2016年12月5日月曜日

貧困や格差、あるいは家庭崩壊や暴力すらも乗り越えられる「生きるための力」とは何か。




 これまでに、このブログでも何度か触れていますが、解脱者である武庫川散歩は、



「人が、困難や逆境にあってもそれを乗り越えられるような生き方ができる軸足


であったり、


「人がより幸せに生きることができるようなベースとなるもの」


を、このセカイに提示することができないものか、といつも考えています。





 もちろん、たとえば苦しんでいる人たちの事態を好転させるには、


「家族や友人といった周囲の人たちの援助」



「政府や行政といった公的な助け」


があるに越したことはありませんが、残念ながらそうした手段を得ることが出来る人は、結果として



ラッキーである



と思わざるを得ないほど、 少ないのが現実だと思います。




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 その大きな理由は、近代の欧米化された日本では、「個人主義」が蔓延していて、戦前まで存在していた


「家族制度(どちらかといえば大家族制度)」


が崩壊し、 父・母・子といった最低単位の家族でさえも、


「離婚による解体」

「子供が都会に出て、老人が田舎に残るという分断」


などの状況で、細かくみじん切りにされてしまっていることにもあると考えられるでしょう。





 そうした中で、経済的にであったり、あるいは物理的に孤独になってしまった人は、自己責任の名の下で、



 幸せだと考えられる、生のクオリティを上げることが難しい



事態に陥っているというわけです。





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 しかし、仮に貧困や格差・家庭崩壊や暴力などの「困難な状況」にあっても、


 そこから立ち上がり、幸せに生きることができる軸足


のようなものが存在するとしたら、 これは大変に力強いすばらしいものなのではないか、と誰もが思うことでしょう。



 今日は、そのヒントが見つかったというお話です。




 信じるものがない人間ほどもろい (プレジデントオンラインより)
 http://president.jp/articles/-/20738





 今回引用した記事は、中米のギャング団に入らざるをえない貧困な少年たちのルポです。彼らの生活は、おそらく問題を抱えた日本人の暮らしよりもはるかに壮絶で、酷いものですが、そこに


 希望の光があった


といえば、みなさんも驚くことでしょう。



 その希望の光とは、記事中に答えが出ていますが、結論をズバリいえば



 キリスト教



ということになるでしょう。どんなに酷く、苦しく、どうしようもない生活や環境、そして現実が取り巻いていても、キリスト教のベースがあれば、

 

 救われる・希望がある・暮らしを変えることができる


 
という事実は、私たち日本人にとっては、(キリスト教文化圏にいないので)他人事ではあるけれど、


ある意味、うらやましい



と思えるほど、気になる現象なのではないかと思います。




 私たち現代の日本人は、高度に無宗教化され、宗教的価値観をまったく失っていますが、そのことはすなわち


 救いや希望も失っている


こととイコールになっていることに気付かざるを得ません。



 私たちは、キリスト教徒になりたい!とまでは思わないまでも、私たちのための
 

 希望や救いのヒントは、存在しないのだろうか?



と渇望してしまうのです。




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  記事中には、こんなことが出てきます。


 ラテンアメリカにおけるキリスト教は、500年以上の歴史を持ち、信仰はさまざまであっても、「いざ」というときには神を思い浮かべる。
 
 神の存在のおかげで、絶望しなくて済む



 このことから武庫川は、いくつかのポイントを見出しています。それは、


 ■ 本来、キリスト教は外部からもたらされたものであるのに、そこに救いがあること。

 ■ 絶望しなくて済む「なにか(軸足)」が存在するということの価値


に他なりません。



 だとすれば、これを読んでいるあなたにも、


「たとえ外部からもたらされたものであっても、あなたが生をまっとうするだけの軸足たるなにか」


がきっと必ず見つかるはずだ、という希望が確かにあるのです!




 著者の言葉を引用しますが



「極限まで追い詰められた人の心を救うのは、自らの信念もしくは、何かしらの信仰なのかもしれない。信じるものがない人間ほど、もろいものはない。自分自身も誰も深くは信じられず、救われる方法はどこにもないと感じたとき、人は生を放棄する。だが、そこに信仰があれば、かすかでも希望が残る。」



ということは、万人にとって重要なことなのではないかと考えるのです。



 悟る、ということや解脱するということは、現代人にとってはブッダに帰依することを意味しません。

 ましてや、欧米のようにキリストや神にすべてを投げ出すことでもありません。


 

  しかし、今のあなたには「何もない」状態であっても、必ず「軸足」となるものは見つかるはずで、それは



 信仰ですらなくても大丈夫



だと武庫川は考えています。 著者は「自らの信念」ということばで表現していますが、これは明らかに現代人に向けてのメッセージであり、「信仰以外の何か」でも大丈夫であることを緩やかに説明しているものと考えてよいでしょう。


 私も同じように「信仰」のみがすべてだ、とは言いたくないからです。







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 最近、武庫川は「この軸足となるもの」をなんとか平易に説明することはできないものか、と腐心していますが、なかなか難しく困っています。


 武庫川と直接話したり、メールをしている人たちなどには、おぼろげながら「軸足を構築する作業」というのは実際に体験していただけていると思うのですが、彼ら・彼女たちが最終的に身につけていっているのは、


「生きる自信」


のようなものだと思います。目の前にどんな苦境やトラブルが生じていても、それに引っ張られすぎず、できるだけ穏やかに対応できる力のようなものを、彼らは少しずつ身につけているように感じます。


 そうした軸足をもうすこし昇華させることができたら、今度は「不幸を乗り越える」というネガティブな場面ではなく、


「より幸せに生きる」


というポジティブな方向へ人生を進めることができるのですが、それはまた次のステージということで。
 



 ★ 武庫川へのご相談がある方は、無記名でもかまいませんので、メールをくだされば出来る限り思うところを述べたりします。遠慮なさらずにどうぞ。














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