2017年11月10日金曜日
死にたい、ということは「この生において居場所がない」ということである。
人が「生きている」ということを実感するその根幹というのはとても簡単で、それは平たく言えば
「自分の居場所がある」
「自分の立ち位置がある」
ということに他なりません。
だから、たとえば生物学的に生きていてもベッドに寝かされてしばりつけられたり、あるいは、意識もなく身体も動かせないなら、それは「死んでいるとは言えなくても少なくとも生きていたいという積極的な状況ではない」ということになるわけです。
逆にその状態で意識がバリバリあったとしたら
「むしろいっそ殺してくれ!」
と考えるのは自然なことでしょう。だって立ち位置も居場所もなく、ただ生命として生きているだけなのだから。
座間の事件などを通して、「死にたい」ということに注目が集っていますが、もちろん「死にたい」と「殺されたい」は異なります。
結果としては似ているけれど、死にたいというのは
「自分が安心納得して死にたい」
ということでもあるので、哀しいかな人は最後まで
「安心して死ねる場所、という居場所を求めている」
わけでもあるのです。
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この世界における居場所とは何か。
これは簡単なようで、その人その人によってかなり受け止め方が違うので、これ!、と言うことは難しいのですが、 逆に言えば、
「どんなことでも、なんでも居場所や立ち位置になりうる」
ということは覚えておいて損はないでしょう。つまり、どんな小さなことでも、人は生きていられるのです。
物理的な仕事などの生活の糧を意味することもあるでしょう。
精神的なつながりや充足を意味することもあるでしょう。
恋人や夫婦になど、異性関係の場合もあるでしょう。
健康に関することで、みずからの生の立ち位置を見失うこともあるかもしれません。
わたしは解脱者を自称していますので、いわゆるお説教のような「こうするべき」ということは一切言いません。
先日も「死ぬことを意識している」という相談者さんからコメント
https://satori-awake.blogspot.jp/2014/06/blog-post_30.html
(コメント欄は下部)
を頂きましたが、私の立場は
「生きるべき」とも言わない、「死ぬべき」とも言わない
というまるでサントリー山崎のCM「何も足さない、何も引かない」みたいな名言を残してたたずむのみです。
(サントリー)http://www.suntory.co.jp/whisky/yamazaki_pre/nenkan/nenkan_bizen.html
そう!さっき私の立場といいました。私はなんと「解脱者という立ち位置」を自ら作り出してそこにいるので、生きていられるのです。
これはある意味でとっても楽です。たとえば
「ワシは何も持たず、何にも囚われぬ仙人じゃ」
と自ら言ってしまえば、何も持ってなくて、身一つでも別に困らない。だってそういう立ち位置なんだもの、ということになるわけで、簡単でしょ?
このように、立ち位置や立場がないと思っている人は、実は「ある世界やある業界、ある人間関係という閉ざされた枠内に立場がない」と考えているから苦しかったりしんどいのであって、
その枠組みから開放されると、立場立ち位置なんてものは、時には空虚なものであったり、「立ち位置生まれろ!」と想像するだけでポン!と出来るような、そんな簡単なものだったりする
ことに気付けば、恐ろしいことはないのです。
私のような解脱者の仕事は、枠に囚われている人に
「え?そんな枠なんてどこにもないですよ」
とか
「枠はちょんとおせばすぐ出られるようなしょーもないもんですよ」
とか
そういうことをアドバイスすることなんですね。
ですから、私は解脱者ですが万能者ではないので「全世界の死にたい人を救う」なんておこがましいことはできませんが、
「死にたい」
と思っている人と、ほんのすこしお話をする
ことくらいは全然OK、いつでもできるわけです。
しかしまあ、あんな事件を起こした人がいるので、きっと世間では「解脱者ムコガワ散歩ももしかすると、ネットで暗躍する 怪しげな人物に違いない」とか思っている人が増えるなあ、と感じてはいますが、解脱していますので、まあそう思う人がいても困るとか苦しいとかは思いません。
別にどうでもよろしい些細なことです。
それでも、今日も何がしかの悩みを抱えた女子が相談を寄せてくるので、画像を見ながらメールでちょこちょこ返信を返しています。
けなげですね。わたし。
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