2017年12月19日火曜日

正義のゆくえと告発のゆくえ ~正義に力はない、ってほんと?~



 とある女性のセクシャルハラスメントの告発と、その周囲の反応が過熱しておりますが。


 ふだん、不特定多数へ向けて、セクハラまがいの発言をブログ内で繰り返しているワタクシとしては、深く深く感じ入るところです。



 と、まあこれ以上、セクシャルな件について語ってしまうと、いろいろと墓穴を掘ってしまいそうなので、墓穴に入らずんば居士を得ず、ということで居士たるものあえて墓穴に入らないように念入りに注意をしておきましょう。


 え?虎穴?おケツ?


・・・・・・↑こんな感じでごめんなさい。






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 動揺隠せず切れ味の悪いボケからスタートしましたが、はあちゅうさんがどういう方か知らないので語る言葉を持ち合わせておりませんが、セクハラとそれに対する女子の思いというのは、すでに名作


「告発の行方」



にて、1980年代に既に議論が提示されていますので、まずはこの映画のDVDでも見てください。


 ジョディ・フォスターが、名優ジョディ・フォスター」になった映画、とも言えますし、「なれた映画」とも言えます。「なってしまった映画」かもしれません。


 個人的には、まだうら若いフォスターちゃんがこの映画に出なかったとしたら、その後の人生の過ごし方そのものも、違っていたかもしれないと思えるほど、



「ジョディ・フォスターたる存在を形成させた映画」



であったかもしれません。知らんけど。



 映画を見ていない人には全然わからない発言だと思いますが、はあちゅうさんがらみのセクハラ問題をうんぬんする前に、1989年公開ですから、今から約30年前にどんな問題提起があったかぐらいは知っておいてよいかと思います。





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  さて、今日は、この話題からすこーしだけ逸れて、


「何がしかの問題を告発した人が、よく不利益をこうむることが起きるけれど、それがなぜか」


ということについて話をしておこうと思います。これは解脱者ならではのすばらしい視点でものを言いますので、セクハラうんぬんは別にしてお考えくださいね。



 さて、この20年ぐらいの間に、大きな内部告発事件がいくつかあって、その告発をした人や、された会社などがどうなったかは、すでに結果が出ています。



 具体的な事例については↓をご参考に。



 内部告発者の誇りと悔い ~事件後の日々を追って~
 https://news.yahoo.co.jp/feature/629






 結論からズバッと言えば、


「告発した人は一瞬ヒーローのような扱いを受けるが、そののちどん底の責め苦に遭わされる」


というのが、告発の行方の答えです。これは善悪関係ないところでの事実です。




 2017年の日本では、正義に基づいて告発した当人が、まさかの逆風に合うことや、逆に酷い目に合うことは、可能性が高いどころではなく、「そうなるのが必然」とでも言えるくらいの事実なのです。





 なので、セクハラ問題で言えば、伊藤詩織さんについても、はあちゅうさんについても、その告発内容が「正義に基づくもの」であったとしても、彼女たちにもかなりの逆風がブーメランとして帰ってくるでしょうし、すでに来ていると言えるでしょう。




 そのため、結果的には、どのような告発であっても、現在のところ告発者は「討ち死に」を覚悟させられます。加害を加えたり、非道を行っている相手も倒せるかもしれないが、自分も社会的に死ぬんだ、くらいの気概を求められる事態が起きているのが、事実だというわけです。




 なぜこうした事態が起きるのか。解脱者には明快にその理論がわかります。 今日は、それこそ何が正しい、何が間違っているという善悪の議論を抜きにして、なぜこんな不可思議なことが起きるのかをご説明しましょう。





1) まず、すべての人は「力(フォース)」を持っていて、それを自分のために行使しようとします。このフォースには、善悪はありません。よいことにも使えますが、悪いことにも使えます。実力や能力や権力といったものは「フォース」という概念で把握したり、考えたりできるのです。



2) たくさんの権力を持つ人は、フォースをたくさん有しています。会社の上司や経営者は、一般の社員よりもたくさんの実力や権力を持っていますから、100倍や1000倍くらいのフォースを持っていると思ってかまいません。なお、ここには人格のあるなしも無関係です。人格者がフォースをたくさんもっていて、悪人はフォースが少ないとかも関係なく、すべての人が「フォースをたくさんもっているか、あまり持っていないか」に分けられます。




3) フォースそのものには色がついておらず、善でも悪でもありません。ですが、良いことにも使えるし、悪いことにも使えます。

 たとえば、部下のおねえちゃんのおっぱいを触るためにフォースを発動させることもできるし(←悪いこと)、部下のおねえちゃんの処遇や立場を引き上げるためにも使えます(←よいこと)




4)企業経営や運営、会社員としての仕事、あるいはライバル会社との競争など、社会における大半の活動にはフォースが使われます。専業主婦同士のマウントにも使われるし、ツイッターの影響力にもフォースが関係してきます。

 たとえばフォロワーが多ければ、それは案外単純に「たくさんのフォースを持っている」と捉えることもできるでしょう。

  そして、ほとんどすべての社会活動は、「フォースを集め、フォースを使い、フォースで相手のフォースを凌駕する」ということで成り立っています。

 たとえば、A社の持つフォースが大きければ、B社より仕入れ値段を下げさせることが出来て、安くモノを売ったり、シェアを広げたりできます。





5)告発をするということは、このフォースについて「ある人物や企業が、フォースを悪いことに使っています」とバラすことです。ただ、これは、小学生のAさんがBさんに対して「いっけないんだ~、いけないんだ~、先生に言うてやろ~」というレベルとはわけが違います。

 小学生のAさんとBさんが持っているフォースは、単位で言えば10くらいで、どちらもおなじ10とか11とかのフォースですから、AさんがBさんを告発しても、フォース対フォースの戦いは、ほぼ互角です。

 ところが、企業や上司は、あなたよりも1000倍とか10000倍のフォースを持っていますから、その大きさのフォースを悪事に使われると、こっちはたった1000分の1のフォースしか持っていないので、太刀打ちできません。





6)大きいフォースを持っている相手というのは、そのフォースをもちろん良いことにも使えるので、悪事をした自分をかばうために、周囲に言うことを聞かせるためにも使えます。

 これは悪事を隠すためなので、一見すると悪いことですが、第三者から見ると、自分の条件をよくしてくれることなので「良いこと」として捉えられます。具体例を挙げるならば、”告発者を排除する代わりに、あなたの処遇を上げてやろう”と言われれば、第三者から見ると、自分にとっては「良いこと」に見えますよね。





7)ということはつまり、告発者と被告発者は、正義の大小で戦うのではなく「フォースの大小」で戦うことになるわけです。

 すると当然、告発者のほうが、たいていは「フォースの所有量がそもそも少ない」ので、負けてしまうことになります。




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 これが、基本的な告発の構造で、「告発のゆくえ」は、「フォースの大小で決まる」と言ってよいでしょう。


 我々は、不義を見つけると


「正義は我にあり!」


とつい思ってしまいます。もちろん、それでも全然いいのですが、


「フォースは我のほうがあり!」


でなければ、返り討ちにあうわけです。



 では、どうすれば告発を成功させられるのでしょうか。それは、”自分のフォースを増やすこと”に他なりません。

 今回の出来事で言えば


#metoo


のハッシュタグの物量と、話題に同調してくれる人数の多さがフォースとなるわけです。




 はあちゅうさんの場合は、多数の「正義への同調」というフォースを集めることに成功しました。しかし、自分を攻撃する「逆のフォース」もたくさん生まれてしまい、それに返り討ちを食らっている最中でもあります。




 セクハラはいいのか悪いのか、という正義の大小ではなく、「フォースを集められたほうが勝つ」「逆フォースに耐えられたら勝てる」という事態に陥っているのが、現状ですね。





 正義そのものには、実は力はありません。




 正義が集めてくる「フォース」に力があるので、まるでドラゴンボールのように


「オラにみんなの元気を分けてくれ!」


とパワーが集ってきた時にこそ力を発揮する、というわけです。


 めっちゃ正義、バリバリ正義、誰がどういおうと正義、があったとしても、そこにぽつんと横たわっているだけでは、正義は発動しないのはそのためです。




 正義を発動させ、執行するにはまずフォースをたくさん集めたほうがいい。




 そんなことを教えてくれるのが「踊る大走査線」でした。



 室井さんはなぜ偉くならなくてはいけないのか。



 室井さんの生き様こそが、



正義の執行よりも先に「フォースの収集」こそが大事だ



ということを教えてくれるのですね。








 

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