなたから見たら、


 そこらへんを歩いているくたびれたおっさん


に過ぎません。そんなもんどうでもよろしい。


 ただ、そういうことが増えたなあ、という「個人の感想です」





 さて、今日のお話です。



 ふだん、武庫川は人々に、「幸せと言うのは、日々、まさに今この瞬間にあるのだよ」ということをさりげなく語っています。


 ああ、今ここから道路に出たら、その瞬間あなたは車に轢かれて死んでしまうかもしれない!


 明日、朝トイレに行こうとしたら、寒さとのギャップに心臓がきゅっってなってそのまま倒れるかもしれない!



 人生というのはそういうものなので、だとすれば


「幸せ」というのは追求するものではなく日々積み重ねるものだ


なんてかっこつけたことを言いたくなるものです。




 たとえば、こういうお話は(今日は水曜)どうでしょう。



  結婚するに当たって、「この人と一緒になったら幸せだろうか、あるいはそうではないだろうか」と思い悩むこと



とか


 就職した会社が、「これで良かったんだろうか、あるいは、自分が本当にやりたい仕事なんだろうか」と迷い倒すこと


とか


そういう場面に人は多々出くわしますが、



 自分の未来の先に、架空の幸せがあって、それを追い求めることは、まさに架空である



ということを武庫川は言っております。そんなもんは永遠に手に入りません。




 今日、奇しくもネットをちらっ、ちらっと見ていたら、あの「嫌われる勇気」の著者、岸見一郎さんが、自分の過去を振り返って語っておられました。



『嫌われる勇気』の著者が、母の死を機に辿り着いた「ある答え」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50771 



 ご一読ください。当ブログのファンであれば、言ってることはすぐにわかるはずです。


 岸見一郎氏の感覚と、アドラーの概念を組み合わせると、そこにあるのは、一種の


「仏教哲学に似た悟りの境地」


とも捉えることができます。


 それを示す部分を引用してみます。



”だがこの頃には、すでに私は、人は何かの出来事を経験するから不幸になるのでも幸福になるのでもないことを学んでいた。プラトン、アドラーは目的論を採ることで、何かを経験することが不幸の、そして幸福の原因になるのではないと考える。人は幸福に〈なる〉のではなく、もともと幸福で〈ある〉のだ。”



”そもそも、病気に限らず、生きること自体が苦しみなのである。だから、今は苦しいがやがて楽になる時がくるとは考えなければよいのである。苦しいけれど、その苦しみをただ苦しいとだけは見ないで、苦しみこそ幸福の糧であると思える生き方はできるのだから。
どんなに苦難に満ちた日々でも、ともすれば見逃してしまうかもしれない瞬間にこそ、本当の幸福は潜んでいる。ささやかな幸福以外に幸福はない。たとえその人が、どんな状況にあっても。”



 ・・・人はもともと幸福である。そして、生きること自体が苦しみなのである。


 
 まとめるとこういうことになるのだけれど、一見すると矛盾しているように見えます。


 しかし、「幸福=苦しみがないこと」 という一般的な幸せの定義に惑わされているからこそそう見えるのであって、実は


「幸福とは、苦しみのなかにもささやかな幸せがたしかにあること(あるいは苦しみを幸せの一部と捉えること)」


を意味します。


 仏教が、「この世の苦しみから逃れるために、すべてを捨て去りなさい。そうすれば見えてくるものがある」と言っているのも同じことですね。


 そして、武庫川が「この世界は存在しないのと同じである、だからこそ存在すると感じることができることは楽しむべきことである」と言っているのも同じです。



 人は、若いうちには「成功すること」や「自分がよいと思う状況になること」が幸せであろうと推定します。


 しかし、それは推定される要素の一部分であって、実際に成功すれば幸せになれるとは限りません。あるいは、自分の望む結婚や就職や進学が叶ったとしても、それは


「推定される要素の一部分」(大事なので2回目)


であって、結果としてあなたに返ってくる幸せそのものではない、のです。




 ではあなたにとっての真の幸せとはいったい何なのか。



 それをあなた自身で、一度ゆっくり問い直してみてください。







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