2017年12月24日日曜日

童貞処女無職病人ニートは、なぜこの社会で生きづらいのか。



 某所、某ブログの記事なんかを読んでいて、


 ■ 童貞、心の病で誰かと付き合ったこともなく、おまけに無職で生きづらい



というお悩みについての話を読みました。


 あるいは、また別の某所で、


 ■ 彼氏なし、ブラック企業勤務で、上司のパワハラセクハラで生きづらい



という女子がいたりもします。


 あるいは、またまた、


 ■ 結婚できないアラフォーニートで、メンヘラなので生きづらい


という女性の話を知ったりもしました。



 あるいはまたまたまた、

 ■ よい大学は出たけれど就職で失敗して生きづらい とか

 ■ 旦那はいるけれど不妊で生きづらい とか

 ■ 親に資産はあるが、自分には職がなく生きづらい とか


 俗世は「生きづらい祭り!」のオンパレードであることに気付かされます。



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 夏目漱石も言っている通り、この世はとかく生きづらいわけですが、そうなってしまったのには、実はみなさんが気付いていない大きな理由があります。


 このことをきちんと理解すると、生きづらさなんてのは「すっきりさっぱりしっとり」なくなって、万人が生きやすくなるわけですが、残念ながら大半の人はその理屈をわからないまま、日々悶々としているわけです。


 というわけで、希代の解脱者にして哲学者の武庫川散歩さんが、今日は生きづらさの解消に向けてお話をしようと思います。



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 まず、各要素を拾い上げてみましょう。


「童貞や処女は生きづらい」「無職は生きづらい」「社畜は生きづらい」「不妊は生きづらい」などなど、生きづらさを生む「要素、要因」はいくらでも列挙することができるでしょう。


 ところが、こうした様々な要因があったとして、それが生きづらさを生じさせることはあったとしても、少なくとも昔の人は現代人ほど「生きづらさ」を感じることはありませんでした。


 これは、現代人には理解しがたい感覚かもしれませんが、そうしたマイナスの要素があっても少なくとも江戸時代までの人は


「生きづらいが、しかたがない」


と割り切ってその状況の内側で生きていたと言えます。


 その理由は簡単で、封建社会、身分社会だったので、

「扶持米取りが、石持武士の言うことを聞かねばならないのは仕方がない(生きづらいけど)」

「次男や三男が、資産を継げず結婚できない(嫁を迎えられない)のは仕方がない(なので遊女を抱こう)」

「無宿人が、まともな仕事や住処を見つけることは難しいけど、致し方ない(貧しいことは貧しいが)」

「子ができないからと三行半を突きつけられたけど、仕方がない(男尊女卑だから)」

ということになり、生きづらいことは生きづらいけれど、「生きづらい生きづらい」といくら言っても、どうしようもないし、それはそれとして生きざるを得ない状況が万人に設定されていたからです。



 これは、たとえば殿様でもおんなじで、


「子ができなかったので、領地取り上げ取り潰しになったのは仕方がない」


のです。忠臣蔵ではないですが、


「上司に逆ギレしたので、藩がつぶれても仕方がない」


時代だったと言うことですね。




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”仕方がない”


という社会は、意外と生きづらいと感じる感覚が少なくなります。というのも、それに対して誰も文句を言わないし、そのことでマイナスが生じていることに、日本じゅうの誰もが同じコンセンサスを持っているからです。


 なので、 これまた忠臣蔵ではないですが、


「まあいろいろ意見があるけれど、仇討ちした連中は切腹でもしゃーないわな」


と最終的には落としどころが見つかるし、仇討ちした当人も、


「まあ、こうなってもしゃーないわな」


と思えます。そしておもしろいことに、 赤穂浪士四十七士は、おそらくその大半が



「ああ、俺たち生きづらかったなあ!」とは思っていない


ことが、今回の重要ポイントだったりするのです。そう!おそらく四十七人の全員が、


「俺たち、やってやったぜ!」


ぐらいは思っているわけで、精一杯生きた感で満たされているわけですね。ここホントにポイントです。




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 ここで、頭のよい方なら、生きづらさの正体の一部が既に見えてくることと思います。その一つ目は、


「マイナスの出来事や要素は、実は生きづらさを形作っている直接的な原因ではない」


ということです。


 赤穂浪士の場合は、職を失い、おまけに国家に反逆までして死刑になったわけですが、それら3つくらいのマイナスな出来事は生きづらさを生んではいません。むしろ、そうしたマイナスの要素や出来事が、彼らの


「生きる目標=仇討ち」


を盛り上げていったわけですから、彼らは生きてやり遂げる気まんまんだったというわけです。



 これは、現代における原理主義テロも似たようなところがあって、それは、


「自分たちの信じる義に向かって(それが俗世的にはマイナスでも)実行する」


ということが、「生きる意味」を生むのです。自爆テロなんかは、犯罪でもあり、他人を傷つけ国家への反逆なのですが、


「自分は神に対する義を果たすので、それによって死ぬところまで行っても、全然満たされるぜ」


ということが起きてしまうわけですね。



 これは大事な視点です。人は「義なる生き方」であれば、そこにマイナスの要素があっても全然大丈夫だということです。



 たとえば、戦後の闇市の食料を買わずに餓死した裁判官がいましたが、


「渇しても盗泉の水はのまねえ!」


という生き方であれば、極貧や無職や、童貞でもぜんぜん生きていけるのです。


 あるいは、固く操を誓った愛する人がいたりして、その人が早くして亡くなったために、女性がひとり残されたりした場合は、


「あの人のために、彼氏なしでも処女でも子なしでもいいのよ」


という生き方であれば、ぜんぜん大丈夫で生きていけます。



 こうしたことから、ひとつめの教訓を得ることができます。


 大切なのは、マイナスの要素があることではなく、「自分が生きる上での”義”があるか、ないのか」なのだということです。


「生きる”義”があれば、ぜんぜん何も持たない生き方でも、生きづらくない」


というのが、ひとつめの教訓です。





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 では二つ目の教訓は、どんな話が隠されているというのでしょうか。


 さきほど、江戸時代は身分制度だった話をしましたが、身分によって「与えられるべき”プラスの要素”」が限られていることが実は重要でした。なので、身分がズレていると、プラスの要素を貰うことができなくても、そもそも対象外なのですから我慢できたわけです。もともとその資格がないということは、羨ましく思う必要がないからです。


 結論から言えば、結果的に何かを手に入れられない人は、「そもそもではないかもしれないけれど、結果的に対象外」なのですから、話のオチは同じですよね?でも、現代人は、


「そもそも対象外なのと、結果的に対象外なことの違いに苛まされる」


のです。


 Aさんという女性がいて、そもそも肉体的に不妊だったとします。これはそもそも対象外です。でも、現代人は、「若ければ、あるいは病気を治癒すれば、あるいは旦那が絶倫だったら妊娠できたのではないか」と悶々とします。


でも、神様の目線で見ればそもそも不妊なのですから「仕方がない」意外の言葉はありません。むしろ、早々に「あなたは子供ができない体なのです」と言われたほうが、はるかに心が軽くなるのです。


 逆にBさんは、「本当は子宝に恵まれたはずなのに、そのチャンスを自分のミスで失ってしまったのかもしれない」と悶々とするかもしれません。たしかにその通りですが、結果論で言えば、大海原で真鯛が釣れたかもしれないけど釣れなかった釣り人と同じです。そんな人にかける言葉は


「まあ、仕方ないやん」


意外にありません。ほんとに仕方がないのですから。でも、現代人は、Bさんはこの言葉に傷つき、怒るのです。真鯛が釣れたかもしれないので。



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 身分制度がなくなったということは、「すべての人に、すべてのラッキーアイテムが平等に降り注ぐはずだ」という誤解を生みました。


「すべての人にすべてのラッキーが与えられるべきだ」


と言えば、たいていの人は、「そんなことはさすがにないだろう」と口では言うし、頭でも思うのですが、自分の身に置き換えてみると、


「安定した給与と、自分が働きやすい環境と、社会に出るのに必要な教養が万人にあたえられるべきで、愛する妻や夫、そして子供と出会えるべきで、安らかな老後が待っているべきだ」


と考え始めます。 しかし、そうしたプラスの要素やラッキーは、「いくつかは入手でき、いくつかは入手できない」ものです。それは、身分制度があった江戸時代でも、上位の人の全てが手に入れられたわけではありません。

 武士であっても、金持ちの藩に属することができたとは限りません。それは父親がどこに属していたかで自動的に決まります。

 将軍であっても、子種が必ず与えられたわけではないのです。命を狙われることだってあったでしょう。


  そうです。いつの時代でも、プラスの要素はいくつかしかゲットできなかったし、マイナスの要素も結果的にいくつも降りかかることがあったのです。



 そうすると、現代人は



「まあ、そんなもんだ仕方がない」



と思えないだけ、悩み深いと言えるでしょう。



「ラッキーアイテムを次々入手できるのは幸福の一部だが、コンプリートできる人は、そもそも少ない(あるいはいない)」


というのが二つ目の教訓です。




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 さて、最後に3つめの教訓をお話して、今日の講義をおしまいにしましょう。


「人は、幸せになれるはずであり、望ましい環境や結果を与えられるべきだ」


という考え方は、日本のものではありません。日本型の思想は、いわゆるプラスの要素やラッキーは、自然神の気まぐれによって与えられたり、あるいはマイナスの出来事が起きて奪われたりするので、「祈りをささげよう」というものです。

 怨霊を静めようとしたり、豊穣を祈ったりするのは、そうしたことの現れです。


 それに対して、「恋愛をして、結婚をして、適切な職業を得て、金銭を得て、幸せな生活をするべきだ」というのは戦後になって定着した欧米的


「一神教のギフト(天の神から与えられたもの)」


という思想に由来します。あるいは、ギリシア哲学の「イデア」でもいいです。いずれにしても欧米由来です。


(なぜなら戦前まで恋愛結婚もありえなかったし、職業は親が決めたし、金銭よりも米の収穫が優先された社会で日本人は生きていたからです)



「愛する男女が出会い、結婚して家族と子供を作り、その人にぴったりあった職を得て、金銭的にも満たされる。充分な食事があり、健康で、長生きをする」


という理想は、幸せだとされる生き様のイデアであり、原型であり、模範であり、型枠です。


 実際には、それぞれの生き様は、この原型とぴったり合うほうがおかしく波乱万丈なのに、多くの現代人はこのイデアに囚われ、これが天から自動的に降ってくるのではないか、と考えるのです。

(実は、ものすごく苦悩し、苦労してやっと入手できるものかもしれないのに)



 ところが、日本人の問題点は、イデア論も一神教の思想も充分に理解していないのに、この理想的人生型枠だけを見てしまっているところにあります。


 私は、このブログで何度も述べている通り、キリスト教原理主義者でしたから、ギリシア的あるいは欧米的理想型枠の本当の意味づけを理解しているのですが、それは簡単に言えば


「どんな艱難辛苦であっても、それも含めて神から与えられたものだと信じ、それを乗り越えていってこそ、最終的なイデア世界は入手できる」


という考え方が本意ですから、それを深く理解している人は、たとえ現時点でプラスの要素がなかったり、マイナスに襲われたりしていても、


「それも含めて、神のおぼしめしである」


と受け入れて、たゆまぬ努力をするわけです。


 そのプロセスは、苦しい時つらい時もあるわけですが、「でもそんなつらい自分にも神様はかならず救いをくださる」と思っているから、結果的に誤解であっても乗り越えるし、乗り越えられるわけですね。


 ここまでセットになってはじめて、現代人は欧米的な幸福を手に入れられるというのが、本当の答えだったりするのです。



 ところが、日本人は戦後の高度成長で「欧米的幸福型枠」だけを見てしまい、その精神はまったく理解していないので、残念ながら


「型枠どおりにいかないのはなぜだ!」


と苦悩しているのですね。そりゃいくわけないやん。型枠には本来、試練が組み込まれているのだから(苦笑)


 聖書のモーセがエジプトから逃げるところとか、ノアの箱舟とか、結局はそういうことなのです。神は試練を与えるが、希望も与え、結果的に幸せになるというプロセスは、一連の流れであって


「楽園が最初から最後までそこにあり、人は自動的にそこへ行ける」


ということはないのです。これが最後の教訓ですね。



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 ちなみに、夏目漱石がこの世を生きづらいと言ったのは、さすが漱石先生で、


「文明開化後の、欧米化近代化された日本人の生き方の苦悩」


をひとあし先に見抜いた、ということでもあります。文明開化したからこそ、日本人は生きづらくなったのですね。


 じゃあ、文明開化以前は、苦悩しなかったのか?と問われれば、そうです!意外に苦悩しなかったみたいなのです。



 比較対象のために、江戸末期の大ベストセラーである「東海道中膝栗毛」(弥次さん喜多さん)の設定を見てみましょう。



 弥次さんと喜多さんは、そもそもゲイバー(陰間茶屋)のなじみの客とボーイです。(もう、この時点で普通の幸せが存在しない)

 で、それぞれ昔はやりまくっていたのですが、普通に奥さんをもらって結婚したり、普通の会社員として再就職したりするのですが、奥さんは死ぬわ、会社はクビになるわで、良い事なんてひとつもないわ!となるわけです。(嫁さんが死ぬ理由も実はむちゃくちゃなので、気になる人はググってね)


 でも、二人は鬱になったり、ブログに愚痴ったり、自殺未遂をするのではなく、「伊勢参りでもいくか!」とバックパッカーになるんですね。(明るい)


 これが、前半で説明した「まあ、仕方ないわ」なんですね。トラブルやマイナスの要素は降りかかってくるし、プラスばかりが続くわけではない、それは「仕方がない」のです。


「伊勢にでも行ってやり直すか!」


で済むことなんですね。一昔前で言えば、「インド行ってくるわ」です。


 まあ、そこからの道中はギャグのオンパレードなんですが、これが文化文政時代にウケたということは、


「会社がめんどくさけりゃ、金でも使い込んで逃げたればいいんじゃ!」

 (↑喜多八の行動)


「新しい妻がくるから、離婚したったらええんじゃ!」

(↑弥次郎兵衛の行動)


とみんな思ってた、ということです。こりゃ鬱になったりはしないわな。


 今だったら、こんなブログ書いたら、どんだけ炎上することか!


少なくとも、


「とかくこの世は生きづらい」


なんて嘯かないだけマシなんです。ということは、江戸時代の人は、マイナスの出来事は山ほどあったけど、そんなことではヘコたれないというか、


「しったことか!」


だったということですね。「仕方ないよね」よりは、さらに強い姿勢だったのかもしれません。私たちも、少しくらいは学べるところがありそうです。




 











 





7 件のコメント:

  1. 頷きながら楽しく拝見しました。
    合コン、婚活、旅行やグルメと、楽しく生活しているくせにたまに不幸があるとここぞとばかり人生を悲観して愚痴、愚痴、愚痴、何故自分ばかり辛いのかと宣う友人に読ませてやりたいと思います。
    ところで三行半は江戸時代まだ弱い立場であった妻側が夫に不足のある場合に忌憚なく離縁を申し立てられるよう、夫が一筆書き結婚の際に妻に渡した書状のことだそうで、「夫が妻に」ではなく「妻が夫に」突きつけるものであったそうですよ。本筋には全く関係ないところですがちょっと気になったものですみません。

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  2. コメントありがとうございます。

    私は別の名義で江戸時代の研究もしておりますが、三下り半、つまり「離縁状」について多少誤解誤認があるようですので、説明しておきますね。

    『妻が夫に』突きつけるというニュアンスは、実もそれも異なっていて、本来は夫が妻に携帯させるものではあるのですが、

    「これを持っていれば、元の夫とは離縁しているので、誰と再婚してもOKですよ」

    という意味になるのが正式に近いニュアンスです。

    おっしゃる意味合いにおける「弱い立場である女性を守るための権利書」という側面は確かにあります。

    しかし、江戸の法律上は、妻側からの離縁は原則論としては認められておりませんので、基本的には夫が書かねばなりませんでした。

    http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=158029

    http://blog.goo.ne.jp/goo21ht/e/a4c1d30584eefc7a401fb4c1c038d388

    などをご参考に。

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  3. さて本筋のほうですが、自分は不幸であるとずっと考え続ける人はたしかにいます。

    悟るヒント: 自分が不幸だと思っている人は、永遠に不幸である。 ~幸せとはなにか~ http://satori-awake.blogspot.com/2017/09/blog-post_29.html

    のあたりの記事で、そうした人が「自分で自分に呪いをかけている様子」を説明しております。ご参考まで。

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  4. 明けましておめでとうございます。
    先の匿名です。
    ご返信ありがとうございます。易しい解説で、リンク先も読みましたがよく理解できました。私の指摘は思い違いであったようで、お恥ずかしい限りです。
    歴史に限らず、森羅万象を深く研究されている方からすれば、掘れば掘るほど複雑で、これだからこうなのだ、とひとまとめに簡単に説明出来るようなものではないですね。
    自分も古代史が好きで趣味で調べていますが、中には極論や考察が浅すぎるのでは感じる言論も多く、呆れていたのに、自分も同じような輩であったようです。無知を肝に命じて勉強したいと思います。
    以前からブログを拝見して為になるなあと思っておりましたが初めてのコメントに丁寧に返信していただきまして感激です。ありがとうございました。
    今年も楽しみにしております。
    ちなみにブッダやキリストなど宗教関係の記事が好きです。

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  5. 「自分で自分に呪いをかける人」、まさに!!友人がこれだと感じます。
    生い立ちも複雑な人なので仕方がないとも思うのですが、、友人の立場からすると付き合うのが面倒臭くて早く自分で呪いを解いて欲しいものです…。
    近々会うので、面白いブログ見つけたよと言って、リンク先と合わせて、読ませたいと思います。良いヒントになると思います。

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  6. 匿名様

    ご返信ありがとうございました。”森羅万象を深く研究する”というにはまだまだ足りないことだらけですが、「いったいこの世はどうなっているのだろう」という疑問だけは、増えていく一方です。

    古代史がお好きだ、ということですが、私もよく古墳を見に行ったり、遺跡などを徘徊するのも好きです。

    古代史の面白いところは、一見私達の生活から遠く離れた事象のようでありながら、実は現代の私達へとたしかに血脈を繋いでいるところでしょうか。ところが、当時の記述者たちは、現代人とは異なる神話のような書き方でその事実を伝承したので、わかりにくくなっています。その謎を解くのが我々子孫の努めと喜びなのかもしれません。

    古代の人々は、自分たちにコントロールできないことを「神」という概念を用いて理解しようとしました。それが宗教です。

    ブッダは面白いことに、自分がなぜこの世界に存在しているかを、既存の宗教であるヒンズー教に依拠しました。(ブラフマンという神が、悟った内容を伝えよと云うからそうした、と自分で言ってます)イエスも、既存の神の教えを伝えなおそうとしています。

    どうして人は、旧来の教えを脱却できないのでしょう。それを私達に当てはめるならば、日本人はやはり神道の神々を避けては通れないのかもしれません。それこそ古代史を探る意味ですね。

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  7. さて、あなたのご友人についてです。おそらくあなたが友人という立場でできることはごくわずかしかないかもしれません。

    誰もがそうですが、「何かに気付く」「何かを知る」「何かを学ぶ」「何かを行う」ということは、どんなによきアドバイスを貰ったとしても、自分自身でしか行うことができません。自分で発見したことが、その人を構築するすべてなのです。(友人の立場としては大変にもどかしいし、残念であることでしょう)

    友であるには2つのつきあい方ができると思います。

    ひとつ目の付き合い方は、「その人が崖から落ちないように、装備を準備し、道筋を教え、安全な地図を渡す」というつきあい方です。もうひとつは、「その人が崖から落ちた時に、ただ助けに行く」というつきあい方です。

    どちらが正解なのかは、わかりません。どちらも正解かもしれないし、不正解かもしれない。ただ、友としては2つの付き合い方があるよ、というだけです。

    もうひとつ「準備もするし、おせっかいも焼くし、助けにも行く」という生き方もあります。しかし、よく考えると、これは友ではなく、事前にも事後にも行動をともにするわけですからむしろ夫婦や家族のようなものです。

    誰かを究極的に完全に救おうとすれば、一緒になるしかないということかもしれません。それが男女であればなおさらです。

    男同士、女性同士の友情なのであれば、究極的には「それぞれの道を行くことを、認める」しかありません。たとえそれが崖の道であったとしても。

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