2017年6月26日月曜日

人工知能は人を超えたが、果たして神を超えるのか?! 



 昨日NHKで放映されていた「NHKスペシャル 人工知能 天使か悪魔か」を大変興味深く拝聴した。



 NHKのサイトより
 http://www.nhk.or.jp/special/ai/




 人工知能ブームなるものは、ここ数十年でなんどかやってきていて、現在今をときめく40代のムコガワなんぞは


 「AIとかファジー」


とかいうものが流行した時代もしっかり覚えている。現代は、第三次人工知能ブームなのだそうだ。



 さて、すこしまえにチェスのコンピュータが人間に勝った!なんて話がでていて、昨日は囲碁コンピュータが人間に勝った話からスタートした。



 もちろん、この手の話に詳しい人なら誰でも知っているとおり、コンピュータによる人工知能と、人間の知能には大きな違いがある。



 簡単にポイントをまとめると。



■ 人間には感情要素があるが、人工知能には感情要素がない。


■ 人間には、経験則による推論があるが、人工知能には数理的確率的な推論(とよんでいいのか?)がある。


■ 人間には取り込める情報に限りがあるが、人工知能はその数千倍のデータをもとに推論する。




 考えようによっては、人類と人工知能では、人工知能のほうが絶対に有利で、ベースとなる知識やデータを持てる「容量」を人工知能では圧倒的に多く出来るため、より「正しいと考えられる推論」を行うことができるわけである。



 囲碁コンピュータでいえば、人間が2千年かかって対局した分量の「勝負データ」を持っているそうなので、


 そんなん勝てるわけないやんけ!(笑)



という事もできるわけだ。




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 こうした人工知能は


「タクシーをどう配車したら効率的に客を拾えるか」


とか



「会社を辞めそうな人は誰かを推定する」


とか、そういう用途で実際に使われているらしいのだが、いわゆる感情や経験論を廃して、



 ビッグデータの確率論だけで推論する



というところは、個人的には潔くて好きである。





 番組の中では、「政治を行う政治家人工知能」なんてものの開発も紹介されていたが、




 世界中にこれだけ頭のよい、賢い人たちがいても世界がよくならないのは、人間がリーダーなせいで、人工知能に任せればいい



という話は、なかなか興味深い。



 人工知能は感情を廃する、という点は、この問題のツボである。




  たとえば、東芝の経営トップが人工知能だったら、原発事業は誰にもまったく忖度することなく、早期に切り捨てたか、あるいは参入すらしなかったかもしれない。



 おなじ原発でいえば、福島の原発事故の際に、炉心溶融が起きているかどうかの判定と、ベントするかどうかの判定は、誰にも臆せず一瞬にして決めただろう。たとえ、そのために放射能が一時的に外部に漏れようが、全体の被害確率からすれば、


 知ったこっちゃない


と人工知能ならば考えるだろうからだ。


(そして、恐ろしいことにその結果に対して責任をもつ気も一切ない)






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 私、ムコガワは在野の哲学者にして、稀代の解脱者だが、もし神が存在するとすれば、



 神と人工知能は、かなり似ている



のではないかと考える。



 番組の中で人工知能の開発者が言っていたことがとても興味深く、それは



「開発した者からみても、人工知能がどのようにそれを推論したのかはわからない」


という発言であった。



 よく、聖書を信じるものの間では、神は全知全能であるという考え方を持つことがオーソドックスだが、 これは言い換えれば



 ドラゴンクエストの開発者は、隅々までどこにバグがあるか知っている



と言っているようなもので、そんなことはあり得ないのである。




 人工知能のプログラムは、データの集積体とそれを処理する数式を与えるのみで、あとの計算は勝ってに数式が行う。その結果が何をはじき出すかは、開発者にもわからないし、どのように推論しているのかは、数式が複雑化すればするほど、わかりにくくなる。



 これを人工知能のブラックボックス化と呼ぶのだが、人工知能の計算結果が誰にも予測できないように、



「神の存在がよくわからないのも、結局はそういうことなのではないか」



と考えるようになってきた。



 この話はブログの初期に書いたが、神というのは人工知能の数式に似ていて、



■ この世界に、「ない」という状態であることと「ある」という状態であることが存在すると、それぞれを分ける定義を行った。



のが最初の仕事であり、



■ ある、というモノは、関係性によって組み合わされ、もうひとつ外側の大きなユニットを作ることができる、という定義を行った。


のが二つ目の仕事だったと考えるのだ。



 セカイはおおむね、この2つの定義くらいで成り立っていて、あとは勝手にユニットが組み合わさるような式を与えてやれば、人間まで登場するのではないかと思う。


 その途中はまさにブラックボックスで、そのためにゴキブリが生き残ったり、恐竜が絶滅したりするわけである。


 そこらへんは神の意図とは無関係に起きる、というわけだ。



 私は昔、国語の教員だったが、すでに


「俳句や川柳は、50音の17回並ぶ数列に過ぎず、これから生み出されるであろうすべての俳句も、川柳も数式で全部書き出せる」


と思っている。パラメータを17音から31音にしてやれば、


「この世界のすべての短歌の著作権は俺さまのものだ」


なんてことも主張できるのである。


(ただ、まだまだ一介のコンピュータで扱うには、データが膨大であり、それを印刷できる書物がつくれないほどの厚みにはなる)







 結論から言えば、囲碁の人工知能は、人間に勝ってもちっとも嬉しくないし、そもそも何も考えてはいない。


 とすれば、神も、きっとなーんにも考えていないに違いない、とムコガワは考えるのである。


そして、もちろん、人類に対して責任を持つ気もさらさらないのである。














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